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異世界判事―その奇跡、証拠はありますか?―  作者: 麻野籐次郎
民5119番 エルフの秘薬 その他請求事件
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第72話:三百年

 足元から、わずかに湿った土と苔の匂いが昇ってくる。




 壁は見渡す限りの白樺の板張りで覆われ、磨き込まれた表面は柔らかい飴色を帯びている。王都や宗教自治区の法廷に満ちている、あの石の冷たさはここには存在しない。高い天井を支える太い梁には、鑿の跡が規則正しく並んでいる。大きく開け放たれた窓枠から、初夏の風が緑の香りを運んでくる。風に揺れる葉擦れの音が、絶え間なく室内を満たす。




 ヴァルガス大公国の民事法廷。




 正面の一段高い席に、裁判官のドラガンがゆっくりと腰を下ろす。五十代ほどの、目尻に深い皺を刻んだ男だ。仕立ての良い麻の法衣を纏っているが、佇まいに威圧感はない。長年、種族間の絡み合いを解きほぐしてきた両手は分厚く、指先にはペンダコが硬く盛り上がっている。書類をめくる手つきは、紙の端を痛めないようひどく丁寧だ。




 傍らに控える若い書記官が、羽ペンをインク壺に浸す。かすかな水音が響く。ドラガンは伏せていた顔を上げ、静かに口を開く。




「ヴァルガス大公国法廷を開廷します。原告ラルフ。被告ティルダ。——民事訴訟。請求内容は……謝罪」




 よく響く声が木肌に吸い込まれていく。書記官のペンがぴたりと止まる。金銭の賠償でもなく、物品の返還でもない。彼はわずかに小首を傾げ、ドラガンと証言台の原告の間で視線を往復させた。




◇◇◇




 窓外の枝で、小鳥が短く鳴く。ドラガンは証言台の男へ顔を向ける。




「原告。経緯を話してください」




 促され、ラルフがゆっくりと顔を上げる。三十代半ばの男。分厚い胸板と関節の太い腕は、長年過酷な環境で生き抜いてきた冒険者のそれだ。革鎧には真新しい修繕の跡があり、首筋にはかすかに赤みを帯びた傷痕が覗いている。しかし、日に焼けた頬は削げ落ちており、瞳の奥には光がない。




 証言台の縁に置かれた手は、ひどく強張っている。




「……三ヶ月前。森で魔獣に襲われた。致命傷だった。もう助からないと思った」




かすれた低い声が法廷の空気に落ちる。ラルフは視線を誰にも合わせず、目の前の虚空を見つめている。




「……俺は王国にいられなくなった。仲間を何人も失って、もう組む奴もいなくなった。大公国は人間でも受け入れてくれた。——理由は聞かれなかった」




 被告席に座るティルダは、膝の上で両手を固く組み合わせたまま身を縮めている。緑色のローブを纏った背中は丸まり、長く尖った耳が銀色の髪の間から力なく垂れ下がっている。




「……俺は何度も仲間を見送ってきた。冒険者はな。死ぬより、見送る方がきつい」




 ラルフは証言台の木目に視線を落とす。親指の腹で、白樺の滑らかな表面を無意識になぞり続ける。




「だから……終わるなら、それでもいいと思った。そのとき、俺は穏やかだった。初めてだった。何も怖くなかった。ああ、終わるんだな、と。——それで良かったんだ」




 ひび割れた器から水がこぼれ落ちるように、静かな言葉だけが口の端から滑り落ちていく。窓から差し込む陽光が、床板の上に四角い光の模様を描いている。




「気がついたら生きていた。ティルダが薬を飲ませてくれた。……命は助かった。感謝はしている。だが——」




 ラルフがゆっくりと顔を上げる。被告席で俯くティルダの方へ首を向けた。ティルダの肩がびくっと跳ね、組み合わされた指先がさらに白く鬱血する。




「寿命が数百年に延びたと言われた。俺はあの穏やかさを奪われた。死ぬことを受け入れていたのに、死ねなくなった」




「金が欲しいんじゃない。元に戻してくれとも言わない。ただ——勝手に決めるな。俺の人生を、俺に聞かずに変えるな。それだけだ」




 ラルフは再び視線を落とし、口を閉ざす。法廷には森のざわめきだけが満ちている。書記官は羽ペンを握ったまま固まっている。




 ドラガンがゆっくりと顔を上げ、証言台の男を見つめる。深く頷く。




「……原告の請求は、謝罪ですね」




 ラルフは顔を上げないまま、小さく顎を引く。




「はい」




◇◇◇




 ドラガンが視線を被告席へ移す。




「被告。事情を聞かせてください」




 ティルダがゆっくりと立ち上がる。長く尖った耳が、ぎこちない動きに合わせて微かに揺れる。二百年以上の時を生きているはずだが、肌には皺ひとつなく、若さを保っていた。銀色の髪が窓から差し込む光を反射する。細い指先を胸の前で固く握り合わせた。




「……ラルフが倒れていました。血がたくさん出ていて……このままでは死ぬと思いました」




 ティルダの高く澄んだ声が、白樺の壁に反響する。視線が空中をさまよい、三ヶ月前の森の光景をなぞっている。




「手元にエルフの秘薬がありました。他に何もなかった。時間もなかった。飲ませました」




 言葉を切るたび、短く息を吸い込む。ドラガンは表情を変えずに問いかける。




「寿命が延びる副作用については」




 ティルダは薄い唇をわずかに開く。少しだけ首を傾げた。




「……わかりません。私たちエルフにとって、三百年生きることは普通です。副作用だとは……思いませんでした」




 窓の外から枝葉のすれ違う音が流れ込む。彼女はラルフへ顔を向ける。しかしラルフは床を見つめたまま動かない。ティルダの長い耳が力なく垂れ下がる。




「エルフは……友人が死にかけていたら薬を飲ませます。それは迷うことじゃありません。私たちにとって、長く生きることは贈り物だから」




 胸の前で握り合わせていた両手をほどき、証言台の縁に置いた。指先が小刻みに震えている。




「ラルフを助けたかっただけです。友人が死にかけていた。目の前で。何もしないなんてできなかった」




「ラルフが死を受け入れていたことは知っていましたか」




 ティルダの肩が跳ねる。薄緑色の瞳が、裁判官とラルフの間を往復した。




「……知りませんでした」




 証言台を掴む指から力が抜ける。目に水膜が張り、視線が揺れ動く。




「……助けたことが、間違いだったんですか」




 問いは誰に向かうでもなく、湿った土と木の匂いのする空間に消えていく。




◇◇◇




「参考人イグナーツ氏。人間法務の観点からご意見を」




 傍聴席から、長身の男が静かに立ち上がる。装飾の少ない黒の外套。参考人席へと歩みを進める途中、イグナーツは開け放たれた窓の外へ一瞬だけ目をやった。見渡す限りの深い緑。彼の横顔には表情がない。




 靴音が木張りの床に乾いた音を立てる。証言台の横に立ち、前を真っ直ぐに見据えて口を開く。




「人間の法律には治療前の説明と同意の原則があります。治療の内容と副作用を説明し、本人の同意を得てから治療を行う。これが原則です」




 イグナーツの声は低く、平坦だ。法廷の暖かな空気の中で、その客観的な響きだけが際立っている。




「緊急時には事後の同意で代替できます。意識がなければ、命を救う行為は正当化されます。——ここまでは、ティルダ氏の行為は適法です」




 一度言葉を区切る。証言台の端で俯くティルダを見ることもなく、空間の中央へ声を届けるように続ける。




「しかし。副作用が人生を根本的に変える場合——寿命が数十倍に延びるという副作用は、事後同意の範囲を超えます」




 葉擦れの音が大きくなる。ドラガンが顎を引き、先を促す。




「つまり」




 イグナーツは小さく息を吸う。




「救命は正しかった。だが副作用の説明義務が履行されていない。エルフにとって副作用ではなくても、人間にとっては人生が変わる。——善意と同意は別です」




 ティルダの背中がわずかに丸まる。イグナーツの目は前方を向いたまま動かない。




「善意は、人を救うことがあります。ですが——同意がなければ、それは救命ではなく、人生の決定になります」




 言い終えたイグナーツは静かに口を噤む。窓の向こうから吹き込む風が、白樺の壁を吹き抜けていった。




◇◇◇




「ここに本件の核心があります」




 ドラガンが両手を組む。分厚く節くれだった指が机の上で交差する。




「エルフにとって、寿命が三百年であることは普通です。副作用ではない。害でもない。——ティルダ氏は、害を与えたつもりはなかった」




 被告席のティルダは、膝の上の自分の手をじっと見つめている。銀色の髪が肩から滑り落ちて横顔を隠す。




「人間にとって、寿命が数百年に延びることは、人生の根本的な変容です。友人を見送り、時代を生き抜き、死ねなくなる。——ラルフ氏にとっては、穏やかさを奪われた」




「同じ行為が、種族によって善にも害にもなる。これは悪意の問題ではない。種族間の医療基準が未整備であることの問題です」




 ドラガンは法廷の空間全体を見渡す。目尻の皺がわずかに緩む。多種族が交わるこの大公国で、数え切れない諍いを調停してきた男の落ち着きだ。




「以前、ドワーフの技師が人間に一生外れない義足を作った件がありました。技師にとっては最高の仕事。人間にとっては拘束具でした。——善意が種族の壁を越えると、受け手の意味が変わる。この法廷では珍しくない案件です」




 ドラガンはティルダへ顔を向け、声を落とす。




「なお確認します。——エルフの秘薬の効果は、元に戻せますか」




 窓からの風がふっと止む。ティルダの肩が小さく跳ねる。唇を微かに震わせた。




「……戻せません。秘薬は体質そのものを変えます。不可逆です」




 水に垂らした一滴の墨が二度と元に戻らないように、その事実はすでにラルフの肉体に深く浸透している。




「……不可逆。つまりラルフ氏は、この先数百年、この体で生きることになる」




 法廷が静まる。小鳥のさえずりすら途絶える。ただ高い窓から差し込む陽光の帯の中で、細かい埃がゆっくりと舞っている。




◇◇◇




 沈黙の後、ドラガンは机の上で組んでいた両手を解き、背筋を伸ばす。




「判決を言い渡します」




 王都の法廷にあるような威圧感はない。もつれた糸を解きほぐすための、一つの結論を提示する穏やかな声が白樺の壁に反響する。




「第一。緊急時の投薬行為自体は適法であり、ティルダ氏に救命の責任は問いません」




「第二。しかし、人間に対するエルフの秘薬の投与において、副作用の説明義務が履行されていなかったことは認めます。エルフの基準では副作用ではなくとも、人間の基準では人生を変える重大な影響です。——参考人が述べた通り、善意と同意は別です。本法廷もこれを認めます」




「第三。ヴァルガス民法は、金銭での解決が困難な精神的損害に対し、裁判所が適切な回復措置を命じることができると定めています。——ティルダ氏に対し、原告ラルフ氏への謝罪を命じます」




 ティルダは深く首を垂れる。銀色の髪の隙間から覗く長い耳が、垂れ下がっている。




「金銭の賠償は命じません。原告も求めていません。——ただし、大公国議会に対し、種族間の医療プロトコルの整備を勧告します。善意が人を傷つけることがないように」




「法は万能ではありません。人の心を癒すことも、人生を元に戻すこともできない。ですが——言葉にする場所を与えることはできます。この法廷がその場所であったことを願います」




 窓から初夏の風が吹き込み、木々の葉がざわざわと音を立てる。ドラガンは木槌を打たない。ただ静かに口を閉じた。




◇◇◇




 法廷の木の扉が開き、午後の柔らかな光が流れ込んでくる。白樺の木々を抜けた陽光が、石畳の上に幾つもの木漏れ日の模様を落としている。




 ティルダがラルフの前に立つ。緑色のローブの肩に、丸い光の斑点が落ちている。




「……ラルフ」




「……」




「……ごめんなさい。あなたが穏やかだったことを、知らなかった。知ろうとしなかった。——勝手に決めて、ごめんなさい」




「……」




「……お前が悪いとは思ってない。助けてくれたことは感謝してる」




「でも——」




「でも、聞いてほしかった。死ぬ前に。……無理だったのはわかってる。意識がなかったんだから。——でも、聞いてほしかった」




 森を吹き抜ける風が、二人の間を通り過ぎていく。長い沈黙。




「……これから、どうするの」




「……わからない。三百年もあるんだ。考える時間だけはある」




「……一緒に考えてもいい?」




「……三百年あるんだ。一人じゃ暇だろ」




「……そうだね」




 ラルフがゆっくりと踵を返す。少し遅れてティルダが歩き出した。並んで歩く二人の影が、石畳の上を森の奥へと長く伸びていく。




◇◇◇




 法廷から続く、緩やかな下り坂の森の道。木漏れ日の落ちる柔らかな土の上に、規則正しい足音が響く。




 イグナーツは黒の外套を羽織り、背筋を真っ直ぐに伸ばして歩いている。隣を歩く若い補佐官が、手元の書類を革鞄にしまいながら、横目でイグナーツの横顔を窺う。




「イグナーツ殿。今日の参考意見、的確でした」




「……法律の話をしただけです」




「ラルフさんと、少し似ていますね」




「何がですか」




「居場所を探している人間が、大公国に来た。——同じじゃないですか」




「…………」




 イグナーツは答えない。森の道を歩き続ける。




 道の傍らに立つ大樹。苔むした太い幹の陰から、淡い光の粒がふわりと浮かび上がる。小さな光の粒は音もなく宙を舞い、高い枝から枝へと軽やかに飛び移る。二つ、三つ。葉の隙間から差し込む陽光の帯に紛れ、奥深い森の緑の中へ静かに溶けていった。

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