表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界判事―その奇跡、証拠はありますか?―  作者: 麻野籐次郎
K-1115号 経験値の代償 狩猟法違反事件
64/88

第62話:国際裁判

 ハルトの言葉が虚空に消え、短い静寂が落ちる。 検察席のナターシャが、手元の書類から顔を上げた。 硬質な靴音を一度だけ鳴らし、彼女は法壇へ視線を向ける。


「被告の行為を整理します」


抑揚のない声音。 淡々とした声が法廷に浸透していく。


「一。被告はヴァルガス大公国の領土に無断で侵入しました。入国手続きを経ていません。大公国の国境管理局に記録はありません」


ナターシャはゆっくりと数歩歩みを進め、手にした羊皮紙を軽く振りかざす。


「二。大公国の領土内で五万二八四七体の生物を殺害しました。これは大公国の天然資源の略奪に相当します」


そこで、彼女はぴたりと足を止めた。 振り返り、被告席のハルトを冷ややかに見据える。


「三。大公国が国家として神聖視する種——ズヴェズドカを殺害しました。ズヴェズドカは大公国の文化的・宗教的に不可侵の存在です。これを殺害することは、大公国の国家的尊厳に対する攻撃です」


ハルトは分厚い鉄枷を引きずり、後ずさるように身を縮めた。弁護人のステパンが横から小声で何か囁くが、ハルトの耳には入っていない。彼を射抜いたまま、ナターシャの静かで鋭利な追及は止まらない。


「被告は"魔王領だと思っていた"と供述しています。——なぜそう思ったのか。被告が"魔王領"と信じた根拠は何か。誰がそう教えたのか」


言い終えると同時、彼女はハルトから視線を外し、半円を描く陪審員席へとゆっくり顔を向けた。


「この法廷にいる全員が、答えを知っているはずです」


法廷が静まる。 やがて陪審席の一角で、布地が擦れる微かな音が響く。 誰かが小さく身じろぎしたのだ。


◇◇◇


法廷の空気が僅かに揺れる。 ステパンが静かに立ち上がった。 彼の靴音が石の床に響く。 長身の弁護人はゆっくりと歩を進め、半円状の陪審席へと視線を巡らせた。 手元の資料は開かない。


「私の依頼人は"魔王領だと思っていた"と供述しています。これは嘘ではありません。依頼人は転移者です。この世界に来て数年。この世界の常識を独力で学びました」


被告席のハルトを一瞥する。 踵を返し、彼は再び法壇へ向き直った。


「依頼人が情報源としたのは冒険者ギルドの案内書、酒場での会話、および一般常識です。いずれにおいても、ヴァルガス大公国は"魔王領"と呼ばれていました」


ステパンはここで足を止め、法壇の下に置かれた証拠品の束から一冊の冊子を取り上げた。冒険者ギルドが発行する公式の狩場案内書だ。


「この案内書の十七頁を御覧ください。"魔王領辺境・推奨狩場一覧"と記載されています。"ヴァルガス大公国"の文字はどこにもありません」


冊子を証拠台に戻し、ステパンの双眸が陪審席の一点を正確に射抜く。


「依頼人を弁護するために申し上げます。依頼人は被害者でもあります。四〇〇年間のラベル汚染の被害者です。"魔王領"と呼ばれ続けた結果、依頼人はあの場所を主権国家だと認識できなかった」


ステパンは一歩を引き、法廷の中央で足を止める。弁護人の視線が、傍聴席、法壇、そして陪審席を順に巡った。全員に聞かせている。


語り口に熱はない。


「依頼人の罪を減じるために、この法廷はラベル汚染の構造を直視しなければなりません。四〇〇年前に"魔王領"というラベルを作ったのは誰か。そのラベルを維持し続けたのは誰か」


法廷が静まる。 陪審席の端。 枢機官ベネディクトの顔が、引きつったように強張っていた。


◇◇◇


灰色の壁に囲まれた評議室は、法廷の喧騒が嘘のように狭い。 中央に置かれた重厚な円卓を、選び抜かれた陪審員たちが囲んだ。 高い天窓から差し込む冬の光が、空気中を舞う埃を白く照らし出す。円卓の上には水差しと人数分の杯が用意されているが、誰も手をつけていない。枢機官ベネディクトは、組んだ両手に顔を埋めるようにして座っていた。


「被告は悪くない。ラベルの問題は歴史的経緯であり、自治区に責任は——」


その正面。背筋を真っ直ぐに伸ばしたイグナーツが、微塵も揺らがぬ視線を向ける。


「枢機官。四〇〇年前にラベルを作ったのは自治区の前身です。それは歴史的事実だ。事実を"歴史的経緯"と言い換えても、事実は変わりません」


「……お前はどちらの味方だ」


ベネディクトの問いに、検事は表情一つ変えずに答える。


「法の味方です。——いつも通り」


拒絶された枢機官の視線が、救いを求めるように円卓を彷徨う。 行き着いた先では、弁護士ヴィクトールが椅子に深く背を預け、悠然と足を組んでいた。 陪審席という慣れぬ場所を、彼は心底楽しんでいる様子だ。


「ヴィクトール殿。あなたは——」


「いやあ、普段は弁護席なので。陪審席は新鮮ですね。とても気分がいい。——裁く側ってこんなに楽なんですね。依頼人がいないって素晴らしい」


軽薄な笑みを浮かべ、ヴィクトールは円卓を指先でリズミカルに叩く。


「この被告をどう見る」


「マヌケですね。"魔王領"だと思って好き勝手に狩って、素材を売ろうとして捕まって、国際法廷に引きずり出された。——ここまで見事に全部間違える人間は珍しい。ある意味才能です」


「では、重くすべきだと——」


問いを遮るように、ヴィクトールの目が鋭く細められた。


「マヌケと有罪は別ですよ。マヌケだから有罪にしたら、この世界の冒険者の半分は牢屋だ。——問題はこのマヌケを生んだ構造でしょう? 僕の仕事は依頼人を守ることですが、今日は依頼人がいない。だから構造を見る。構造が腐っている。このマヌケ一人を裁いても構造は直りません」


ヴィクトールの指先が円卓を叩く音が止まった。笑みも消えている。弁護士の目がベネディクトを射抜く。


ベネディクトの顔がみるみるうちに蒼白へと変わる。円卓の全員が——直接にせよ間接にせよ——自治区を指している。彼だけが孤立していた。沈黙を守っていた学者リディアが、手元の分厚い資料を閉じ、静かに口を開いた。


「……構造の問題は同意します。だが構造が腐っていることは、被告の無罪を意味しません。構造の中で被告が何をしたかが問題です」


その隣では、裁判官ルイーゼが事務的に手帳へペンを走らせている。 彼女は顔を上げることなく、冷徹な事実だけを円卓に置く。


「素材の所有権は大公国にあります。被告は大公国の財産を窃取して売却しようとした。——帳簿を見れば一発です。出所証明書がない素材を正規市場に持ち込んだ時点で、善意の取引者とは言えません」


ベネディクトの視線がもう一度、円卓を一周する。イグナーツ、ヴィクトール、リディア、ルイーゼ。どの顔にも味方の色はない。枢機官は口を開きかけ、そして閉じた。


沈黙を破ったのは、ルイーゼの膝の上から聞こえてくる小さな音であった。


「……すー……すー……」


緑色の毛玉のようなモスハウンドが、丸くなって穏やかな寝息を立てている。


◇◇◇


評議を終えた陪審員たちが、一列になって席に戻る。 法廷は墓所のような静寂に包まれていた。 壇上のミロシュが、ゆっくりと判決文を掲げる。


「被告ハルト。有罪」


その二文字が法廷の空気を変えた。ミロシュは静かに書面をめくった。


「一。主権侵害。被告はヴァルガス大公国の領土に無断で侵入し、国家資源を略奪した。これは大公国の主権に対する攻撃行為に準ずる」


彼は一度、陪審席へと視線を向ける。


「二。国際環境犯罪。被告は大公国の生態系を構成する生物五万二八四七体を殺害し、生態系に回復不能の損害を与えた」


被告席で、ハルトの手枷が微かな音を立てた。


「三。神聖文化財の毀損。被告は大公国が神聖視する種ズヴェズドカを殺害した。大公国の文化的・宗教的価値の不可逆的毀損」


壇上の裁判官は、声を一段低くする。


「量刑」


法廷を、重苦しい沈黙が支配した。ミロシュは判決書の最後のページに目を落とす。


「被告のステータスの討伐記録を確認しました。レベル八十七。大公国領内で殺害した生物の数。——五万二八四七体。うち希少種三一二体。神獣一体」


数字が法廷に積み上がっていく。ミロシュの声は淡々としたまま、一切の抑揚を交えない。


「大公国の法に基づき、五万二八四七件の不法殺害。三一二件の希少種絶滅幇助。一件の神聖文化財毀損。一件の主権侵害。不法殺害一件につき致命刑一回。希少種は加重して致命刑三回。神獣殺害は致命刑一〇〇回。主権侵害は致命刑一〇〇〇回。合算。致命刑——五万三八八四回」


法廷が凍る。


傍聴席の記者が手元のペンを取り落とした。乾いた音が石の床に弾ける。陪審席では誰も動かない。


「…………は?」


被告席から漏れた声は、言葉と呼べるかも怪しい空気の塊だ。ハルトの膝が折れかけ、護送官が両脇から支える。鉄枷が一斉に鳴った。


「回復魔法により蘇生し、再度執行します。五万三八八四回全て執行するまで、刑は終わりません」


「そんな……死ぬより——」


「死にません。死なせません。——お前が殺した五万二八四七の命の数だけ、死を経験してもらいます。お前のステータス画面に五万二八四七と表示されていた。それは経験値ではない。命の数だ。その命の数だけ、お前も死ぬ」


ハルトの口から、言葉にならない音が漏れる。膝が完全に崩れ、護送官二人がかりで支えてもなお被告席の縁にしがみつくのがやっとだ。鉄枷が絶え間なく鳴り続けている。


ミロシュは被告から視線を外し、判決書に最後の一行を書き加えた。ペン先が羊皮紙を引っ掻く音だけが、凍りついた法廷に響く。陪審席では誰一人として目を合わせようとしない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ