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異世界判事―その奇跡、証拠はありますか?―  作者: 麻野籐次郎
K-1115号 経験値の代償 狩猟法違反事件
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第61話:大公国

 判決の翌日、ノックの音とともに、書記官が執務室へ入ってくる。 手には見慣れぬ封蝋が施された書簡が握られていた。封蝋の色は深い紺。ヴァルガス大公国の紋章が押されている。


「裁判官殿。ヴァルガス大公国から正式な外交文書が届きました」


「……早いな。判決の翌日か」


ヴェルナーは椅子の背にもたれ、窓の外の空を一瞥した。灰色の曇天が王都の屋根を覆っている。机の上には昨日の判決書の控えが積まれ、その横に飲みかけの胃薬の瓶が置かれている。


「犯罪者の引き渡しを要求しています。——主権侵害、国際環境犯罪、神聖文化財の毀損。……王都の判決とは別件として」


「一事不再理を主張できるか」


「密輸と主権侵害は別の犯罪です。被害法益が異なります。一事不再理は通らないと思われます」


「…………そうだろうな」


ヴェルナーは外交文書を手に取り、封を切った。羊皮紙に印刷された大公国の公用文。書体は端正で、一字の乱れもない。四百年間「魔王領」と呼ばれ続けた国の、正式な外交文書だ。


ヴェルナーは短く息を吐く。


「引き渡しの判断は外交の問題だ。王国の外務当局に回す。——この法廷にできることは、もう全部やった」


「……大公国は中立法廷、エクイリブリアでの審理を提案しています」


「国際法廷か。——そうなるだろう。五万二八四七体の命と、最後の一体の命。この法廷が裁いたのは密輸と窃盗だけだ。本当の罪は、まだ裁かれていない」


ヴェルナーは外交文書を机の上に置き、封蝋の紋章を指先でなぞった。


「裁判官殿。胃薬のお代わりを——」


「……もういい。足りない薬を飲んでも仕方がない」


◇◇◇


国際都市エクイリブリア。 巨大な墓標のようにそびえ立つ、白亜の国際法廷だ。 天を突く尖塔と、大理石の円柱が幾本も並ぶ重厚なファサード。 見上げる者を物理的に圧迫する石造りの建造物へ向かって、重鈍な金属音が等間隔で響き続けている。


王都での判決から数週間後。 禁固刑の服役中だったハルトは、両脇を屈強な護送官に固められ、長く広い階段を歩かされていた。王都の服役囚が着る灰色の麻服に身を包み、冒険者だった頃の革鎧も魔剣も取り上げられている。ギルドカードだけが、証拠品として護送官の鞄に入っていた。


「……また裁判? 俺もう裁かれたじゃないっすか。罰金も払ったし——」


擦れ切れた声が、曇天から吹き下ろす冷たい風に溶ける。 彼の手首を拘束する分厚い鉄枷が、一歩踏み出すごとにジャラリと鈍く鳴った。


「王都の判決は密輸と窃盗。今回は別件だ」


右側を歩く護送官が、前を向いたまま短く答える。 厚手の外套に包まれたその横顔に、一切の表情はない。


「別件って——」


「主権侵害。国際環境犯罪。神聖文化財の毀損。——大公国が起訴した」


列柱の並ぶ回廊へ足を踏み入れる。 外の光が完全に遮断され、底冷えのする空気がハルトの肌を撫でた。 天井は見上げても暗闇に溶けて見えない。壁面には各国の紋章が刻まれた石版が等間隔で嵌め込まれ、足音が幾重にも反響する。王都中央裁判所の何倍もの規模だ。ここでは一国の法ではなく、国と国の間の法が裁かれる。


ハルトはふらりと歩みを緩め、口を半開きにして傍らの男を見上げる。


「…………大公国って……あそこ国だったんすか」


「…………」


◇◇◇


すり鉢状に広がる法廷。 王都中央裁判所の数倍はある。天井を支える太い石柱が八本、円形の空間を囲み、壁面の高窓から冬の弱い光が差し込んでいる。半円を描く陪審員席には、すでに固定枠であるエクイリブリアの法曹と、被害国であるヴァルガス大公国の代表が静かに着席している。 続く選出枠の招集に応じ、重厚な木扉が開かれた。


軽快な足音が、大理石の床を弾くように鳴る。 王国弁護士ヴィクトールが、法衣の裾を揺らして陪審員席へと歩み寄る。 彼は指定された椅子を引くと、大げさな手振りで腰を下ろした。


「いやあ、普段は弁護席なので。こっちの席は初めてです。とても気分がいい」


続く歩みは、這うように重い。 宗教自治区の枢機官ベネディクトが、豪奢な法衣を引きずって姿を現す。 顔には深い疲労の影が落ち、視線は足元の絨毯に向けられている。


彼が席に着くのと同時に、もう一人の男が入廷した。 王国検事イグナーツ。 無駄のない歩調で進み出た彼は、席へ向かう途中でふと顔を上げる。 ベネディクトと視線が交錯する。 二人の視線は外れない。大神判廷以来だ。あの時も同じ空気だった。陪審席の温度が、二人の間だけ数度下がる。


その硬直を破るように、二つの影が続く。 王国上級審の重鎮、グスタフ裁判官。大柄な体躯が陪審席の椅子に収まる。 その後ろからは、アカデミアを代表する学者リディアが、資料の束を抱えて音もなく歩を運んでくる。眼鏡の奥の目は既に手元の資料に落ちていた。席に着く前から事件の論点を整理し始めている。各国の法廷と学府を代表する顔触れが、次々と陪審の椅子を埋めていった。


最後に現れたのは、王都中央裁判所の裁判官ルイーゼだ。 整然とした法服姿。だが、彼女の腕の中には奇妙な毛玉が抱えられている。 ふさふさとした緑色の体毛を持つ四足歩行の生物。傍聴席がざわめいた。記者たちのペンが走る。彼女は極寒の空気が漂う陪審席へ座り、その生物を自身の膝の上へそっと置いた。毛玉はぐるりと首を回して法廷を見渡し、寒そうに体を丸める。


中央の法壇から、大公国の裁判官ミロシュが片方の眉を吊り上げる。


「……陪審員席に動物がいますが」


「動物ではありません。自由な法的主体です」


ルイーゼは法壇の判事へと視線を向けた。


「王都中央裁判所の判例により、この個体は法的主体性を認められています。……私も困っています」


膝の上の緑の毛玉が、くるりと丸まって心地よさそうに目を閉じる。


「ここ、あったかい」


◇◇◇


陪審員たちが着席し、法廷に短い静寂が下りる。 被告席の隣。弁護人席から長身の男が立ち上がった。 大公国が手配した弁護人、ステパン・ノヴァクだ。整った顔立ちに表情はない。手元に書類を持たず、空手で法壇の前に立つ。


「陪審員について。グスタフ判事を忌避します」


落ち着いた声が響く。 傍聴席と記者席から、さざ波のようなざわめきが起きた。 グスタフはゴルグ族判決を出した男。ラベル問題の第一人者であり、大公国の主張に最も理解を示すはずの重鎮である。


「グスタフ判事は亜人種認定判例の主任裁判官です。本件はラベル問題と直結しており、予断を持つ恐れがあります。被告の公正な裁判のために忌避を申し立てます」


論理に一切の隙はない。 名指しされたグスタフは、分厚い顎を引いて巨体を揺らす。傍聴席のざわめきが彼の耳に届いているはずだが、老裁判官は一向に気にした様子がない。


「……まあ、私が予断を持つと言われれば否定はできませんな」


微かに口角を上げ、彼があっさりと席を立つ。 椅子を引く音が法廷に響いた。重々しい足取りで、法廷の奥へと消えていく。 すれ違いざまにステパンを一瞥したが、弁護人は微動だにしない。扉が閉まる音を確認し、ステパンは再び法壇へと向き直った。


「宗教自治区の二名については忌避しません。全ての陪審員を受け入れます。当職は被告の利益を最大限に守ります」


陪審席の端で、イグナーツが静かに目を伏せる。 隣に座る枢機官ベネディクトの顔には、先ほどまでの疲労とは質の違う蒼白さが浮かんでいる。 法衣の膝を握りしめる彼の手が、かすかに震えていた。


◇◇◇


中央の法壇。大公国の裁判官ミロシュ・ツェルニクが、椅子に深く腰を下ろした。 木槌の音が一度だけ法廷に響き渡る。傍聴席は満席だ。各国の外交官、記者、法学者が詰めかけている。王都の通商犯罪の審理とは規模が違う。


「事件番号、国際法廷第二七三四号。検察はヴァルガス大公国。被告はハルト。——罪名。主権侵害。国際環境犯罪。神聖文化財の毀損」


ミロシュの重い声に応じ、検察席から検事ナターシャ・コズロヴァが立ち上がる。 手元の羊皮紙から顔を上げ、冷徹な双眸を法壇へ向けた。


「被告ハルトは、ヴァルガス大公国の領土に無断で侵入し、我が国の生態系を構成する生物五万二八四七体を殺害。うち希少種三一二体。神聖種ズヴェズドカ一体。——これは個人の犯罪ではありません。我が国の主権に対する攻撃行為です」


張り詰めた声が、広い空間に木魂する。 続いて、被告席の隣で弁護人ステパンがゆっくりと立ち上がった。


「被告には弁護人をつける権利があります。被告は転移者であり、この世界に出身国がありません。国選弁護を提供する国がないため、ヴァルガス大公国が弁護人を提供しました。公正な裁判のために」


ステパンが恭しく一礼する。 被告席のハルトは、ぎこちない動きで首を巡らせた。 自身の真横に立つ弁護人。通路を挟んだ向かい側に立つ検事。そして、頭上の法壇から見下ろす裁判官。 三人の法衣の胸元には、いずれもヴァルガス大公国を象徴する意匠が刺繍されている。 ハルトの喉が大きく上下した。弁護人、検察、裁判官。この法廷にいる全ての法曹が、同じ紋章を身につけている。


「……味方、いるんすか」


「私があなたの弁護人です。——安心してください」


「…………」


 いつもご覧いただきありがとうございます。

 感想はすべて目を通しております。タイミングなどによってはネタバレ的回答を含んでしまう場合もございますので、あえて返信できていないところがございます。大変申し訳ございません。

 引き続きお楽しみいただければ幸いです。

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