【32】
「おい石井、この店が中継ハブになってるならメインルーターがあるはずだよな」
石井はそれだけで片桐の考えていることを理解した。二人は店の奥、普段は人の立ち入らない機器室に入った。ネットワークラックは薄暗がりの中、無数の青白いLEDを明滅させている。石井は震える手で、自らのノートパソコンから伸びるLANケーブルをメインルーターのポートに差し込んだ。カチリ、という小さなプラスチックの音が、静寂の中でひどく大きく響く。
「……片桐さん。これからハッキングしますから、目をつぶっててください」
石井の声は、アパートで見せた怯えきったものとは別人のように低く、冷徹だった。片桐は黙って頷き、一歩後ろに下がった。石井の指がキーボードの上で踊りだす。画面上には、漆黒の背景に濁流のようなソースコードが展開された。それは彼が心血を注ぎ、そして結果として「死の選別」を完成させてしまった、呪われたプログラムの正体だった。
「こんなすごいシステムはもう二度と作れないだろうな」
思わず呟いた石井の頭を片桐が叩いた。
「こんなモン、二度も作られてたまるか」
石井は頭を掻きながらも片手で鮮やかにコマンドを入力していく。かつて彼が「世界の救済」と信じて組み上げた論理が、無機質な文字列として解体されていく。冥界側のサーバーと同期している「転送モジュール」が剥き出しになる。画面に宝町支店をハブとして広がる巨大なネットワーク・マップが表示された。数千、数万の緑色のノード。その一つ一つが、銀行の預金者という「生きた人間」の座標だった。
「パージ、開始」
石井が最後の一打を振り下ろす。
【強制終了】
緑色のノードがドミノ倒しのように赤に変わっていく。冥界との接続が次々と遮断されていく。石井が仕掛けた論理爆弾は、彼が作ったプログラムそのものを内側から食い破り、その存在証明を消し去っていった。
窓の外の風景が爆発した。色を失った深夜の闇が、激しい陽光に塗り替えられる。午後の黄金色の光が、窓ガラスを突き破ってロビーに雪崩れ込んできた。
「……っ!」
健太が眩しさに目を細めた時、そこにはいつもの「日常」が戻っていた。無人だった町は買い物や商用に向かう通行人の群れで埋め尽くされている。健太が時計を確認すると、最初に人が倒れてから三分しか経っていなかった。
駅のホーム、銀行のロビー、歩道の真ん中。倒れ伏していた人々が、まるで示し合わせたかのように一斉に身を起こす。
「あれ……? 俺、寝てたのか?」
「なんだ、急に立ちくらみが……」
人々は当惑した表情で周囲を見回した。
宝町支店でも倒れていた人々が次々に意識を取り戻した。オートマタに憑依され、憎悪の叫びを上げて暴れた中年の行員も、しばらく放心していたが、すぐに何事もなかったかのようにネクタイを締め直し、「失礼」と呟いて再びキーボードに向き合った。あの禍々しいジョリー・ロジャーの紋章も、魂を刈り取る回転刃の唸りも、まるでなかったことのようだ。
事件の直後、SNSは未曾有の奔流に飲み込まれた。突然膝から崩れ落ちる人の動画が無数にアップロードされた。
『#世界同時失神』『#神隠し』『#謎の居眠り』
トレンドワードはそれ一色に染まり、陰謀論や超常現象の噂がネットの海を駆け巡った。しかし、その盛り上がりは長くは続かなかった。当事者である預金者たちが、驚くほど無関心だったからだ。
「まあ、疲れてたんじゃないですか? 最近仕事忙しいし」
「立ちくらみなんて、よくあることですよ」
街頭インタビューに応じる人々は、皆一様にそう答えた。彼らにとって意識を失っていたのは三分間だけ。特に体調が悪くなったわけでもなく、かえって本人たちが一番実感がないようだ。テレビのワイドショーでは、御用学者がもっともらしい顔で解説を述べていた。
「これは、大規模な太陽フレアによる一時的な磁気嵐の影響です。人間の三半規管に微弱な電気信号が混入し、一過性の脳貧血を引き起こした。……科学的に証明可能な、ごく自然な現象ですよ」
人々はその「答え」に安堵し、スマートフォンをポケットにしまい、再び満員電車へと消えていった。
宝町支店もまた、元の静かな地方銀行の姿に戻っていた。シャッターの外に冥界へのトンネルなど開いておらず、コンバインやコシュタ・バワー、それにオートマタどもがぶち破ったはずの壁も窓も、何事もなかったように存在している。そこには、戦いの痕跡などどこにもない。午後の陽光に照らされた、少し古ぼけた支店のロビーがあるだけだった。
石井がノートパソコンを閉じた。その顔は、死人のように蒼白だったが、満足気にも見える。肩に手を置かれて振り返ると、指が頬に突き刺さった。人差し指を突き出した片桐が笑っている。隣で真司も笑っている。
「子供か!」
石井も笑いだしてしまった。
「健太さん……」
健太を見上げる美咲の目には涙が光っている。
「みんな助かったんだね」
「美咲の動画のおかげだよ」
「そうだったら嬉しい」
「少なくとも僕はそう思ってるよ」
「健太さん、ありがとう」
美咲が健太の胸に顔を埋め、そんな美咲を健太は強く抱きしめた。
モルは銀行のカウンターによじ登り、店内を見回した。店の奥から真司、片桐、石井の三人がじゃれ合いながら出てきた。モルは彼らに向かって拳を突き出し親指を立てた。
もちろん彼らにモルの姿は見えていない。それでも彼らは一瞬カウンターの方を見て笑ったように見えた。次に抱き合う健太と美咲に向かって同じように親指を立てた。美咲を抱きしめたまま健太も小さく親指を立てた。それから佐藤と主任を目で探したが、二人は見当たらなかった。




