【3】
夜明け前の薄明かりが、東の空を淡い藤色から桃色へと染め始めている。
「パカラ、パカラ」
湾岸道路のアスファルトを叩く蹄の音が、規則正しいリズムを刻む。走るクルマの全くない広い車線を漆黒の馬車が疾走する。早朝とはいえ、この幹線道路にクルマがいないとは考えにくい。既にここは現実でないのかもしれない。二頭の骸骨馬が鼻腔から激しい炎を噴き出し、緑色の幻影のような鬣を夜明けの風になびかせている。剥き出しの肋骨が、見えない筋肉の躍動を物語るかのように上下し、その足元からは、アスファルトを蹴るたびに燐光のような火花が散っている。
御者台では、佐藤が手綱を握り、隣には、ローブ姿のモルがちょこんと座っている。膝の上には佐藤の頭であるジャック・オー・ランタンが大事そうに抱えられ、その灯りが彼女のあどけない顔を柔らかく照らしている。夜明けの空を見上げ、その瞳は期待と、ほんの少しの不安を宿しているようだった。彼女の小さな体に不釣り合いな大きな鎌は、背後の客室の壁にくくり付けられている。
その客室の中では、健太が硬いシートに身を沈めていた。都市のビル群が遠ざかり、太陽の光が水平線から顔を出し始めた。コシュタ・バワーは、夜明けの湾岸道路をさらに加速していった。窓外の景色が後ろへ飛び去る速度がどんどん速くなり、ついには光の奔流へと変わった。ときおりその中を、シャボン玉のような泡がふわふわと飛んでいるのが見えた。
その表面には歴史の一場面が映し出されている。アメリカ空母に突っ込む零戦、風林火山の旗が翻る戦場、九州の海岸に上陸するモンゴル兵、赤壁を照らす軍船の炎。さらに時は遡り、毛皮を纏った人々がマンモスを狩りたてるシベリアが過ぎ去り、馬車が光の奔流を抜けた。窓外には灌木が疎らに生える荒野が広がっていた。
「兄ちゃん! 気ぃ失ってねえか?」
客室の外から佐藤の声が聞こえた。
「ここはどこですか?」
健太は客室の窓から首を出し、前方の御者台に向かって訊いた。
「四万年前の東ヨーロッパだ」
そんな突拍子もない答を聞いても、健太の顔に疑問の色は浮かばなかった。
「これからどうするんですか?」
「いいから見てな」
健太は身体を背もたれに戻して、ぼんやり外を眺めた。絶え間なく吹き付ける風が巻き上げる土埃の他に動くものすらない。そのまま三十分ほど経った。
「兄ちゃん、あの岩の陰を見てみろ」
健太が窓から首を出して見ると、御者台から半身を乗り出した佐藤が馬車の後方を指さしていた。健太は指の先にある大きな、ちょうどクルマくらいの大きさの赤茶けた岩に目をやった。特に変わったことも無さそうだという表情で、それでも目はしっかりと岩を凝視しているうちに、何かに気付いた。それは岩の縁からちらちらと覗く人の頭だった。数人はいるらしい。
「他の岩も見てみろ」
佐藤に言われて健太は隣りの同じような大きさの岩に目を凝らした。やはりそこにも数人が隠れているのが分かった。
「ま、まさか……あいつらはこの馬車を狙ってるんですか?」
健太は無意識のうちに声をひそめて佐藤に訊いた。
「安心しろ。奴等に俺たちは見えない。奴等が狙ってるのはあれだ。ああ、そこからじゃ見えないな。降りてこい」
佐藤の手招きに応じて健太は客室を出ると、御者台の横に並んだ。馬車の前方遠くに一筋の煙が見えた。注視してみると、焚き火を数人が囲んでいる。大きさに差があることから、親子だと思われる。
「ネアンデルタール人の家族だ。あっちの岩に隠れているのがホモ・サピエンス。俺たちのご先祖様だな」
健太が振り返ってさっきの岩を見ると、手に石槍を持った男たちが腰を屈めてそろりそろりと岩の陰から姿を現した。彼らはそのままゆっくり馬車の周りを取り囲むように近寄ってきた。だが彼らに馬車が見えている様子はない。そのまま馬車の前に出てネアンデルタール人のほうへ進んでいった。
「健太、馬車に乗れ」
健太が客室に戻ると馬車がゆっくり進み始めた。ホモ・サピエンスたちの後ろを付いていく。その後繰り広げられた光景を、健太は一生忘れることができないだろう。群れの一人が石槍を高く掲げた。
「あいつらは悪魔だ! 我らの糧を奪い、闇から災いをもたらす異形だ! 根絶やしにせよ!」
それに応えて一斉に鬨の声が上がり、全員がネアンデルタール人の家族に向かって突進していった。彼の言葉を当たり前のように理解していることを不思議に思う余裕もないほど、健太はその光景の悍ましさに怖気をふるった。
ホモ・サピエンスに気付いたネアンデルタール人たちは焚き火の向こうに逃げようとしたが、反対側からもホモ・サピエンスの集団が襲いかかってきた。挟み撃ちを仕掛けられたのだ。父親であろう大きな男が棍棒を持って家族の前に立ちふさがった。彼の体格はホモ・サピエンスより遥かに立派で筋肉も発達していた。一対一ではホモ・サピエンスに勝ち目はない。だがホモ・サピエンスは集団で襲いかかった。最初の一人は棍棒で頭を薙ぎ払われ、あり得ない角度に首を捻じ曲げて吹っ飛んだ。だがその隙に二人目がネアンデルタール人の脇腹に石槍を突き刺した。動きの止まったネアンデルタール人に次々と槍が打ち込まれ、ついにその大きな身体は大地に倒れ込んだ。彼の虚ろな視線の先では彼の妻と二人の子供がうずくまり抱き合って震えている。興奮冷めやらぬ集団が三人に迫った。と、一人のホモ・サピエンスがネアンデルタール人の前に立ちふさがった。
「……待て! 彼らが何をしたというんだ!」
集団の空気が凍りついた。ネアンデルタール人に向けられていた憎悪の目が立ちふさがった男に向けられた。それに怯まず男が続けた。
「彼らも我らと同じ血を流し、同じように子を想っている。悪魔などではない、ただの人間だ!」
「ウル、貴様、奴らの一味か? 我らの団結を乱し、悪魔を擁護するのか。貴様の中に潜む『悪魔の心』が、そう言わせているのか!」
最初に皆を扇動したリーダーらしき男が立ちふさがった男に対峙して言った。
「違う、私はただ真実を——」
「真実だと?」
リーダーが嘲笑するように言い放つと、周囲の者たちも口々に罵声を浴びせ始めた。
「裏切り者だ!」
「群れに災いをもたらす気か!」
「こいつも奴らと同じだ!」
叫んでいたうちの1人がウルのみぞおちを石槍の尻で突いた。ウルはズルズルとうずくまり、そのまま横倒しになって動かなくなった。
「悪魔の手先の言葉に惑わされてはいけない!」
リーダーが石槍を掲げて叫んだ。集団はより一層の興奮に包まれた。




