第1話 発注の桁には神が宿る
3月中旬。埼玉にある地域最大級のホームセンタ「ARX PLAZA白神店」は、春の園芸・資材の最盛期を前にして、独特の慌ただしさに包まれていた。
「株式会社ARX PLAZA」が展開するこの大型店舗は、日用品、DIY資材、園芸、ペット、インテリア、家電……広大な敷地の中にいくつもの巨大な売場が並び、週末ともなれば駐車場は埼玉のナンバーで車が埋め尽くされる。地域住民の生活インフラであると同時に、プロの職人や農家も御用達の、言わば「何でも揃う巨大要塞」だった。
その広大な「園芸・農業資材館」の裏手には、搬入口の陰に隠れるようにして、従業員用の狭い喫煙所が設けられていた。
「ふぅ……」
大宮 蓮(24)は、コンクリートの壁に背中を預け、静かに紫煙を吐き出していた。
身長は172cm前後。黒髪の短髪を、毎朝きっちり7対3のアップバングにセットしている。顔立ちはすっきりとしていて、清潔感があるため普通にモテる部類だが、今は完全に「オフ」の死んだ魚のような目をしていた。
服装は、支給された緑のエプロンに作業着、履き古したジーパン。腰袋には、カッターやメジャー、手帳などがしまい込まれており、使い込まれた手袋やがぶら下がっている。プロの現場職人のような風格を漂わせながら、彼はスマホの画面で自作の「農薬成分早見表」のデータをスクロールし、完璧にサボっていた。
大学の農学部を卒業し、そのまま新卒で入社して2年目の3月。まもなく3年目を迎えようとしている大宮のモットーは、「やる時は一瞬で完璧に終わらせ、サボる時は徹底的にサボる」だ。
そんな彼の至福の時間を破るように、ドタドタと不穏な足音がコンクリートを叩いて近づいてくる。
「大宮くぅん! 大変だぁぁ! 本部から『ジャガイモの種芋(男爵)』が、発注の10倍届いちゃったぁぁ!」
声の主は、園芸・農業資材マネージャーの猪狩 誠(37)。大宮の直属の上司だ。
少し小太りで、猫背気味の体型。いつもサイズが微妙に合っていない緑のエプロンを着ており、肩紐が少しねじれている。おでこには『申し訳ありません』と書いてありそうなほど、情けない困り顔のシワが深く刻まれていた。10年前まではイケイケのバリバリ働く資材担当だったらしいが、管理職になってからは完全に牙が抜け、現在は「事なかれ主義」の極みに達している。
大宮はスマホの画面から目を離さず、携帯灰皿のフタを指先で弾いた。
「猪狩さん。俺の貴重なサボり時間が減るので、大声を出すのはやめてもらえますか。あと、非喫煙者のくせに喫煙所に特攻してこないでください。副流煙で寿命縮みますよ」
「そんなこと言ってる場合じゃないんだよぉ! 現場を見てよ、現場を!」
猪狩に緑のエプロンの袖を力任せに引っ張られ、大宮は重い溜息をついて腰を上げた。
連れて行かれた売り場は、まさに茶色い絶望に満ちていた。
普段なら台車や客がスムーズに行き交うはずの園芸館のメイン通路が、泥のついた木製やプラスチック製のコンテナで埋め尽くされている。中にはこれでもかと丸々としたジャガイモの種芋が詰まっていた。現場に漂う圧倒的な大地の香りと、通路を塞ぐ異様なまでの茶色い壁。
大宮は作業着のポケットに両手を突っ込んだまま、冷めた目でそれを見つめた。
「本部の自動発注システムの桁を間違えたらしいんだ……」
猪狩は薄くなりかけた髪を両手でかきむしる。
「これ、4月の本格的な植え付けシーズンまでに売り切らないと腐って廃棄。僕の評価はガタ落ち、店長には怒られるし、もう終わりだよぉ……」
「つまり、いつもの『丸投げ』ですね」
「人聞きが悪いよ! 僕はただ、要領のいい大宮くんに、この難局の『全権を委任』しているだけで――」
「おい、そこ。何をもみ合っている」
地鳴りのような低い声が、二人の背中に突き刺さった。
心臓が跳ね上がる音と共に、猪狩の身体がビクッと跳ね、目に見えて縮こまる。
現れたのは、店長の大河内 護(48)。
常にピシッとアイロンの効いた白シャツに、店長専用の黒いアークベスト。髪型は一分の乱れもないオールバックで、強面の顔に刻まれた目は一切笑っていない。部下たちからは「蓮沼店の動く弾道ミサイル」と恐れられる超現実主義、成果主義の塊だ。
大河内は大量のコンテナを一瞥し、すべてを瞬時に把握した。画像のように、店長に睨まれるだけで猪狩は縮こまる。そして、蛇のような鋭い視線を猪狩に突き刺す。
「猪狩。……これは何だ」
「ひぃっ! あ、あの、これは本部のシステムエラーでして、その、僕が悪いわけでは――」
「言い訳は要らん。お前の管理不足だ。……大宮」
店長の手が、大宮の肩にガシッと置かれた。骨が軋みそうなほどの握力だ。
「お前の実務能力なら、この程度のトラブル、4月と言わず今月中に片付けられるな?」
「いや、店長。俺はただの2年目社員ですし、これはさすがに物量が――」
「期待しているぞ、大宮。ミスしたら、お前たちの来月のシフトと冬のボーナスがどうなるか、分かっているな?」
耳元で冷酷なプレッシャーを囁き、大河内は足早に去っていった。その背中を見送りながら、猪狩は完全に魂が抜けた顔で通路にへたり込んでいる。
「……はぁ。最悪だ。要領よく終わらせて、定時で帰りますよ」
大宮の目の色が変わった。オンとオフの切り替えが天才的な男の、プロのスイッチが入る。死んでいた目が、鋭く、怜悧な光を宿した。
「猪狩さん、床で凹んでないで動いてください。小売業の本気の本気の見せどころですよ。まずはこのコンテナの山を、自動ドアを入ってすぐ、一番客の目につきやすい店頭入口へ移動させます。裏から長台車を3台持ってきてください。10倍の速さで」
「う、うん! 分かった、台車だね!」
大宮は腰袋からメモ帳を抜き出し、売り場のレイアウトを脳内で組み立て始めた。
農学部時代に叩き込まれた作物の生態特性と、ARX PLAZAで培った購買動線の計算が、頭の中で自然と噛み合っていく。
「種芋を単体で置いても、家庭菜園のライト層は買いません。必要なものを全部その場で完結させる『クロスマーチャンダイジング(関連陳列)』を組みます」
大宮は猪狩をテキパキと動かし、大型のひな壇型パレットを広場の中央に設置した。
最上段の最も目立つ位置には、ゴロゴロとした男爵芋のコンテナを山積みにし、さらにその場で購買欲をそそる「大型のコルトン(写真入りの看板媒体)」を設置。そこには大きく『今植えればGWに間に合う! 芽出し済み・即定植可の厳選男爵』の文字を躍らせた。輸送中の温度変化で動き始めていた小さな芽を、あえて「すぐ植えられるメリット」としてアピールする媒体戦略だ。
さらにその足元には、種芋をカットした断面に塗る定番の「草木灰」の袋を大量に陳列。
さらに横のスペースには、ジャガイモ専用にpHが調整され、あらかじめ軽石や元肥が配合された「じゃがいも専用土」の25リットル袋を、ピラミッド状に高く積み上げた。これなら、プランターで手軽に育てたい初心者でも、迷わず一式をカゴに入れられる。
仕上げに、初期成育を促すカリウム分の多い「ジャガイモ専用肥料」のパレットを動線上に力技で並べ替えた。
「よし、これでいきましょう。これなら、ただの通路だった場所が、一つの『ジャガイモ栽培特設ステージ』に見えるはずです」
――しかし、現実に10倍の物量は甘くなかった。
特設売り場を作った初日。物珍しさに立ち止まる客や、セットで数キロ買って行くライト層はいたものの、相手は大量の山だ。夕方の時点で、減ったのは全体のほんの1割程度だった。
「大宮くん……やっぱり全然減らないよぉ……。明日もまた店長に詰められる……」
事務所のデスクで、猪狩が頭を抱えて半泣きになっている。カチャカチャと、大宮のために自販機で買ってきた缶コーヒーのプルタブを開けながら、手渡してきた。
大宮は腕を組み、静かに売上データを見つめていた。
「……ターゲットが狭すぎますね。家庭菜園の客だけじゃ、この物量は捌ききれない。もっと大口の『ガチの農家さん』を引っ張らないと」
翌日、大宮は作戦を変えた。
朝一番、売り場にやってきた常連のベテラン農家の老人に、大宮は自ら声をかけた。
「じいさん、今年の男爵、もう植えた?」
「おぅ大宮か。いや、今年はまだ種芋買ってねぇな。どこも似たようなもんだろ」
「これ見てみなよ」
大宮はコンテナの中から、ひときわズッシリとした種芋を取り出し、ナイフで綺麗に二つに割った。
「持ってみて分かる通り、水分含有量が均一で実が詰まってて重い。本部のやらかしで、種芋専用の優良農家から一括で引っこ抜いた高単価のロットが、何故か通常価格で紛れ込んでるんだ。これだけ中身が詰まってりゃ、デンプンのノリが違う。マルチ(畑を覆うビニールシート)を敷いて今週末に植え付けりゃ、例年より2週間早く、質のいい新じゃがが出荷できるよ」
老農家は、大宮が差し出した種芋の断面をじっと見つめ、指で触り、匂いを嗅いだ。
「……ほう。なるほどな。お前、農学部を出てるってのは伊達じゃねぇな」
「ただのサボり魔だよ。でも、モノが良いのは保証する」
「よし、裏の畑の分も含めて、10コンテナまとめて貰おうか。軽トラ回すわ!」
「ありがとうございます!」
後ろでハラハラしながら見守っていた猪狩が、飛び上がるようにして喜んだ。
この「口コミ」の効果は絶大だった。地域の農家ネットワークの横のつながりは強い。「アークスプラザに、質のいい男爵の当たりロットが大量に入っている」という噂が、近隣の農家たちの間でまたたく間に広がっていった。
3日目、4日目と経つにつれ、軽トラックで乗り付けて「5コンテナくれ」「うちは3コンテナ」と、まとめ買いしていくプロの農家が急増した。猪狩は腰をさすりながら、必死に汗をかいて軽トラの荷台へコンテナを積み込み続けた。
そして5日目の夕方――。
あれほど通路を塞いでいた茶色いコンテナの山は、ついに数個を残すのみとなっていた。同時に、隣に並べた専用土や草木灰、肥料も、過去最高の売上ベースを記録していた。
「ふぅ……。終わったな」
大宮は再び、いつもの狭い喫煙所にいた。
心地よい疲労感の中、タバコに火をつける。すると、カランと音がして、いつの間にか横に冷えた微糖の缶コーヒーが置かれた。
「大宮くぅん! 本当に、本当にありがとう! 君のおかげで首がつながったよぉ!」
猪狩が緑のエプロンを泥と草木灰で真っ黒に汚しながら、満面の笑みで隣に座り込んできた。タバコは吸わないが、彼は大宮がサボる時、いつもこうして缶コーヒーを持ってついてくる。手には湿布を握りしめている。
「猪狩さん、これで特大の貸し一ですからね。明日の午前中はみっちり、誰にも邪魔されずにサボらせてもらいます」
「あはは、店長に見つからない程度にね……。あ、そうだ、店長といえば、さっき事務所で君の関連陳列の売上データを見て、一瞬だけ『ニヤッ』としてたよ。目が笑ってないから怖かったけど!」
「勘弁してください……。また無理難題を押し付けられる」
大宮の吐き出す紫煙と、猪狩の持つ缶コーヒーの湯気が、埼玉の広い夕空に溶けていく。
ARX PLAZA白神店の、泥臭くも「要領のいい」日常は、こうして静かに幕を開けたのだった。




