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喫茶「鯨淹」

「いらっしゃいませ」

 店内に入ってまず、女性の声に出迎えられた。その声の方向を向くと、一人の従業員と、カウンターの向こうで椅子に座って本を開いている、所謂マスターがいた。

「一人なんですけどいいですか?」

「一名様ですね。こちらへどうぞ」

 案内されたのはマスターの目の前の席だった。メニューを渡され、視線を落とす。

「お客さん。コーヒーは飲むか?」

「え?」

 渋い声でマスターが尋ねる。顔を上げた碧玄と目が合う。

「はい。家でも外でも豆を挽いて飲んでます」

「そうじゃない。今、珈琲は飲むか?」

「今ですか?頼むつもりで来ました」

 質問の意図を読み間違えてしまった。マスターが落ち着いた様子で訂正し、碧玄もそれに返答する。

「じゃぁ、準備する。注文は雲珈にしてくれ」

「わかりました。お願いします」

 再び視線をメニューに戻す。雲珈?とも思ったが、よくよく考えればここには三人しかおらず、必然的に従業員の名前だとすぐに理解できた。

 取り敢えずブレンドとケーキを頼む。写真で美味しそうだったやつだ。

 しばらくして気付いたのが、この店は店内BGMがないということ。

 マスターが珈琲の豆を挽き始めると、それが心地よいBGMとなって店中に響く。

「淹さん、もう上がってもいいですか?」

「…いいよ。お疲れ様」

 従業員の雲珈さんがマスターに、エプロンを外しながら声を掛ける。ミルで、珈琲豆を挽きながら返事する。その表情は真剣そのもの。その姿に思わず魅入っていた。

「すみません。珈琲はまだ掛かりそうなので、先にケーキをお出ししちゃいますね」

 横からケーキの乗った皿が差し出される。

「ありがとうございます」

 お礼を言うと、会釈をして去っていった。

 再び視線をマスターの手元へ戻すと、ドリップの段階に入っていた。

 ゆっくりと、一定の速さで、円を描くようにお湯を注ぐ。ドーム状に膨らんだ豆を眺めながら物思いに耽る。

 自分の内で、誰にも打ち明けることなく、燻っている承認欲求。人が自分から離れていくことで努力すらも諦めてしまった。

 いつかの自分に期待する他力本願な刹那は、過去という檻に囚われ、今刻と隔たれる。

 行き場のない、複雑な数多の感情。身勝手にも自分に見切りをつけた奴への怒りや憤りと、それが事実で、否定する要素がない自分に対する哀れみや悔しさ。その相反する二つの感情の奔流に呑まれていく。

 何度考えても、周りの人々が正しくて、自分が間違っているという結論になってしまう。

 自己肯定感は平地から緩やかな下り坂、やがて崖となり、限りなく、終わりなく墜ちる。

「お客さん。珈琲、出来たぞ」

 そこで思考は遮られる。それが良かった。

「ありがとうございます。いただきます」

 まだ湯気の出ている珈琲を手に取り、香る。―――珈琲独特の香りが、碧玄の心を鎭まらせる。

「美味しいです。珈琲」

「…そうか」

 続いてケーキを口に運ぶ。

「珈琲によく合う」

「それは雲珈が作ってるんだ」

「バイトの?」

「そうだ。菓子作りが趣味だそうでな。追加で支払う代わりに作ってもらってるんだ。常連には隠れて人気がある」

 そう自慢げに話すマスターは一転、碧玄の方を向いて真剣な眼差しで言った。

「悩みがあるならここで吐いて行け。どうせ話す相手がいないんだろう」

「……話すことなんて何もないですよ」

 純粋に心配してそう言ってくれているのかもしれない。だが碧玄はそれを素直に受け取ろうとしなかった。

「そうか。俺には、打ち明ける人がいないから、自分の中に押し込めて、挙句の果てには、現状改善すら諦めていると、見える。本当に、何も無いか?心のケアも、大人の仕事―――」

「知ったかすんじゃねえ!あんたが出来るのは俺の内に関わらないようにするだけだ」

 怒りに満ちた声色で叫ぶ。悲痛な悲鳴は怒りに任せて激情の叫びとなる。

「ここで暴れるなら、帰れ」

「言われなくとも」

 勢いのまま椅子を乱雑に引き、店を飛び出す。

 その背中を追うわけでも呼び止めるでもなく、ただ視線で見つめるだけ。

立ち尽くす、ではなく、分かり切った時を待つように。

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