知の狩人
それから数年の時が流れた。
神聖暦1245年、ゴブリンの縄張り。
グロッグは、肉体的には完全に成長し、すでに『兵士見習い』という名が実態を表さないほどの卓越した戦士となっていた。
その日、グロッグは縄張りの境界線近くの、湿った低木地帯に潜んでいた。彼の眼前に、聖都から派遣されたらしい、騒々しい三人の冒険者の姿が見える。彼らは大声で談笑し、足元の枯れ枝を気にすることもなく踏み荒らしていた。
(キルガの言った通りだ。人間は強大な魔力を持つが、あまりにも油断しすぎている)
グロッグは心の中で人の言葉で呟いた。彼の武器は力ではない。見ることと、考えることだ。
彼は、冒険者たちが次に踏み込むであろう場所を正確に予測し、泥と苔で巧妙に隠したワイヤートラップの傍に、自作の武器を構えた。それは、人の本から構造を学んだ『クロスボウ』である。小さいときから何年もかけて試作を繰り返し、ようやく様になった自信作である。黒曜石の鋭利な矢尻と棒、家畜の羽でできた矢を使用する。ゴブリン社会では前例のない兵器であった。
冒険者の一人がトラップにかかり、足首を地面から持ち上げられた瞬間、グロッグは潜んでいた暗がりから身を起こした。そして、木と腱で強化した弓が、低く鈍い音を立てる。
ヒュッ――!
クロスボウの矢は、ゴブリンの兵士が投げつける粗末な槍よりも速く、正確に、トラップに掛かった冒険者の胸を射抜いた。彼は魔力で身を守る余裕すらなく、力を失う。
(一匹、仕留めた)
(二匹目は……逃げない。学習していない)
グロッグはその場を離れ、次の行動へ移る。
「なんだ?どこから攻撃された!?」
音もなく飛んできた『何かに』警戒し、周辺を見回す冒険者たちを尻目に、グロッグは軽快な動きで木へ登る。想定の範囲外から攻撃を仕掛ける算段だ。
グロッグは木の上からクロスボウを構え、冒険者の一人に焦点を当てる。そして、矢が放たれる。
「ぐあぁあ!」
放たれた矢は冒険者の首にある動脈を確実に射抜いた。その後、すぐに木から飛び降り、持つ武器をクロスボウから斧へと変える。
「上!?しまっ……」
残された一人の冒険者が気づいた頃には、もうグロッグは彼の目の前まで下りてきている。グロッグに気づいた冒険者が声を上げる。
「う、うわああぁあっ!」
咆哮……予想外だった。伏兵への合図だとまずい。
冒険者の口を塞ぎ、高速で黒曜石の斧を振り、瞬く間に首を落とす。
だが彼は最後まで気を抜くことはない。首の落ちていない冒険者は本当に事切れているかを確認する。
人は、死んだふりをすることで反撃の機会を窺ったり、その場を逃げ切ったりしようとすることがある。これを人の本で学んでいたグロッグには、そのような手でだますことはできない。
倒れたもう一人に、念を押すように――
クロスボウの矢を、死角から心臓へ突き刺した。
グロッグは、仕留仕留めた冒険者の荷物を漁り始めた。他のゴブリン兵士ならば、光り物や食料を求めるだろう。しかし、グロッグの目的それだけではなかった。
彼は、冒険者の腰に提げていた皮表紙の分厚い本や、精巧な薬草の調合に関する小冊子や薬を真っ先に確保した。特に、彼は小さな瓶に入った薬を注意深く手に取った。
「これは、人の知識の結晶だ。なぜ、この液体は傷を癒やすのか? ゴブリンの薬師には、まだこの知識がない」
彼は、その仕組みを理解し、応用できるものだけを選び出した。仕組みを理解できれば、それは彼自身の力となり、集落の文明を一段階引き上げることができるのだ。
グロッグは武器と拾った道具を持って帰路につく。
彼は、森の暗さや死角、そして人間の傲慢な慢心を利用した『戦術』によって、実戦経験豊富な並のゴブリン兵士よりも遥かに強靱な、狩人となっていた。
狩りを終えたグロッグが集落に戻ると、焚き火の周りは活気に満ちていた。
集落の様子は、彼の幼少期とは一変していた。かつては骨と木が主だった武器や道具も、黒曜石で統一されつつあった。
ゴブリンの職人たちが打ち出す黒曜石の刃は、光を吸い込むような冷たい輝きを放ち、その切れ味は人間の鉄製ナイフにも匹敵する。
かつては素手で引き裂いていた子供たちでさえ、加工された硬い石のナイフで獲物の皮を剥いだり、木を削ったりしており、生活の効率が格段に向上していたのが一目瞭然だった。
グロッグは、集落の長に狩りの報告を終えた後、自分の小屋へと戻る途中、一人のゴブリン兵士に声をかけられた。
「グロッグ、今日の結果はどウだった?」
ゴブリン兵士は、ゴブリンの言葉ではなく、人の言葉で尋ねた。
「成功だ。三人の人間と、新しい本だ」
……わずかに思考が止まり、言い直す。
「……いや、三匹でいいか」
グロッグもまた、人の言葉で応じた。彼の教育の結果、今や集落の一部の大人……特に兵士は、戦闘や情報伝達に必要な人の言葉を理解し、日常会話に取り入れるようになっていた。
日が落ち、焚き火の火が燃え盛る中、グロッグの周りには、ゴブリンの子どもたちだけでなく、狩りから戻った大人の兵士たちも集まっていた。
「さあ、今日の知識だ。人が『地図』と呼ぶものには、我らの縄張りだけでなく、聖都に至る道筋、そして敵の弱い場所が全て書かれている」
彼は、冒険者から奪った羊皮紙の地図を広げた。
「『地図』の言葉は、『マップ』だ。この線の描き方には、知恵が隠されている。これを読めるようになれば、我らは森の外で戦うことができる。魔力を持たない我らの最強の武器は、人の言葉と、人の知恵だ」
「しっかり覚えて。力は奪える。だが知恵は奪われない」
その言葉を、子どもだけでなく、大人たちも黙って聞いていた。
……誰もが、彼の次の言葉を待っていた。
焚き火の音だけが、静かに弾けていた。




