最終話:賢者の日記
気持ちが悪い、吐き気がする。世界がぐるぐると回り、頭には絶え間ない鈍痛が走る。目の奥がチカチカするような痛みも感じるが何も見えない。どこまでも深くへ落ちていくような、それとも空へと昇っていくような、何ともいえない不快な浮遊感に体が包まれている。時間の感覚は無く、一体自分が何者なのかも分からない。その暗闇の中、一点の光が見えた。その光を見た途端、急速に意識が引っ張られて行くのを感じた。
朦朧とした意識のまま、うっすらと目を開けると、古ぼけた木造の天井が見えた。自分は何者なんだろう。どうしてここに寝ているのだろう。体全体にひどいだるさが纏わり付き、指一本動かすことすら億劫だ。半目のままぼんやりと天井を眺めていると、ぼさぼさの髪をした、一人の痩せぎすな男の顔が見えた。どこかで見たことのある顔だ。
「気がついたか?」
男が小さく声を掛ける。その聞きなれた音を聴いた瞬間、意識が急速に覚醒していく。そうだ、自分は人型の魔法生物であり、主人と自分のために命を投げ出したのだ。そう意識した瞬間、頭の中の靄が一瞬で吹き飛んだ。そしてこうも理解できた。ああ、自分は死んだのだと。
「あの世って、意外と狭くて汚いんだね」
「余計なお世話だ。ベッドまで使わせてやってんのに贅沢言うな」
「う……?」
言葉の意味が理解できない少女は、疲労感の残る体を無理矢理起こす。急に上体を起こしたしたせいで少しふらつくが、どうやら自分は普段寝ているソファではなく、主人が使うベッドに寝かされていたということ、部屋の中はランプが一つ燈っているだけで、部屋の中は暗く、今が日中では無いということが見て取れた。
「……おはよう? こんばんは?」
「微妙な時間帯だな、お前も五、六時間は寝てたしな」
「寝てた……? な、なんで!?」
どうやら自分はまだ生きているらしいと少女は把握したが、何故自分は生きているのだろうか。魔力を抽出されてしまえば魔法生物である自分が生きている筈は無い。主人が手を抜いたのだろうか。困惑する少女に対し、主人である彼はばつが悪そうに頬を掻きつつ疑問に答えた。
「その、俺も暫く経ってから気がついたんだが、魔法生物から魔力を抽出すれば死ぬ。これは間違いない」
「うん……」
「だが、その抽出する魔力自体が殆ど無かったら?」
「……うん?」
彼の主張はこうだった。魔法生物から魔力を抽出するのは、いわば人間の血を吸い取るような物で、魔力で大部分が構成されている個体なら、人間で言う出血多量の状態となり死に至る。しかし、少女の体に魔力は殆ど無く、食事でエネルギーの大部分を補っていた。
早い話が、魔力に依存する部分が通常に比べて少なかったため、出血多量ではなく貧血程度で魔力が尽きてしまい、結果として意識を失うのみに終わった。その後、彼は慌てて少女を介抱しベッドに寝かせ、現在に至る。というわけである。
「……というわけだ、理解できたか?」
「…………」
少女は何も言わずに呆けている。暫くの間お互い沈黙していたが、その静寂に耐え切れなかったのか、彼がしどろもどろに言葉を紡ぐ。
「いやその、何だ……生きててよかったじゃないか」
瞬間、
「……っ! 良くないっ!!」
凄まじい勢いで少女が叫ぶ。涙をボロボロと零し、顔を真っ赤にして彼を睨み付ける。どうやら踏んではいけない地雷を踏んでしまったらしいと彼は狼狽するが、少女はもはや止まらない。
「うぅ……! かっこ悪い! かっこ悪いよぉっ……!! 何で!? 何で私は役に立てないの!? 私なんて死んじゃえばよかったんだぁ! かっこ悪いよ! あんなに役に立てるって言ってたのに……! 結局何にも出来ないで寝てたんだぁー!」
最後の方は支離滅裂で、もはや自分が何を言っているのかも分からないのだろう。わんわんと泣き喚きながらベッドに突っ伏す少女に対し、彼は何も言わず傍らに座って見ていた。いや、何も言えなかった。
彼としても少女の気持ちは理解できた。自分の存在する理由を見つけ、それに対し身命を捨て使命を果たすと豪語した。その結果、何の成果も出せず他人に迷惑を掛け、自分はのうのうと眠っていたのだ。情けないなんて物ではないだろう。
相変わらず感情の爆発するまま、ひっくひっくとしゃくりあげる少女に対し自分は何も出来ない。こういう時、気の利く人間だったらさらっと励ましの言葉を掛けられるのだろうか、どうすればいいか自分にはまるで分からない。彼はそんな風に卑下しながら、ただ少女が泣き止むまで、ランプの明かりと少女の泣き声だけが響く小さな小屋の中、ただ黙って傍に座っていた。
――どのくらいそうしていたのだろうか。依然ベッドに臥したままの少女から、すすり泣く声だけが聞こえてくる、落ち着いたというより、涙も体力も枯れ果てたと言うべきだろうか。寄り添うように座っている彼も、昨日の業務報告の疲れを押して魔力の抽出作業を行い、そのまま徹夜でずっと少女の様子を見ていた。そして、その疲労の果てに得た物は何も無い。
そんな砂を噛むような時間を過ごし、目の前には同じように泣き疲れた少女、暗闇の支配する部屋、この状況で輝かしい未来を想像できる人間が居るのだろうか。そして、彼はぽつりと呟いた。
「…………死ぬか」
その言葉に反応した少女は、泣き腫らした顔を上げ主人である彼を見上げる。主人の顔は疲労と睡眠不足、そして諦観に覆い尽くされ、その言葉が冗談ではないと如実に語っていた。
「俺たちは失敗した。失敗から学ぶことが出来ると思ったけど、結局何も変わらなかった。このまま生きてたっていい事ないだろ」
「そう……だね……」
今までの少女だったら露骨に反論しただろう。だが、外の世界を見て、自分の矮小さを知ってしまった今ではその提案はひどく魅力的に感じられた。このまま負け続けて生きていても惨めなだけだ。そう考えた少女は、彼に同調するように頷いた。
山小屋の中で死んでしまっては後任に迷惑が掛かる。人に迷惑を掛けないで死ぬ方法は意外と少ないが、少しでも軽くしたい。そう考えた彼は、昨日作業を行った平原から少し離れた場所に、切り立った高台があることを思い出し、そこに身を投げることにした。少女はただ黙って彼に付き従い、高台へ向かうため、彼は山小屋のドアノブに手を掛けた。
「う……!」
ドアを開けた瞬間、眩い光が差し込み彼らの網膜を灼く。窓に雨戸を下ろしていたため全く気がつかなかったが、どうやらもうすぐ夜が明けるらしい。向かいの山からほんの少しだけ太陽が顔を出しているのが見えた。世界が自分達が死に易いように道を照らしているのだろうか。そんな風に考えながら、仄明るい道を二人で歩んでいった。
「ん……? 何だあれ?」
まだ昇りかけの太陽の弱い光に照らされる平原の中、何かが重なり合って小さな山を作っていることに気がついた。昨日まであんな物は無かったはずだ。疑問に思い、少しだけ警戒しながら近づくと、その小山が草や花によって作られた塊であることが分かった。遠目からではいまいち分からなかったが、丁度彼と同じくらいの背丈と幅があるようだ。
「マスター、これ何?」
「多分、昨日抽出した魔力が漏れてたんだろう。その影響で急に成長したんじゃないか?」
「もしかして、これって凄く役に立つ薬草とかだったりするの?」
期待を込めた目で少女が彼を見上げるが、彼はその草花の塊を一瞥して首を振る。
「いや、全部ただの雑草だな」
「そっかぁ……」
その言葉に再びしょげ返る少女であったが、俯いた瞬間、少女を見上げるように草の塊から見上げる生き物と目が合った。そこには一匹の鼠が居た。よく見ると一匹だけではなく、奥に少し小さな物が何匹か居る、どうやら家族のようである。
くりくりとした瞳で見上げてくる小さな生き物に興味を引かれ、少女は思わず手を伸ばすが、それに驚いた鼠は大慌てで塊の奥へ飛び込む。その衝撃で塊が揺れ、上部から何かが飛び出した。
草花の塊から飛び出した物、それはまるで宝石のような蝶だった。花の蜜を吸い、草むらでたっぷりと休息を取っていた蝶は、まるで瑠璃のように光り輝く青い羽を思う存分空へと伸ばした。蝶はまるで礼を言うかのように、彼と少女の周りをふんわりと旋回した後、昇り始めた太陽の光をその四枚の宝石に反射させ、空高く舞い上がった。
その光景を、彼はただ黙って眺めていた。平原に聳える草花の小山、警戒するように見上げる鼠の一家、澄んだ空気、凪いだ森、穏やかに頬を撫でる朝の少し冷たい風、その中をきらきらと輝きながら躍るように舞う一匹の蝶。それを呆けたように見上げる短髪の少女。その一つ一つを、山間から昇る太陽が燃えるような黎明の光で照らしている。
少しだけ涙が出た。何故だ。極限の疲れがそう感じさせるのだろうか。彼にはまるで理解が出来なかったが、自分が何かとても厳粛で、静謐な世界を見ていることだけが感じられた。この景色に比べれば、彼の悩み、彼の感情など取るに足りないちっぽけな物に思える。
錯覚だろうが幻覚だろうが何でも良い。細かいことを考えるのを止め、彼は今の気持ちの赴くまま言葉を紡ぐ事にした。今この瞬間なら何が来ても負けない。不思議とそんな気持ちになれた。
「なぁ……」
「何? マスター」
いつもと少しだけ雰囲気が違う主人を見て、少しだけ身を構えていたが、不意に頭に手を乗せられたことに驚いた。いつものぽんぽんと軽く叩くような動作ではなく、ガラス細工を扱うように丁寧に頭を撫でられたからだ。
「俺……前にお前が俺のことを強いって言ったとき、少し戸惑った。何せ俺は人から褒められたことなんか殆ど無かったから」
「え? マスターは強いでしょ?」
「俺は強くなんか無い。お前から見たらそうかもしれないけど、俺はただのカスなんだよ」
「……怒ってるの?」
以前にもこんなやりとりをしたなと思いつつ、彼は魂の赴くまま、心から出る言霊を発し続ける。
「いや、嬉しかったんだと思う。今になって分かった」
「なんで?」
「例えお前の勘違いだとしても、誰かから必要とされる事が嬉しかったんだ」
「必要とされる?」
「ああ……こいつを見て分かった」
こいつ、と呼ばれて彼が顔を向けた方向、そこには雑草が絡み合った、件の草花の塊があった。
「これ? でもこれただの雑草なんでしょ?」
「そうだ、何の役にも立たない物だ」
「じゃあ……」
「でも、お前は小さな存在を救ったじゃないか」
「へっ?」
何を言われたか分からない少女は、大きな目を見開いている。その様子に柔和な笑みを返しながら、答え合わせをするような口調で喋り続ける。
「もし俺達が失敗せず、何もしなかったらこの草花の城は出来なかった。そしてこの場所が無かったら、鼠たちも蝶も休む場所が無く、死んでたかもしれない」
「お前は、そいつらにとって強くて頼りがいのある存在なんだよ。かっこいいじゃないか」
彼はとても落ち着いた声でそう言い切る。その自信ある口調は、まるで悟りを得た賢者が迷える子羊を導いているようにも見えた。
「確かにお前……俺たちは能力の無い、この広い世界ではちっぽけなカスみたいな存在かもしれない。だけど、そんな俺たちを必要とする存在がどこかにもっと居るんじゃないか?」
「わたし達が……必要?」
「はは……今更何言ってるんだって感じだよな。俺もそう思う。でもさ……今この瞬間だけは、間違いなく本当にそう思うんだ」
そう言いながら微笑を浮かべる彼の顔はとても穏やかだ。彼の心に呼応するかのように、穏やかな風が吹き、周りの木々や草花を静かに揺らす。それはまるで、彼の意見に同意し、頷いているようだった。
「だから……もう少し、もう少しだけ悪あがきしてみないか?」
「…………」
「俺の言っている意味、分かるか?」
「わかるよ」
そう言いながら、少女は泣き出しそうな、それでいて笑い出しそうな笑顔を浮かべた。鏡があれば、彼も同じような表情をしていたのが分かったのかもしれないが、そんな物など無くても、自分が少女と同じ顔をしているのだろうな、と思っていた。
「マスター、ひどい顔してるよ」
「……お前に言われたくねぇよ」
涙と鼻水の後が顔中に残り、短い髪にたっぷりと寝癖をつけた少女と、目の下に隈を作り、よれよれの服とぼさぼさの頭の彼らは、お互いに笑いあった。
手を繋ぎながら小屋へ戻る途中、彼はとても大事な事を思い出した。急に足を止めた彼を不思議そうに少女が見上げる。
「名前……」
「なまえ?」
「お前の名前だよ。まだ決めてなかったな」
それはとても大事な物。この世に祝福された証。何故自分はこんなことを忘れていたのだろうか。少し考えて、彼は思いついた言葉を口に出した。
「カスガ」
「カスが?」
「春日、古代の言葉で『春の日』という意味だ。お前の生まれたのも春だしな。どうだ?」
そう言われて暫く呆然としていた少女だが、口の中で「かすが、かすが……」と何度か呟くと、ぎゅっと手を握り返して彼に微笑を返した。それはいつもの能天気な笑みではなく、その名の通り、春の日差しのようなとても柔らかな笑みだった。
「それでマスター、これからどうするの?」
「さぁ、どうしたもんかなぁ……」
そう呟きながら彼は思う。現実が変わったわけではない、補助業務は後二ヶ月しか受けられないし、少女も自分も相変わらず出来損ないのままだ、その後のこと等まるで見通しは付かない。でもきっと出来ること、やるべきことはあるはずだ。自分達はまだ生きているのだから。
しかし、この静謐な、天にも等しいこの感覚もいつまで続くか分からない。人間の意思ほど移ろいやすい物は無い。まして意思の弱い自分のことである、現実の辛さに押しつぶされ、明日には忘れてしまうだろう。
だからまず、この気持ちを忘れないうちに日記に記しておこう、と彼は考えた。この先辛い現実など掃いて捨てても捨てても無限に沸いてくるだろう。だが、あの時、あの場所、あの一瞬だけ、自分は確かにこの世界の深遠を垣間見た存在だった。そんな気持ちのほんの一かけらだけでも後世に残し、自分や誰かを踏ん張らせる一つのピースとなるのなら、それはとても意味のある行動ではないだろうか。
そんなことを考えながら歩いていると、遠くに山小屋が見えてきた。改めて遠目から見直すと本当に小汚くてぼろっちい小屋である。だが、そんな小屋を目指して、少女、カスガは元気良く駆け出した。少し進んだところで後ろを振り向き、早くおいでと言わんばかりにぶんぶんと手を振っている。
その様子に苦笑しつつ、彼はカスガの後を追っていく。既に旭日の太陽は空高く昇り、彼らの進む道を照らしている。その太陽を見上げ、カスガは何か呟いている。彼が近寄り耳を澄ますと、高く歌うようにこう言っているのが聞こえてきた。
「――お日さん、お日さん。どうぞ私たちをあなたの所へ連れてって下さい。私たちのようなみにくいからだでも、頑張れば小さなひかりを出すでしょう。どうか私を連れてって下さい」
太陽の眩しさに目を細めながら、高く頭を上げカスガは祈る。そんなカスガに手を差し出すと、今度は太陽のような笑顔でその小さな手を、少女なりの力いっぱいで握り返してきた。
太陽はまだ昇ったばかりで、これから一日が始まる。目的地までの道のりはまだ遠い。疲弊しきった彼とカスガは休み休み、少しずつその距離を詰めていく。繋いだ手から伝わる温かい鼓動、いつも見慣れた周りの景色から感じる生命、そして、太陽から降り注ぐ眩しくも柔らかい春の日差しの中、手に手を取って長い道をゆっくりと歩いていく。
――ああ、今日は……暖かいな。
これにてこの物語は終了です。最後までお付き合い頂きありがとうございました。




