01 推しを探しに
※本作は災害を題材にした描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。
宮崎日向は決めた。
何もかもなくなったこの終末、推しを拝みに行くのだと。
それが正しい選択なのかは、まだ分からないけれど――。
(あぁ……こんなに呆気ないんだ。まるで終末ってやつね)
静かな山から街を見下ろしながら、日向は夢心地で考える。
それは何気なく過ごす日々の中で、突然襲い掛かってきた。
地面が上下左右に跳ねたかと思うと、しばらくそれは続いた。
古い建物は倒壊し、ドミノのように沈んでいった。
それから数時間後、水の壁が押し寄せてきて――倒れた瓦礫などを連れ去って行ったのだ。
日向も何とか高い山の上に逃げて、寺に身を寄せた。
当然、そこにも知り合いや友達はいない。
生まれた時から家族もおらず、拠り所はバーチャルアイドルのシンシアだけ。
オフラインに保存していた動画が、まだ辛うじて見れる。
放心状態の日向は、縋るように動画のアプリを開き、保存していた動画を視聴した。
「数日以内に、大きな地震が来るわ。私は被災した後、西の京にある星霜山でしばらく過ごすの……よかったら、会いに来てね」
推しが最後に残したメッセージは、そんなものだった。
(西の京って、まさにここなんだよね。星霜山もあるし。よその人は京都って勘違いしそうなのが、暗号めいてて最高!)
偶然の一致か、はたまた呼ばれているのか、シンシアの示した土地はまさに今いる県だ。
未来を的確に当ててしまうことで、密かに人気を博している推し。
日向はそんな彼女の配信が、唯一の楽しみだった。
「日向ちゃん、いつもありがとう! 貴女はそうね、きっと幸せになれるわ。困難を乗り越えたら、喜びの国が訪れるの」
「日向ちゃん、いつか会ってみたいわね」
シンシアは声が透き通っていて、聞くだけで癒やされる。
投げ銭を送る度に、心のこもったメッセージに励まされてきた。
いつも送っていたから、名前も覚えられていたのだ。
会ったこともないのに、日向にとってシンシアは家族も同然の存在だった。
彼女と話すほんの少しの時間だけが、灰色の日常に色彩を与えたほどに。
◆◆◆
類稀なる大災害より数日――余震が収まったのを確認して、日向は旅立つことにした。
(星霜山でしょ。休みながら歩いて、三日くらいで行けるかな。シンシアちゃんも、きっと無事よ。水や食物は……何とかなるっしょ)
と、かなり楽観的で計画性もない目標を立てた。
備えていたと言っても、少し保存食を持っていた程度だ。
真夏で災害時というのに、日向は謎の自信を持っていた。
日向がやってきた寺は、荻市の避難所に指定されている場所だ。
自宅は内陸部の別の市にあるが、営業でこの辺りに来ていた。
物資もそれなりに置いてあるし、思っていたよりも居心地がいい。
十人くらいの人がそこにいて、日向以外は家が壊れたことに悲しんでいる。
山間部の家々は古く、強い揺れで倒壊した家なども多い。
家が壊れて家族を失った人たちも、中にはいたようだ。
(家族がいなくてよかったのかも。こんな時に、何も失ってないから。最初から何もないのも、悪くはなかったのかもね)
元より児童養護施設で育ち、高校卒業と共に何となく就職した。
夢もない日向にとって、この世は生きにくい場所だった。
だからといって、自殺願望があるわけでもない。
漠然とした将来の不安を抱えながら、仕事で疲れ、眠り、また起きて仕事に向かう――無機質な毎日の繰り返し。
そんなことも、もうしなくていい。
失うものがなかった彼女にとっては、むしろ新たな世界の始まりでもあったのだ。
(全く外の情報が見えてこないよね……)
震災直後はネットも少し繋がっていた。
南海トラフ地震が来たとか、そんな風に騒がれていたのを日向は思い出す。
(南海トラフって、めちゃくちゃ騒がれてたもんね。この辺はそんなに高くなかったけど、日本海側にまで津波が来たってことは……太平洋側とかは、もうめちゃくちゃなんだろうね)
避難所の中で起きて、日向は汗が張り付いたシャツで背伸びをする。
十五年ほど前の震災の影響からか、備蓄品などはかなり用意されているようだ。
避難所とはいえ、大部屋にダンボールで仕切り、そこで寝て暮らすだけ。
もちろん着替えなんてないし、風呂にも入れていない。
(汗拭きシートとドライシャンプー、たくさん用意しててよかった!)
七月初旬という暑さの中で、女子としては致命傷だ。
そんなことくらいしか考えられないくらい、彼女には喪失感など何もなかった。
彼女があっけらかんとしている傍では、しくしくと泣く声がずっと聞こえているのだが。
(あの人たちには申し訳ないけど、しばらく仕事にも行かなくていいんだ。家賃も、車も、保険も、税金も……復興したら、そのうち払わないといけないのかな。はぁ、嫌だな)
家族がいないから、心配するのはお金のことばかり。
避難所では何度もラジオを受信しようとしたが、そもそも放送されていないようだ。
(そろそろ行こうかな。なんか、余震っぽいのもないし)
避難所の出入り口に立ち、山から景色を見下ろした。
夏の暑い朝日が気持ちいい。
そして、人知れず避難所を出ようとする。
通勤に使っていた、フェイクレザーのトートバッグを持って。
中身はスマホ、充電器、水、それに財布や仕事で使う資料など――必要ないものも入っていたが、そんなところだった。
「お嬢さん、どこに行くんだい?」
スニーカーを履き、寺を出ようとしたところで、同じ避難所にいた男に声をかけられる。
そこの住職だったのだが、日向は警戒した。
(これってヤバいやつ? 避難所で犯罪があったとか、ネットで見たし。さすがにお坊さんだから、変なことはしないかな)
身構える日向だったが、住職は適切な距離を取ったままだ。
「私、どうしても大事な人に会わないといけなくて……お世話になりました」
挨拶だけして去ろうとする日向。
すると、住職はダンボールの中から、備蓄品の水を数本取り出した。
「それぞれ事情はあるからね。止めはしないが……昨今の夏を舐めちゃいけないよ。自衛隊が来るまで、待てないのかい?」
「はい。そもそもラジオ放送もないので……自衛隊も機能しているのか、よく分かりませんから」
「確かに、この津波だと不安だね。電波も入らなくなったし、この辺りがこんなになるなんて。とりあえず、これを持って行きなさい」
住職は五百ミリリットルのペットボトルを五本、乾パンを二缶ほど、半ば強引に日向のカバンに入れた。
それらの重みが肩にかかる。
見ず知らずの人に親切にされ、日向は戸惑っていた。
この二十二年の生涯の中で、誰も彼女を心から気に掛けることはなかったし、逆もそうだったからだ。
「あ、ありがとうございます……」
反応に困りながらも、ひとまずお礼は言った。
何らかの見返りを求められても困るので、まだ少し警戒してしまっている。
そんな日向の足元に、茶トラの猫が擦り寄ってきた。
「うちは猫寺でね。避難所にしているところとは別の棟で、猫を飼っているんだ。こうして野良の子もやってくる」
静かに住職は語る。
今はそれらしい格好はしておらず、普通のTシャツにジャージを穿いているから、一般人と大差ない。
日向は推しのことばかりに集中していて、周りのことにまで気を配っていなかったと気付かされた。
(このお寺だけじゃない……私、いつもそうだったな。日常に興味がなかったから)
当たり前のように備蓄食をもらっていたが、自分から関わろうとしなかったのだ。
ただ、猫は可愛らしい。
生きていてくれてよかったと、心から思える。
そっとしゃがんで、日向はその猫を撫でた。
営業の仕事でパンツスーツのままだったが、スカートじゃなくてよかったとすら思う。
この方が動きやすいのだ。
「猫ちゃんたちのためにも……自衛隊でも何でも、物資が来てくれるといいですね。もし旅先で会ったら、このお寺のことを話しておきます」
人間はあまり好きではなかったが、動物は好きだ。
あの波に動物たちも流されたのかも知れない――そう思うと、初めて胸の奥が締め付けられる。
(私、どうかしてるな。街が流されたのを見たのに、なんとも思ってなかったなんて)
自身の歪みには、薄々気付いていた。
あの日――地面が割れるように揺れた時、日向はちょうど営業で山の麓のあたりを車で走っていた。
道路に電柱が倒れてきて立ち往生し、そのまま何となく高いところに避難したのだ。
シンシアの預言だと、不謹慎にもわくわくしながら。
(生きる気力もないくせに、どうして助かろうとしたんだろう)
あの時は何となく行動しただけだったが、後で考えると不思議だった。
死を受け入れていれば、もう何も考えずに済んだのに。
それでも体は喉が渇くし、お腹も空いてしまう。
「くれぐれも気を付けるんだよ。いい人ばかりではないからね。それに、熊の目撃情報もたまにある。そうだ、いいものをあげよう」
ちょっと待ってて、と住職は寺の奥に入って行った。
熊と聞いても身構えるどころか、日向はそれすらどこか他人事だ。
田舎に住んでいても遭遇したことはなかったから、これからも出くわさないものだとすら思っていた。
「あった。まだ何本かあったから、もし何かあれば使いなさい」
住職が渡したのは、熊専用の撃退スプレーだった。
強力な唐辛子由来のものだと書いてあるから、いざとなれば人間にも使えるだろう。
「ありがとうございます!」
日向はまたお礼を言った。
「大事な人に会えるといいね」
住職はおおよそのところ、日向が彼氏とでも会うのだと思っていたのだろう。
そんな言葉に、日向は現実に引き戻された。
推しに会いに行く、それだけが今の生きる糧だ。
達成した後のことなんて、今は何も考えてはいない。
「はい……行ってきます!」
頭を下げた日向は、スーツ姿のまま旅に出た。
◆◆◆
山の中の道を歩く。
猫寺から少し山を降りると、車を乗り捨てた場所に到達した。
前に進めないからと慌てて逃げたものの、さすがにそこまで津波は押し寄せていなかったようだ。
とは言え、自然災害は津波だけではない。
木々がさらに倒れて退路も塞いでいて、とても車を動かせるような状態ではなかった。
「わぁ、すご……でも、潰れてなくてよかった!」
何とか木々の間をくぐり抜けると、助手席のドアは辛うじて開けられた。
パンプスが散らかっているのを尻目に、日向は席に置いてきたメイクポーチを取り出す。
(推しに会うのに、すっぴんは嫌だもんね)
避難後に手持ちのメイク落としで化粧を落としたが、推しに会う前にまたメイクアップしたいのだ。
相手は女の子だし、恋愛感情でないからこそ、敬意を払って一番いい自分を見せたい。
「じゃあね。またいつか……戻ってくるかも」
コーラルピンクの軽自動車を労うように、日向は別れを告げる。
ついでに仕事関係の道具など、いらないものは車内に置いて行った。
個人情報は入っているが、今は関係ないだろうと見越してのことだ。
(でも、シンシアちゃんに会った後……私はどうするんだろう。またここに帰ってくるの? 私の家、大丈夫なの?)
色んな疑問が湧いてくるが、振り払うように消した。
今はシンシアのこと以外、何も考えたくはない。
電柱は何本か倒れているが、通れそうなところもたくさんあった。
傾いた道路標識を見て、星霜山のある方向へと歩いていく。
まだ充電が七割くらい残っているので、オフラインに保存したシンシアの動画を再生した。
誰もいないから、周りに気を遣わなくていい。
音量を最大にして、彼女の動画を見た。
ミディアムボブの黒髪に、青いインナーカラー、それに姫カット。
日向から見ても理想の女の子そのもので、声を聞くだけで元気になれる。
「またまた日向ちゃんから。いつもありがとね。営業ができる人って、尊敬する」
ただの他愛ない日常を送った時の返答。
声だけで癒やされるような気分になり、耳を傾けた。
「適当に話してるだけなんだよ。シンシアちゃんの方が、人に好かれるだろうになぁ」
画面越しに録画したものを聞いているだけなのに、つい返事をしてしまう。
国道は比較的まだ歩きやすいが、車は一台も走っていない。
歩いていると、倒壊していない家々も見つかってくる。
生存者たちらしき人たちが、遠くで畑の作業をしているのも見えた。
「なんだ、そんなに大したことないのかもね」
空は変わらず青いし、非日常なのに日常のようだった。
しばらくはよかったが――この酷暑をスーツで歩くのは無謀だ。
すぐに疲れてきて、木陰で休むことにする。
(充電は温存しないとね)
ずっとシンシアの声を聞いていたくても、今は無制限の充電も叶わない。
営業のためにアナログの地図を持ち歩いていたのが、この時になって役に立った。
(今はこの辺りだから……夜までには公民館に辿り着けそう。あそこも避難所だし、野宿は何とか避けたいもんね)
ペットボトルの水を温存しつつ飲みながら、行き先を定めた。
「シンシアちゃんとの、ぬい旅だね!」
カバンに忍ばせていた、お手製のぬいぐるみを取り出す。
シンシアに似せて、何とか完成させたぬいぐるみだ。
その子を本物の推しと思って、一緒に生活していれば辛くなかった。
すると――木々の奥の方から物音がする。
人か獣かは区別できないが、こちらに寄ってきているのは確かだ。
まだ昼間だが、森の中は陰になっていて、視界はあまり良好ではない。
(そうだ、あのスプレー……)
住職からもらったスプレーのことを思い出し、日向はぬいぐるみを丁寧にしまう。
カバンの中に手を伸ばすと、ぬいぐるみの代わりにスプレーを握って構えた。




