一飯、一菜、一汁〜奥さんと私の距離〜
私たち夫婦の財布は完全に別々だ。
物への価値観もまったく違う。
食べ物と住むところだけは、私が保証する約束をしている。
衣食住じゃないの?と、思われるかもしれない。
衣はダメだ。
奥さんの買い物の仕方だとあっという間に部屋中服だらけになってしまう。
衣類はそこにあるだけで負債だ。
今でも一部屋とクローゼットは奥さんの衣服で溢れかえってる。
私の衣類はすみっコぐらしだ。
そんなわけだが、私たちは2人とも仕事を持っているので、実際には1日1食だけの保証となる。
夜だけは、一緒に食卓を囲む。
それが、いまの私たちの暮らし方だ。
夕食だけは、私が作り、二人で食べる。
特に決めたわけではないけれど、自然とそうなった。
誰が言い出したわけでもなく、そうしている。
献立は、おおよそ 一飯・一菜・一汁。
ご飯と、おかずがひとつ、そして汁物。
栄養のバランスを計算しているわけではない。
ただ、これくらいがちょうどいいと感じる。
凝った料理より、落ち着いた分量がいい。
食べきれるぶんを作り、余らせない。
食べたら消えるものが好ましい。
物は増えていき、捨てるのは難しい。
けれど、食事は消えていく。
形は残らず、記憶だけが残る。
たぶん私は、そういう“循環するもの”が好きなのだと思う。
もちろん、相手が昼に何を食べようと干渉はしない。
せっかくの自由を、人はそれぞれの腹で確かめればいい。
ただ夜だけは、温かい汁を椀につぎ、
炊き立ての飯をよそい、
湯気の向こうで「いただきます」と言う。
その距離と回数が、私たちには合っている。
生活の全部を支えたいわけじゃない。
けれど、生活の一部を放っておきたいわけでもない。
依存も支配もいらない。
けれど、完全な放流というのも違う。
「重すぎず、軽すぎず」
という点で、同じ意味を持つのかもしれない。
私たちは、深く結ばれているわけでもない。
けれど、完全に離れているわけでもない。
その距離を測るための物差しとして、
一飯・一菜・一汁 と 家と奥さんと私。
それがいまの、私たちのちょうどいい暮らし方だ。




