シン 魚焼きグリルの使い方
まえがき
魚焼きグリルという道具は、台所の片隅にずっとあるのに、意外と深く考えたことがなかった。
魚を焼くもの。そう決めつけていた頃の私は、きっと生活そのものを「こういうものだ」と
枠に当てはめて見ていたんだと思う。
たまたま私は、魚を焼かずに魚焼きグリルと過ごしてきた。
その選択が良いとか悪いとかではなく、気がついたら「使わない」という行為が
ひとつの価値観になっていた。長い時間が過ぎ、私自身の暮らし方も変わったいま、
あの“使わなかった道具”について書いてみようと思った。
特別な結論はない。ただ、生活を振り返るとき、
道具の記憶がひっそりと自分の価値観につながっていた――
それに気づいた、というだけで十分だと思った。
魚は焼かない。それでも魚焼きグリルはずっと台所にいた。
24年前、分譲で買った家には、すでにシステムキッチンが据え付けられていた。前の人が使った痕跡が、薄く、けれど確かに残っていて、特にガス台と魚焼きグリルのところは、いかにも“生活の跡”という感じだった。結局、私はその部分だけを新品に交換した。
「ここから自分の暮らしが始まる」と、そんな気持ちがたしかにあった。
ところが、そこからが問題でね。
せっかく新品にしたのに、私は魚焼きグリルをろくに使わなかったのよ。理由はただ一つ、汚したくなかった。魚を焼けば脂が落ちる。受け皿はべっとり、網には皮と身がこびりついて、あとで洗うのが面倒でたまらない。だったら最初からフライパンで焼けばいい。油を敷いて皮目から焼けば十分に美味しいし、焼き色だってちゃんとつく。蒸し焼きだってできる。
――こうして、魚焼きグリルは“未使用のまま”年月を重ねた。
使わなかったことが、あとになって少しもったいなく感じた。
新品のまま保たれたガス台と、傷のないグリルを見るたびに、ああ活躍の場を与えなかったな、と思った。でも、当時の自分にとっては、それが正解だったのよ。綺麗でいてほしかったし、汚して後悔する未来を避けたかった。価値観がそうだった、ただそれだけだ。
時が経って、別のマンションに引っ越した。
そこでも、前の住人は魚焼きグリルをまったく使っていなかったらしく、ほとんど新品の状態だった。あのとき私が選んだ道が、巡り巡って今度は“受け取る側の価値”になって戻ってきたように感じた。綺麗に保たれたグリルを前にして、少しだけ笑った。
――未使用のまま手放した、あのガス台のことを思い出した。
とはいえ、私は相変わらず魚をグリルで焼かない。
理由は簡単、フライパンのほうが自分に合うから。
ただし、魚焼きグリルは“別の顔”で台所に残った。
パンを焼く。これがよかった。
朝、2分タイマーをセットして、ほっとけばいい。外がカリッと、中がふわっとする。あの旅先で食べたガス火のトーストの感動が、ふっと蘇る。冷凍ピザも半分に切れば焼ける。トースターを台所から撤去できたおかげで、場所が一つ空いた。
魚焼きグリルの役割は静かに変わった。
それは、私の暮らし方が変わったということでもある。
最近やっと気づいたけれど、
道具というのは“本来の使い方”に縛られなくても良いらしい。
正しい使い方、ではなく、
“自分にとってしっくり来る使い方”を見つけたとき、
その道具はやっと生活に馴染むのだと思う。
魚を焼かない魚焼きグリル。
それは、新しい使い方であり、真の使い方でもあった。
綺麗なまま手放したグリルのことをときどき思い出すけれど、
今の暮らしに寄り添ってくれるこのグリルを前にすると、
あの選択も間違いではなかったと思える。
魚は相変わらずフライパンで焼いている。
それでいい。
私の生活は、それで整っている。
あとがき
書いてみて思ったけれど、魚焼きグリルの話は、魚の話ではなかった。
どの道具をどう使うか、その選び方の中に、いつの間にか自分の癖や考え方が
染み込んでいたのだと思う。
道具の寿命より長く使い続ける価値観もあれば、
気がつくと入れ替わってしまう習慣もある。
それでも、いま台所でパンを焼くとき、グリルの扉から立ち上る
ほんの少しのあたたかさに、当時の私が見える気がする。
相変わらず魚はフライパンで焼く。
それでいい。変わらない部分があるからこそ、
変わった部分にも気づけるのだろうと思う。
ここまで読んでくれて、ありがとう。




