ジェンダーの次にあるもの
前に「ジェンダーという役割はもう終わりつつある」と書いた。
あれを書いてからというもの、私の中でその感覚はじわじわと確信に変わってきた。
声や主張よりも、生活の中にある空気のほうが早く動く。
その変化を、今回は少しだけ言葉にしてみる。
以前、「ジェンダーという役割は、すでに終わりに向かっているのではないか」と書いたことがある。
あれは勢いで書いたわけではない。
日々の暮らしの中で感じてきた違和感が、
あるとき文章として形になったものだった。
その後も折に触れて様子を眺めてきたが、
振り返ってみても、
あのときの感覚は大きく外れてはいなかったように思う。
というのも、
「ジェンダー」という言葉そのものが、
今の空気にどこか馴染んでいない。
もちろん、
その概念が必要とされた時期は確かにあった。
そこを否定するつもりはない。
けれども、
いまの子どもたちの様子を見ていると、
もはや「性別」だけを前面に出して語る段階ではないように感じられる。
小学生などは、
男女が自然に混ざって下校している。
そこには、
性別を強く意識している様子はほとんど見られない。
こうした光景を見ていると、
「男女は平等であるべきだ」
と声高に主張するよりも、
「平等がすでに日常の風景になっている」
という事実の方が、
むしろ説得力を持っているように思える。
私はそう感じている。
ただ、
ここで少し視野を広げて考えてみると、
これまでジェンダー差別と呼ばれてきたものの多くは、
もともとは「役割分担」だったのではないかとも思う。
夫は外で働き、
妻は家庭を守る。
そうした社会モデルが、
長いあいだ続いてきた。
良い悪いという評価とは別に、
ひとつの分業の形として存在していたのである。
そこに、
女性の社会進出が進んできた。
では役割をどう再編するのか。
この問いこそが、
本来の意味での問題だったのではないか。
しかし実際には、
その議論が十分に深められる前に、
言葉や看板の付け替えのほうに
多くのエネルギーが注がれてきたようにも見える。
たとえば、
「女性管理職が少ない」
という議論がある。
もちろん、
改善すべき課題ではある。
ただ、
そもそもの母数が違うのではないか、
という疑問も残る。
専業主婦は多かった。
専業主夫は少なかった。
そうであれば、
会社で上を目指す人数にも
自然と差が生まれる。
そこに
「差別」というラベルだけを貼って
説明が済むのであれば、
これほど議論は続いていないはずだ。
そして忘れてはならないのは、
現在の社会構造そのものが、
必ずしも「男性優遇」というより、
「男性的な働き方モデル」を基準に
設計されているという点である。
長時間労働。
年功序列。
感情より成果。
こうした価値観が、
社会の土台として長く続いてきた。
この構造が変わらなければ、
本当の意味での変化は
なかなか生まれない。
しかし、
制度や社会構造を変えるには
時間もコストもかかる。
そのため、
言葉の変更や
呼び名の統一
といった、
比較的手を付けやすい部分ばかりが
先に進んでしまう。
そう見える場面も少なくない。
私には、
ジェンダーの議論は
すでに終盤に差しかかっているように感じられる。
これから必要になるのは、
生活に合わなくなった社会の土台を、
どのように現実的に組み替えていくのか
という問いではないだろうか。
「女性だから不利」
でもなく、
「男性だから優遇」
でもない。
むしろ、
いまの社会構造そのものが、
多くの人にとって
負担の大きいものになっている。
ようやく、
その事実が見え始めてきた段階なのではないかと思う。
声を上げて主張する時代から、
日々の暮らしの中で
静かに答えが現れていく時代へ。
社会は、
いまその移行の途中にあるように見える。
言葉で示される平等より、何も言わずに成立している平等のほうが強い。
子どもの姿や、何気ない生活の風景の中に、それはもう根付いているように見える。
社会の枠組みは簡単には変わらない。
けれど、日常のふるまいが静かに変わり続けているなら、
その先に必要な形は、きっと見えてくる。
私は、そう受け取っている。




