副業可の正体
最近、「副業可」という言葉をよく見かけるようになった。
一見すると、ずいぶん寛容な時代になったように見える。
まるで「副業可」はポジティブワードだ。
昔は副業禁止が当たり前だった。
会社にバレたら処分、最悪クビ。
それが今では「副業OK」「複業推奨」なんて言葉まで並ぶ。
自由になった。
働き方改革。
自律的なキャリア形成。
……本当にそうだろうか。
これ、裏返すと何を言っているのか。
「会社では、もう生活の面倒は見ませんよ」
そう言っているだけじゃないか、と。
かつて副業が禁止されていた理由は、道徳でも精神論でもない。
設計の問題だ。
・フルタイムで働けば生活できる
・昇給がある
・退職金がある
・社会保障も会社が担う
だからこそ、
「生活の軸は会社一本でお願いします」
という取引が成立していた。
副業禁止は、拘束であると同時に、保障でもあった。
ところが今はどうだろう。
給料は上がらない。
社会保険料は重い。
税金も増えた。
退職金は何十年も先送り。
それでも会社は言う。
「副業、してもいいですよ」
この言葉を翻訳すると、こうなる。
「会社の給料だけで足りない分は、自分でどうにかしてください」
自由ではある。
だが、責任も丸ごと個人だ。
副業がうまくいかなければ自己責任。
体を壊しても自己責任。
時間が足りなくても自己責任。
会社は何も失わない。
しかも、ここが一番巧妙だ。
副業で成果を出した人は評価される。
「主体性がある」「自律的だ」と言われる。
一方で、副業できない人はどうか。
・時間がない
・体力がない
・家事や介護がある
・スキルも資本もない
そういう人にとって、副業可は選択肢ですらない。
それでも制度上は「自由は与えました」という顔をされる。
自由を与えたのだから、あとは自己責任。
この構造は、とても静かで、とても残酷だ。
ある知り合いの収入を聞いて驚いた。
勤続8年、30代で手取り16万円ほど。
そこから家賃を払い、光熱費を払い、食費を払い、税金も社会保障料も払う。
将来のために貯めろと言われ、老後は自己責任だと言われる。
その上で、
「副業、してもいいですよ」
これは自由だろうか。
それとも、見放されているだけだろうか。
副業可という言葉は、優しい。
だが、実態はとてもドライだ。
会社は少しずつ、
「人生の面倒を見る存在」
ではなく
「労働時間だけを買う存在」
に変わっている。
それ自体が悪いわけではない。
ただ、その変化を、言葉だけで包み込んでいるのが問題なのだと思う。
副業可の正体は、自由ではない。
生活責任の個人化だ。
それに気づいていないと、
いつの間にか、
「自由なはずなのに、なぜこんなに苦しいのか」
という場所に立たされる。
副業を否定するつもりはない。
ただ、これは選択肢であって、救済ではない。
そのことだけは、
ちゃんと見ておいたほうがいい気がしている。




