眠りの瞬間をつかまえた日
眠気って、普通は「負けたら終わり」の相手だと思われている。
でも私は、ずいぶん前から「眠りの境界」に妙な興味を持っていた。
寝る直前の、あのふっと落ちる瞬間──あれはいったい何なのか。
観察できるのか。
触れるのか。
そんなことを考えながら、自分の身体で小さな実験を続けてきた。
気づけば、私は「一瞬だけ寝てスッキリする」という奇妙な技を身につけていた。
今回のエッセイは、その技がどうやって形になっていったのか、
過程ごと紹介してみようという試みだ。
眠りを“不思議なもの”として扱うのではなく、
“身体の現象として眺めるとどう見えるか”。
そんな視点で読んでもらえたら嬉しい。
眠気というのは、たいていの場合「負けたら終わり」みたいな敵として扱われる。
抗って、抗って、最後は机に突っ伏して落ちる──それが普通の人の睡眠との付き合い方だ。
でも私は、いつの頃からか「眠りの境界」というものに興味を持ち始めた。
完全に寝る前の、あの一瞬。
視界がふっと遠ざかって、音が水の中みたいに丸くなる瞬間。
あそこでは脳がなにをしているのか。
観察したら、なにか掴めるんじゃないか。
そんな妙な探究心が湧いてしまったのだ。
最初は当然うまくいかない。
眠いと観察できないし、観察すると眠れない。
これは哲学か禅問答か、というくらい矛盾していた。
けれど、ある日思ったのだ。
「あ、これ“落ちる瞬間”じゃなくて、“落ちる直前の前触れ”を見つけるゲームだ」
そう考え方を変えたら、少しずつ手応えが出てきた。
たとえば、まぶたの裏の光の粒が急に減る瞬間がある。
あるいは、脳の中の雑音がふっと止まる瞬間。
呼吸の存在感が消えて、自分が空気と混ざるような感覚。
そのどれかが来たら、「はい、ここで切り替わるぞ」と意識を置いておく。
すると不思議なもので、本当に“コトン”と落ちる瞬間がわかってくる。
ここからはもう実験だった。
どこまで意識を残せるか。
どのタイミングなら落ちてもすぐ戻れるか。
どの姿勢だと深く行きすぎてしまうのか。
まるで自分の脳を相手にしたチューニング作業。
気づけば私は、睡眠研究者みたいなことを、自分の身体でやっていた。
そして、ある時ついに起きた。
「コトッ」
文字にするとこれ以上書きようがないが、本当に“コトッ”だった。
一瞬だけ、意識が黒い幕に吸い込まれ、次の瞬間にはもう戻っている。
なのに、頭の中はやけにクリアだ。
さっきまで砂利道を引きずられていたみたいだったのが、
急に舗装された高速道路を走っているような感覚になる。
「……あれ? いま寝た?」
自分で自分に突っ込んだ。
だって、あまりに短すぎたから。
でも結果は明らかだった。
数秒でもない、ほんの一瞬で脳がリフレッシュしている。
その日から、この“瞬眠”は私の得意技になった。
ただし、この技にも限界はある。
意識の疲れは吹き飛ぶけれど、身体の疲れはごまかせない。
徹夜を続ければ免疫が落ちるし、扁桃腺炎にも皮膚トラブルにもなる。
脳は誤魔化せても、身体は誤魔化せない──そういう意味では、私の瞬眠はあくまで応急処置だ。
それでも、あの瞬間の切り替わりを捉える感覚は面白い。
眠りは「落ちる」ものではなく、「入れる」ものなのだと知った。
境界線を探し続けたら、境界そのものを操作できるようになっていた。
たぶん誰でも真似できるわけじゃない。
私自身、好奇心に引っ張られて偶然たどり着いただけだ。
でも、自分の身体を実験台にしてたどり着く技というのは、どうにも愛着がある。
今日も眠くてどうしようもないとき、
私は少しだけ目を閉じて、その境界線に手を伸ばす。
コトン、と落ちる。
一瞬だけ、別世界に触れる。
そして戻ってくる。
何事もなかったみたいな顔をして。
「よし、続きいくか」
そんなふうに、私の瞬眠は静かに日常に溶け込んでいる。
書き終えてみて思うが、この「瞬眠」という技は、
別に超能力でも修行の成果でもない。
ただ、たまたま興味が向き、
たまたま観察癖があって、
たまたま身体が正直に反応してくれた──
その積み重ねで身についたものだ。
もちろん、意識は誤魔化せても身体は誤魔化せない。
徹夜や過労を続ければ免疫は確実に落ちるし、
身体は必ずどこかで請求書を出してくる。
だから瞬眠は万能ではないし、
「脳の応急処置」みたいなものだと思っている。
それでも、あの“コトン”という切り替わりの感覚は、
自分の身体の奥に隠れていたスイッチを見つけたような、
ちょっとした喜びがある。
もしあなたにも、眠りについての妙な興味があるなら、
自分の感覚を少し観察してみると面白いかもしれない。
案外、身体は思っている以上にいろんなことを教えてくれる。
読んでくれて、ありがとう。




