ゆとり教育の失敗〜運用が信念に追いつかなかった。〜
ゆとり教育は、よく失敗だったと言われる。
学力が落ちた。
競争力が下がった。
甘やかしすぎた。
だが、ゆとり教育の「信念」そのものは、
そこまで間違っていたとは思っていない。
それぞれが考える。
それぞれの個性を伸ばす。
正解のない問いに向き合う。
掲げられていた理想は、むしろ健全だった。
問題は、運用だった。
考えるという行為は、突然できるようになるものではない。
材料がいる。
材料とは、基礎知識であり、反復であり、模倣であり、
「すでに分かっていること」の蓄積だ。
基礎学力もない状態で考えさせても、
そこから出てくるのは思考ではない。
思いつきか、感情か、雰囲気だ。
これは精神論ではなく、構造の話である。
たとえば、言葉を知らなければ文章は書けない。
ルールを知らなければ、ゲームは成立しない。
定石を知らなければ、応用も外しもできない。
考えるとは、ゼロから何かを生み出すことではない。
すでに頭の中にある材料を、組み替える作業だ。
ゆとり教育では、その材料になる部分が削られた。
覚えなくていい。
詰め込まなくていい。
感じたことを話そう。
その結果、何が起きたか。
考えるための土台がないまま、
「自分の意見を言おう」という要求だけが残った。
そこで生まれたのは、
主体性ではなく、
批判不能な感想の量産だった。
正解がないことと、
何を言ってもいいことは、違う。
本来、基礎とは不自由なものだ。
覚えろと言われ、繰り返しやらされ、退屈ですらある。
だが、その不自由さを通過して初めて、
人は自由に考えることができる。
ゆとり教育は、
自由を先に与え、
基礎を作る工程を、運用の中で省いてしまった。
それは理想の否定ではない。
実装の失敗だ。
考える力は、教え込むものではない。
条件が整ったときに、自然に立ち上がるものだ。
ゆとり教育が失敗したとすれば、
それは信念が間違っていたからではない。
順番と運用を、誤ったからだ。




