基準を下げない雇用
外国人が増えていることへの不安を書いたものではない。
ましてや、誰かを排除したいとか、嫌っているとか、そういう話でもない。
むしろ、私が気になっているのは「判断の基準」が、いつの間にか曖昧になっていくことだ。
街を歩けば、外国にルーツを持つ人が増えた。
学校にも、職場にも、ごく自然にいる。
それ自体は、もう特別な風景ではない。
問題はそこではなくて、
「人が足りないから」「誰でもいいから」「片言でもいいから」
そんな言葉が、当たり前のように使われ始めていることだ。
この文章は、善悪を決めるためのものではない。
ただ、「何を守りたいのか」を整理したいだけだ。
人口が減っている日本で、外国人労働者が増えている風景は、もはや珍しくなくなった。
昼間の街を歩いていると、日本人より外国人の方が多いのでは、と思うことすらある。
これは「良い」「悪い」の話ではない。
現実として、そういう時代に入った、というだけのことだ。
ただ、私は最近、少し別のところが気になっている。
それは、人が増えることでも、減ることでもなく、
基準が下がっていないかという点だ。
よく聞く言葉に、
「日本語は片言でもいい」
「仕事ができれば問題ない」
というものがある。
一見すると寛容で、多様性を尊重しているようにも聞こえる。
しかし、その言葉の先に、何が起きているのかを考える必要があると思う。
言語能力が十分でない前提で仕事を設計すると、
指示は単純になり、判断は減り、
仕事そのものが「考えなくていい形」に変わっていく。
これは、外国人の問題ではない。
仕事の設計を下げているという問題だ。
日本の労働者の強みは、
書いていないことを察する力、
状況を読んで動く力、
言葉の裏を理解する力だった。
それらはすべて、
言語能力と教育水準の上に成り立っている。
基準を下げれば、誰でも入りやすくなるかもしれない。
しかし同時に、
上の能力を持つ人が居づらくなる。
結果として、
「できる人」が浮き、
「合わせる側」が疲弊し、
社会全体の知的な密度が薄まっていく。
これは差別の話ではない。
誰かを排除したいわけでもない。
むしろ逆で、
参加する条件を下げないことが、長い目では誰にとっても公平だと思っている。
技術が進歩し、人口が減っていく社会で必要なのは、
より多くの人ではなく、
より考えられる人だ。
経済規模が小さくなることは、ある程度避けられない。
しかし、人の基準まで一緒に下げてしまう必要はない。
基準を保ったまま、
そこに挑戦してくる人を受け入れる。
国籍ではなく、能力と理解で判断する。
それができなければ、
技術はあっても使いこなせない国になってしまう
人口が減っていく社会では、
経済も、雇用も、規模が小さくなっていくのは自然な流れだと思っている。
それでも、技術は進歩する。
情報は増え、仕事は複雑になる。
だからこそ、本来なら「基準」は上がっていくはずだ。
人を増やすことで帳尻を合わせるのか。
それとも、基準を守ったまま社会を縮めていくのか。
どちらが正しいかは、簡単には言えない。
ただ一つ言えるのは、基準を下げる判断は、とても静かに影響を広げるということだ。
これは差別の話ではない。
排除の話でもない。
社会をどう設計するか、という話だ。
そして、その設計を考える責任は、
最終的に参政権を持つ側にしかない。
だからこそ、感情ではなく、
できるだけ冷静に、言葉を選びながら書いた。
読んでくれた人が、
少しだけ立ち止まって考えてくれたなら、それで十分だと思っている。




