第五話:差し伸べられた手と、見知らぬ名前(後編)
そこにいたのは、無骨な男だった。
滲む視界の先、至近距離に迫る浅黒い顔面。額から頬を裂く古い刀傷と、びっしりと生えた無精髭。
肩を掴む腕には分厚い革鎧が巻かれ、砂埃と煙の焦げ臭い匂いが、鼻腔を強く刺激した。
男の険しい顔を見た瞬間、背筋に冷たい緊張が走った。
殺されるのか。それとも、身包みを剥がれるのか。
だが――男の瞳は、凶暴な光など宿していなかった。
砂塵に汚れたその双眸には、信じられないものを見たかのような激しい動揺と、痛々しいほどの歓喜が渦巻いていた。
男の視線が、こちらの顔を正面から捉えた、その瞬間。
男の目が、大きく見開かれた。
喉が引きつり、呼吸が止まったかのように口を半開きにする。
そして、胸の底から絞り出すような、震える叫びを上げた。
「――トール!!」
鼓膜を揺らす、切迫した大音声。
(え……? とおる……?)
朦朧とした頭の芯を、鋭い衝撃が貫いた。
自分の耳を疑った。なぜ、この見知らぬ男が自分の名前を知っているんだ?
だが、混乱する思考よりも早く、男はなりふり構わず両腕を伸ばし、泥と返り血で固まったこちらの身体を、骨が軋むほどの力で強く抱きしめた。
「トール……! よかった、本当によかった……っ! 生きてたのか、お前……!!」
男の太い腕が震えていた。
肩口に顔を埋める男の荒い吐息から、激しい安堵の感情が雪崩のように伝わってくる。
屈強な戦士の目から、大粒の涙が零れ落ち、汚れたシャツの上に染みを作っていった。
(違う……「とおる」じゃない。「トール」……?)
男の唇からこぼれる発音は、微妙に異なっていた。
自分の名と同じ響きを持ちながら、どこか硬く、異質な響き――。
「洞窟で伏兵に遭って、お前が殿を引き受けて分断された後……俺は、小鬼どもを撒いて外に出たが、戻るに戻れなくてよ……! あの巣穴が崩れて、もう駄目かと……! すまねぇ、俺がついていながら……お前を一人残して……っ!」
男は自責の念に声を詰まらせながら、泥まみれの顔を両手で挟み、傷だらけの頭部や身体を必死で確かめる。
その手つきには、長年背中を預け合ってきた相棒に対する、嘘偽りのない深い情愛と信頼が満ち溢れていた。
「待ってろ、今すぐ水を飲ませてやる。足もやられてるじゃねぇか……! クソッ、小鬼の毒槍か。よくここまで一人で戻ってきたな、相棒……!」
男は腰の清潔な水筒をもぎ取るように外し、こちらの乾ききった唇へと差し当ててくれた。
清らかな、冷たい水が喉へと流れ込んでくる。
泥の味などしない、澄み切った本物の水。
乾ききった内臓が、歓喜の悲鳴を上げながらそれを吸収していく。
助かったのだ。
目の前の人間は、自分を助けようとしてくれている。
安全な場所に辿り着き、水を与えられ、命を救われた。
だが――。
自分の精神は、安堵とは正反対の、底知れない冷たい深淵へと急速に沈み込んでいた。
――トール。
耳元で何度も繰り返された、その見知らぬ響き。
男は、自分をその「トール」という名の男だと信じ切って、涙を流している。
(違う……誰なんだ、それは……!?)
震える唇を動かそうとした。
人違いだ。俺はそんな人間じゃない。助けてくれたのはありがたいけれど、俺はあなたの知っている誰かじゃないんだと、必死に告げようとした。
「あ……、お……れ……は……っ」
だが、声が出ない。
頭の中で言葉を組み立てようとした瞬間、側頭部に焼けた鉄杭を打ち込まれたような、耐え難い激痛が走った。
激しい目眩に襲われ、舌が分厚い肉の塊のように麻痺して、喉仏が引きつるように痙攣する。
口から漏れたのは、言葉にならない掠れた呻き声だけだった。
「おい、トール!? 無理に喋るな!」
男が慌てて身体を支え直した。
その瞳に、さらなる焦燥と痛ましさが走る。
「頭を強く打ったんだな……。巣穴で岩に叩きつけられた拍子に、頭ン中をやられちまったのか……。呂律が回ってねぇ。目つきも焦点が合ってねぇぞ。クソッ、声も出ねぇのか……?」
男はこちらの異常な反応を、戦闘による外傷とショック症状だと解釈し、納得していた。
疑う様子など微塵もない。
目の前にいる泥まみれの人間が、「トール」であることなど、男にとっては疑う余地すらない自明の事実なのだ。
男は身体を背負い直そうと、力強くその背中に腕を回した。
その拍子に、腰袋から滑り出たものがあった。
昨夜、老木の洞の中で見つけた、あの小さな長方形の金属片。
幾何学的な刻印が刻まれた、鈍い金色のプレート。
――カラン、と。
砂利の上に落ちた金属片を見て、男が短く息を吐いた。
「……村長の割符も、ちゃんと持ってたか。これで依頼の精算もできる。お前が無事なら、それだけでいい。さあ、立てるか? 街道沿いに野営地を作ってある。荷車もあるから、そこまで運んでやる」
男の温かい手が、こちらの脇を抱え、泥濘から引き上げるように立ち上がらせてくれる。
その瞬間、脳裏で、バラバラだったパズルのピースが、恐ろしい音を立てて噛み合っていった。
――あの洞窟で、目覚めた時のこと。
そばに転がっていた、使い込まれた無骨な鉄の剣。
自分の手とはまるで違う、分厚いタコに覆われた節くれだった戦士の手。
小鬼の石斧が振り下ろされた瞬間、考えるより先に身体が勝手に動き、完璧な角度で攻撃を弾き返した肉体の記憶。
そして、この男が口にした「洞窟で分断された」「お前が殿を引き受けた」という言葉。
すべてが、一本の線で繋がってしまった。
(嘘だろ……)
背筋を、真冬の氷水を浴びせられたような戦慄が駆け抜けた。
自分は、お伽話のように都合のいい奇跡で別の世界へやってきたわけでも、何もない空っぽの肉体に宿ったわけでもない。
この世界には、元から「この肉体の持ち主」が存在していたのだ。
過酷な戦場を駆け抜け、小鬼を狩り、血と泥にまみれて生き抜いてきたであろう男。
仲間から深い信頼を寄せられ、背中を預け合っていた、本物の戦士。
その男の名前こそが――「トール」。
そして、自分はその「トール」という他人の肉体に、人生に、人間関係のど真ん中に、丸ごと放り込まれてしまったのだ。
(違う……俺は……違うんだ……!)
叫びたかった。
俺はトールじゃない。そんな強い戦士じゃない。
自分は、東京の片隅の六畳間で、他人の視線に怯えて引きこもり、夜勤のバイトとゲームの往復しかできなかった、無力で臆病な男だ。
親の期待からも逃げ出し、社会からも逃げ出し、コンビニの階段ですら足を踏み外して無様に死んだ、名前だけの空っぽな存在――。
――俺の名前は、透だ。
心の中で、血を吐くような思いで自らの名を叫んだ。
だが、その叫びは誰の耳にも届かない。
口から漏れるのは、ただ掠れた、苦しげな吐息だけだった。
「しっかり掴まってろよ、相棒。すぐに村へ連れてって、傷の手当てをさせてやるからな」
男はこちらの右腕を自分の肩に回し、力強い足取りで街道を歩き始めた。
背中に触れる男の革鎧の硬さ。砂利を踏みしめる確かな足音。
差し伸べられたその手は、凍える森の地獄から自分を救い出してくれた、紛れもない救いの手だった。
けれど――。
胸を埋め尽くしていたのは、生き延びた安堵などではなかった。
死の恐怖から解放された瞬間に突きつけられたのは、それ以上に底知れない、正体不明のプレッシャーと絶望だった。
自分はこれから、この見知らぬ他人の人生を演じ続けろというのか。
この男の信頼を裏切り、戦士としての期待を背負い、いつ正体が露見するかに怯えながら、血みどろの世界で生きていかなければならないのか。
もし別人だと知られれば、この男に見捨てられて放り出されるかもしれない。
だが、一人では生きられないからとこの男にしがみついたところで、自分に本物の戦士の代わりなど務まるはずもなかった。
傾き始めた午後の陽光が、街道の上に二つの影を長く伸ばしていた。
寄り添い、傷だらけの身体を支え合って歩く、二人の傭兵の――双影。
泥濘の地獄を越えた青年の前に、新たな運命の歯車が、重く、無慈悲に噛み合い始めていた。
(第一章 完)
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