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第一話 至福の停滞

冬の四畳半。

ぬるいおしるこ。

赤いコタツの光。


忘れたはずの記憶と、冷たい現実。


失ったものを抱えたまま、それでも生きていく二人の物語。


静かに、深く、読んでいただければ幸いです。


【拓也視点】


俺はむしゃくしゃしていた。

理由はわからない。


バイクの排気音と、あいつだけが

この世界と自分を切り離してくれる気がした。


エンジンを切ると、

いつもの湿気が肺にまとわりつく。


カビと畳の匂い。

息の詰まる家。


でも、四畳半だけは違った。


襖の向こうから、

シャープペンの細い音が聞こえる。


その音を聞くだけで、

張りつめていた神経が少しだけ緩んだ。


襖を開けると、

机に向かう唯の背中があった。


その姿を見た瞬間、

胸の奥のざわつきが静かになった。


「……帰ってきたの?」


唯が振り返らずに言う。


「……わるいかよ?」


それだけの会話なのに、

この部屋だけは呼吸ができた。


「たまには、ちゃんと家帰りなよ。最近ずっと私の部屋に来てるし」 


沈黙。 

 

唯の手が止まった。

シャープペンの音が途切れる。


「拓也、今日……なんか変じゃない?」


「別に」


即答したのに、

自分でもその声が少し荒れているのがわかった。


唯はゆっくり振り返る。

目が、探るように揺れていた。


「……怖いよ、その顔」


「普通だろ」


言った瞬間、

唯の肩がわずかに震えた。


その震えが、

なぜか胸の奥をざらつかせた。


何かが噛み合っていない。

でも、その“ズレ”が妙に心地よかった。


「唯、こっち見ろよ」


思わずそう言っていた。


唯はゆっくり顔を上げる。

怯えと戸惑いが混ざった目。


その目を見た瞬間、

胸の奥で何かが熱を帯びた。


「……なんでそんな顔すんだよ」


唯は答えない。

ただ、指先が小さく震えていた。


その震えが、

なぜか“確かめたくなる”衝動を呼び起こした。


触れたわけでもないのに、

唯は息を呑んだ。


「拓也……やめてよ」


その声は拒絶なのに、

どこかで縋っているようにも聞こえた。


その曖昧さが、

俺の中の何かを刺激した。


「……拓也、本当にやめて」


唯の声は震えていた。

でも、その震えが俺を止めなかった。


止まれなかった。


胸の奥で渦巻く熱と、

言葉にならない焦燥。


唯の目が揺れる。

怯えと、別の何かが混ざった揺れ。


その揺れを見た瞬間、

自分が何を求めているのか、

わからなくなった。


「……ごめん」


そう呟いたのは、

自分でも理由がわからなかった。


唯は何も言わなかった。

ただ、視線だけが俺を避けていた。


その視線の“空白”が、

胸の奥に重く沈んだ。


この四畳半の時間が、

終わらなければいいのに。


そう願ったのは、

罪悪感か、執着か、

それともただの逃避か。


自分でもわからなかった。


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