王女はキスに憧れる
前回の番外編の少し後くらいの時系列です。
「はぁぁ……」
読みかけの本を胸に抱きしめ、うっとりと長いため息を吐き出すと、同じテーブルで本を読んでいたエルナが顔を上げた。
フローラお気に入りの東屋にて、恒例のお茶会の最中である。
「何かお気に召したシーンがございましたか」
「そうなのよ……離ればなれになっていたヒロインとヒーローがようやく再会してね、ついに初めてのキスを交わしたの……。ようやく、ようやくよ。ここまで長かったわ……」
「なるほど」
フローラはもう一度甘いため息を漏らし、感無量とばかりに瞳を閉じた。
「ねぇ、キスって本当に甘いのかしら? どの恋愛小説にもそう書いてあるのだけど……」
「そうですね、甘いと言えば甘かったような記憶がございますね」
「やっぱりそうなのね……えっ!?」
翡翠色の瞳がこぼれんばかりに見開かれた。
「待って待って! エルナ、キスしたことあるの!? 誰と? いつ!?」
鼻息荒く身を乗り出す。フローラの知る限り、この生真面目な侍女に恋人はいなかったはずだ。
「ああ、弟です。弟が赤ん坊だった頃、抱っこしてあやしていたときにたまたま触れまして」
無表情だったエルナの顔が、ふわりと柔らかいものになる。
一方、コイバナを期待していたフローラはつまらなそうに眉を下げた。
「なぁんだ……。甘いって、それ、ミルクの香りなんじゃないかしら……。わたくしが知りたいのはそういうのではないのだけど」
「気になるのでしたら、お試しになってみればよろしいのでは? 姫様には正式な婚約者がおられるわけですし」
「なっ……」
途端にフローラの頬が赤く染まる。
「そ、そんな簡単に言わないでちょうだい」
「おや、それほど難しいこととも思えませんが。あれ以来、関係も良好でいらっしゃいますし、いつぞやの夜会ではユリウス様から『愛してる』と言われたのでしょう?」
「ちちち違うのよ、『可愛い』と言われただけで……そういう意味かしらと思ってはいるけれど、はっきりとそう言われたわけではなくて……!」
顔を真っ赤してしどろもどろになるフローラに、エルナが目を細める。
「私はその場にいたわけではありませんが……お話を伺う限り、姫様の解釈で合っていると思いますよ」
「そうかしら……。うん、そうだと嬉しいわ」
「はい、間違いないかと」
「だけど……それでもやっぱり簡単ではないと思うのよね」
両手で頬杖をつき、フローラは唇を尖らせる。
「だって、ほら、ユリウスってとっても真面目なんだもの。お兄様も口うるさいし……」
「ああ……それは確かに」
エルナが大きくうなずく。
フローラの兄、王太子ルーカスは、妹を溺愛するあまり、ことあるごとに、「いいか、正式に婚姻するまでは、フローラに手を出すことは絶対に許さないからな」とユリウスに釘を刺しているのだ。
もともと愛情表現が不器用な上に生真面目なユリウスのことである。ルーカスの命令は忠実に守ろうとするだろうし、何かのはずみでうっかりキスイベントが起きるとも思えない。
「ですが、それだけ姫様を大切にされているということだと思いますよ」
「それはそうかもしれないけど……」
ちょっぴり不満に思うフローラなのだった。
そんなやり取りがあった翌日。
フローラはユリウスと二人、お忍びでカフェ・ブルームを訪れていた。
お目当ては夏の新作スイーツ。フローラの前にはすでに、香りの良い紅茶とともにメロンのタルトが提供されている。
力を入れずともしっとりサクッとフォークが刺さるタルト生地は、ふんわりバターの香り。生クリームの純白とメロンの黄緑色のコントラストは目にも鮮やか。
一口頬張ると、メロンの甘い果汁がじゅわっと口の中に広がった。
それをもぐもぐと味わいながら、フローラの視線は正面に座るユリウスにぼんやりと向けられていた。
ユリウスの前には桃のコンポート。半割りの桃のコンポートは、種をくり抜いてできたくぼみに桃のジュレがたっぷりと詰め込まれている。
メロンのタルトと迷うフローラを見かねたユリウスが、「では私は桃のコンポートにしますので、お味見なさってはいかがでしょうか」と言って注文したものである。
銀のスプーンが桃の果肉を一口サイズに切り分け、ジュレと一緒に掬い取る。
スプーンが持ち上げられ、ユリウスの形の良い唇が薄く開く。
桃を迎い入れた口は閉じられ、スプーンは皿の上へ。
品良く咀嚼し、ごくりと喉が動いた後、ほんのわずかに口角が上がる。
薄く形の良い唇は血色が良く、しっとりと柔らかそうで――。
「フローラ様、どうかなさいましたか?」
不思議そうに声をかけられ、フローラはユリウスの唇からパッと視線を逸らした。
「あの、その、どんな味かしらと思って! あ、桃の話よ!」
誤魔化すように言うと、ユリウスは「ああ」とうなずいた。
「申し訳ありません、うっかりしていました」
言いながら、桃のコンポートとジュレを掬う。
それはそのまま、フローラの顔の前に差し出された。
「お味見、どうぞ」
「えっ」
パチクリと目を瞬き、ユリウスの大真面目な顔を見返す。
迷ったのはほんの一瞬。
フローラはきゅっと目を瞑り、ぱくりとスプーンを口に入れた。
「いかがですか?」
ユリウスが目を細める
ふわりと広がる芳醇な桃の味。とても美味しい。だけどそれどころではなくて……。
「甘いわ……」
顔を真っ赤に染めて呟くフローラを見て、今度はユリウスが目を瞬いて。
しばしの沈黙の後、片手で顔を覆ったユリウスの耳はフローラに負けないくらい赤く染まっていた。
「すみま……」
言いかけた謝罪の言葉を飲み込み、ユリウスは決然とした顔で桃のコンポートをもう一口、口に入れた。
「……甘いですね。甘くて、美味しい」
そしてさらにもうひと掬い。
「フローラ様、もう一口、いかがですか」
わずかに眉を寄せ、顔を赤くしたユリウスと視線が絡む。
「……頂くわ」
そっと瞳を閉じて、フローラは小さく唇を開いた。
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