主と召使の世界とボスと
世界は絶対不可視侵の領域を外側として、その内側、つまり僕らの住む世界を固定世界と呼ぶ。
内側を固定世界と呼ぶのにはわけがある。
三賢人様が覚醒なさるまで、世界というものは存在しなかったという事実だ。
存在しなかったとはいっても、何もなかったというわけではない。
僕の仕事場であるアトリエがそうであるように、絶対不可視侵の領域は物理的な存在の固有化を許さないので、全てが背景のように二次元的にしか視化されない。
よって、そこに何かが見える状態ではあるが、ぼんやりとして触れることはできない。
光源がないにもかかわらず輝く空がまさにそれだ。
そんなところから三賢人様は覚醒なされた。
ここでいう覚醒とは、真理を抱いたということだ。
非常にイメージしづらい話ではあるがわかりやすく言えば、己という存在を認知することに気付いた、ということだろう。
そこで三賢人様は三つの自我を呪文化し、絶対不可視侵の領域から一定の領域を隔離、固定させたのだ。
結果として、三賢人様の真理を以って隔離された領域の中では物理的な存在の固有化が許可され、僕ら生物は自我を持って存在する、ということとなった。
固定世界は、天界、地上界、異界の大きく三つの境界で構成されている。
基本的にはどの界にも侵入規制はないので、誰でもどこにでも行くことができるのだが、三つの境界ではそれぞれ強度が異なる。
まず天界だが、ここは絶対不可視侵の領域に最も近い境界であるため最も強い境界だ。
これを越えることはつまり空間に自我を同化させることと同じなので、無防備に飛び出せば姿形はおろか自我すらも失ってしまい、何がなんだかわからないものになってしまう。
次に地上界だが、ここにある境界は天界とを隔てるものなので、さほど危険ではないにしても、自我が定着していないあやふやな者は下手をすると身体のみの存在(オンリー・ロンリー)になってしまう。
これが意外に多く、天界の星々を旅している際に話しかけても返事のないただの肉体を幾つも見かける機会があった。
最後に異界だ。
ここは、固定世界の中心と地上界の間の世界なので、どんな者でも安全にいられる場所だ。
なぜ安全かというと、中心とはつまり三賢人様のいらっしゃる所だからだ。
三賢者様の真理に一番近い所であるが故に、最も自我が定着しやすい場所でもある。
そのためにやたらと自己主張の強い者や個性の強い者が多く生活していて、ある意味その生活空間は混沌としている。だから異界なんて呼ばれているのだ。
ちなみに、ボルドラやその主人である女神は地上界を生活場所としている。
ミカエラは異界出身だが、この僕と鍛錬を積んだために今ではどの界に行っても心配ないほどに成長している…。
「…ーい。おーい、主様ー」
誰かの声が聞こえる。
といっても、これは間違いなくミカエラの声だろう。
「なんだー、ミカエラー」
「おーい。主様ー、起きてくださいよ-」
腹を突かれ、目を開けるとミカエラの巨大な顔が視界のほとんどを占領していた。
「わっ!」
慌てて起き上がったところで、僕はどこか高いところから転げ落ちる。
地面に突っ伏して倒れたのだが、草や土の匂いはしない。
何か柔らかく、しっとりとした手触りのものの上に落ちたようだ。
上体を起こし辺りを見回すと、そこは草原ではなかった。
ある意味草原的ではあるが、これは違う。
カーペットだ。
寝ぼけ眼にさらに周囲をよく見回すと、そこは見知ったところでさらに見覚えのある者がいた。
「あれ、…ボス?」
赤黒く艶のある机の向こう側に、頬杖をついて僕を余裕たっぷりに眺めている石像の男。
その表情は一見無表情に見えるが、彼がにやついていることが僕にはわかる。
「やあ、久しぶりだね」
石像の男はそう言って僕に手を振る。
「ボス。あれ?なんでここに?」
「倒れたんですよ。ボルトラと別れた後少しして」
ミカエラが倒れこんだままの僕をつまみ起こしながら言った。
「倒れた?」
「主様、何も食べていなかったじゃないですか。だからですよ」
ミカエラはくすくす笑っている。
「空腹で?ははっ、君らしいね」
「うーん…、全く覚えていないな。空腹で倒れて、その後お前がここまで連れてきてくれたのかい?」
僕はミカエラを振り返って、彼女の顔を見上げた。
「そうですよ。まあ、なんてことはありませんでしたけど。主様軽いし、それにわたしが自分で歩いたほうがよっぽど早く進めますしね」
ミカエラは僕を見下ろしながらにやりとした。
「ところで、ボルトラの件だが…」
石像の男がその硬い指先で机をコンコンと叩きながら続ける。
「ミカエルから話は聞いた。君たちが天界に降り立ったその森の出口に彼がいた、そして彼は君たちの石版に興味を持っていた。ということだよね。君もわかっているとは思うが、ボルトラは太陽の女神に仕える神獣だ。彼自身の意思で君たちをつけていたとは考え難い。となると、彼をそこへ派遣したのは女神アインの仕業でほぼ間違いないだろうね。しかしだ、なぜアインが君たちに興味を抱いたのかはわからないね…」
「ええ、僕もそう思っていました。アインは太陽の女神で地上界の住人です。各界の神人はその地に根付き、その地の安定に携わるのが基本です。まあ、その中でもアインは好奇心が旺盛過ぎるため、色々なことに執着しやすい性質ではあるのですが、数いる冒険者の中で僕らに目を付けた理由がわからないのです…。なによりわからないのがボルトラが出会い頭に言った一言です。彼は、僕の森から出てくるのがわかっていたのかという質問にまあな、と答えたのです。あの広大な森のどの場所からいつ出てくるのかがわかっていた、となるとそれは女神が知恵を与えたとしてもあり得ないと思うのです」
「なるほど…。君たちが森に入るところを見ていたとしても、いつ出てくるか、どこから出てくるかは予測が付けられない。あそこはどの位置から見ても同じにしか見えないようにできているから尚更だ。それに石版を気にしていたということも妙だ。モンスターデザインに用いられる石版は特殊な魔法を組み込まれている以外はただの石と何も変わらない。そんなことは一見すればすぐにわかることで、わざわざ欲しがるはずもない。全く…。考えたくないことだが、やはり君たちの仕事がバレているのかもしれないな…」
そう言うと、石像の男は何かを考えるかのように腕を組んだまま動かなくなった。
「うん、わかった。後は私が調べておくよ。それと、君が三年もかけて仕上げた力作のデザインも確認しておく。色々あるから少し時間がかかるかもしれないし、君たちは一旦家に帰りなさい。お疲れ様」
石像の男は組んでいた腕を解き、また頬杖をつく姿に戻ってしまった。
その姿にはいままでの生気は全く感じられない。
まるで本物の石像になってしまったようだ。
「さあ、行こうミカエラ。久々の我が家まであと少しだ」
「それと食事、ですよね」




