主と召使と 2
「素晴らしい…」
今まで居た部屋は、広さこそ十分だったものの、四方八方が灰色の壁に囲まれている慣れてしまえば窮屈な部屋だった。一旦作業を初めてしまえば塵や埃まみれで空気は汚れるし、何より薄暗いのが嫌だった。
僕があの部屋に入る事になった数ヶ月前から魔力研究部が新しく発見した魔力凝縮法と異説考古学部が命誕の大渓谷(ライブズキャニオン)で発見した鉱石を利用して作られた新型トーチMFF(Magic Fix Fire)が施設内の全ての照明に充てられた。
MFFには橙、青、黄、白の四色あり、それぞれが効能を持っている。
橙は、血行促進と新陳代謝の活性化。
青は、精神安定と空気の浄化作用。
黄は、興奮上昇と麻酔効果。
白は、遮音と防菌。
と、大体このような効果を得られるそうだ。
そこで、あの部屋に設置されたのが青のMFF。
確かに、埃っぽく窮屈なあそこには青色MFFはうってつけだが、それは僕ではない者にとってだ。
僕は仕事こそインドアだが、趣味は違う。
天気の良い日の日向ぼっこなんて大好物だし、そよぐ風の中並木道を散歩するなんてのも大好きなのだ。
しかし、あのトーチの効果もあって三年という長い間集中できていたのかもしれないという事実は否定出来ない。
設置された当初はたかがトーチにそんな有能な効果があるはずがない、と陰気な魔力研究部の奴らを小馬鹿にしていたものだが、実際その恩恵に預かるとは。
不覚だ。
僕は、青空の下の方が真価を発揮出来ると思っていたのに、これじゃ魔研の奴らに一杯食わされたようなものじゃないか。
思わずため息が出る。
「あれ?主様どうしました?なんか落ち込んでます?」
前を歩くミカエラが肩越しに僕を振り返る。
「いや、なんでもない」
それにしてもここは本当に不思議な所だ。
空は光源を持たないのに発光していて、風は吹いても物理的な圧迫は感じない。
温度は常に一定で暑くも寒くもならないし、時折空から薄橙の粒が降り注ぎ、それらがぶつかりあって薄いガラス同士を鳴らしたようなキラキラとした音が心地よく鳴ったり、空が急に発光を止め、地面が青や緑のグラデーションに輝き、下から空を照らす幻想的な明かりに変わったりするのだ。
僕はもっと色々なこの場所の変化を目の当たりにしているが、それら全てを言葉にすることは出来ない。
しかし、この場所にも一つ欠点がある。
気持ちよすぎて仕事をするのを忘れてしまう、ということだ。
とくに僕のような者にとっては空間そのものが麻薬のようなもので、この庭先になら何千年でもいられてしまうような気持ちになってしまう。
だから、この素晴らしい空間に浸ってしまうことのないよう、特殊な断絶効果を込められた石で囲まれたアトリエに軟禁されるのだ。
ちなみに、この場所に自由に出入りすることは出来ない。
入るためには各界の事務局に申請をし、それが承認されたとしても、今度は天界管理局との面接が百八回も行われる。
そうしてやっと侵入を許されたとしても、ここでやることはアトリエに篭って仕事に没頭することだけなのだ。
それだけこの場所が良く無いということでもあるのだろう。
「主様!いつまでもこんなとこ眺めてたら体に悪いですよー」
ミカエラの声が聞こえたと思った途端、体が宙に浮いた。
「悪い悪い。…ところで僕はいつから歩くのを止めていたんだ?」
「…だから主様はダメなんですよ。『いや、なんでもない』の後からずっとですよ。何回か声を掛けたんですけど、反応しないから…。もう、わたしが連れてくことにします」
「わかったよ、気を付ける。…だから僕の首根っこを摘むのは止めてくれ」
脱出用の魔法陣の上に乗り、ボスから支給された時間転移の固形呪文を置くと、固形呪文はバターが溶けるように魔法陣に染み込み、魔法陣は安定を示す青白い光から作動を示す赤い光へと変化していく。
すると、魔法陣が小刻みに振動し、パンという破裂音を放つ。
体が一瞬硬直し、びくりと反応する。
大きな音はどうも苦手だ。
魔法陣が破裂音を放った瞬間、魔法陣の上にいる僕とミカエラの時間が動き出す。
動き出す、とはいってもニュアンスが若干異なる。
今まで僕等がいた場所は時間の概念から逸脱した絶対空間である零領域のみで構成された異常物理空間なのだ。わかりやすく言えば、あそこにいた状態の僕らは断絶魔法を纏っていなければ空間そのものだった、ということだ。
それ故、あの場所についた名前は『絶対不可視侵の領域』。
その名の通り、本来は見ることも入ることも出来ない。
しかし、初めの生物である三賢人様が故郷である不可視侵の領域から生物世界を固定するために導き出した真理魔法の存在に気付いたヤーフールという神人がそれを呪文化した。
そのおかげで僕らはかの領域で行動できている、というわけだ。
だから、僕らは時間の概念のない空間から時間の概念の存在するところへ移動した、つまり時間が動き出したということになる。
時間層への移動が終わり、魔法陣が落ち着くと、辺りは見慣れた風景に変わっていた。
右も左もうっそうと茂る広葉樹だらけで、そこかしこから樹液の酸っぱいような香りと青臭い香りが漂ってくる。
まさに森。
アトリエの庭ほどに素晴らしいとは言えないが、僕はこの雰囲気もなかなか気に入っている。
僕らが降り立ったのは数ある木々の中でも特別大きくて太い木の幹をくり貫いたちょっと変わった祠の中だ。祠がこの森にあるというのもそうだが、祠が木であるということにも実は意味がある。
カモフラージュしやすいということだ。
僕らの仕事は、大勢に知られるわけにはいかないので、委員会の彼らも随分気を使ったらしい。
「ふー。着いてみると一瞬ですよね。いつも思うんですけど」
ミカエラが僕に続いて祠の入り口をくぐり出てくる。
「まあ、そうだね」
「主様、ガッカリじゃないんですか?」
「なんでさ?」
「主様、あそこ大好きじゃないですか。素晴らしい、最高だーっていっつも言ってますし」
「まあね、確かにあそこは気に入っているよ。でも、まやかしっぽさも感じるんだよ。ここにくると特にそう思う」
そう言って深呼吸すると、生命の香りが肺を満たし、なんだか生き返ったような気持ちになる。
「ミカエラ、少し休憩していこう」
少し湿った土の上に腰を下ろし、そのまま寝そべる。
ミカエラは祠の壁に石版を立てかけ、その側で背伸びをしていた。
「主様、わたしはやっぱりこの世界のほうが好きです。風を感じたり、暖かさを感じることも寒さを感じることも…。あそこから帰ってくるといつも思うんですよ。生命は重さなんだろうなって…。」
「生命は重さ、ね」
確かに、あの空間は僕にとってはとても気持ちのいい場所だが、そこが気持ちの良い場所だと感じるのは、ストレスを感じることをネガティブにしか捉えられない僕の固定概念のせいなのかもしれない。
少しの間僕とミカエラは黙ったまま、呆けていた。
「主様、そろそろ行きましょう?このままいたら眠くなっちゃいますよ」
そう言ってミカエラは僕を促した。




