序章 愛の費用対効果
「本日、毎月五日は「ナカヨシ・マイナポイント」の五倍還元デーとなっております。混雑が予想されますので、お早めのご入室をお願いいたします」東京郊外、甲州街道沿いにそびえ立つ巨大なコンクリート建築。かつて民間のレジャーホテルだったその建物は、今や看板を「国立ラブホテル・ミライ国立府中」へと掛け替えていた。市民課の職員だった私、佐藤は、この春から新設された「人口増加推進課」へ出向となり、この国家直営ホテルのフロント管理を任されている。自動ドアをくぐってきたのは、疲れ切った顔の若い夫婦だった。二人は慣れた手つきで自動精算機に向かう。画面に表示されているのは、部屋の空き状況ではなく「現在の助成金残額」と「第三四半期予算枠の進捗メーター」だ。メーターはすでに九十三パーセントに達しており、赤く点滅している。「あぶな……。今月分、もうすぐ締め切りじゃん」 夫が財布からプラスチックのカードを取り出し、スキャナーにかざした。ピピッ、と無機質な電子音が響く。「マイナンバーを認証しました。加藤拓海様、美咲様。配偶者間距離・維持規定クリア履歴確認。入室を許可します」画面には大きく「ナカヨシ・ポイント+五百ポイント」の文字が躍る。二人は安堵の溜息をつき、三〇二号室の鍵を取ってエレベーターへと消えていった。
この国において、恋愛や性愛はもはや個人の自由ではない。国力維持のための公務である。 三十歳を過ぎて独身の者は、月々五千円の独身税を徴収される。それを逃れるために結婚しても、今度はウェアラブル端末によって配偶者との距離と時間を二十四時間監視されるのだ。月間に一・二メートル以内に滞在した時間が二百時間を下回れば、基準未達として仮面夫婦罰金が次月の口座から容赦なく引き落とされる。その罰則を回避し、逆に優良市民として補助金を得るための聖域が、この国立ラブホテルだった。ベッドサイドに設置されたバイオセンサーが、これからの二人の行為の熱量と時間を冷徹に測定する。規定スコアを超えれば所得税が還付されるが、もし熱量不足と判定されればポイントは支給されない。フロントの監視モニターを見つめながら、私は手元のマニュアルに目を落とした。そこには役所特有の硬質なフォントで、今期の重点施策が並んでいる。
「当施設における重要遵守事項」 本施設は国家による生殖推奨事業の一環であり、民間ホテル時代に認められていた「避妊具の持ち込みおよび利用」は全面的に禁止されております。万が一、客室清掃時に使用済みの避妊具、あるいはそれに準ずる遮断物が検知された場合、不妊罪および国家リソース毀損の罪として刑事罰の対象となり、マイナポイントは即時全損、婚姻関係の「強制再起動:再開通手数料:金五万円」が適用されます。ちなみに、この国立ラブホテルは公務員の二親等までは福利厚生として三割引きで利用できるため、うちの課長の娘などは毎週のように通っているらしい。その時、内線電話が鳴った。三〇二号室の加藤夫妻からだった。「あの、すみません。ベッドのセンサーが親密査察エラーで赤く点滅してるんですけど……」「申し訳ございません」 私はマニュアルの文言をよどみなく読み上げる。「心拍数および皮膚温度の上昇率が、国家基準の愛の最低充足値に達していない可能性がございます。そのまま三分間、密着状態を維持してください。システムが再スキャンを行います。なお、今期の予算枠は残りわずかとなっておりますので、お急ぎください。愛は早い者勝ちです」
受話器を置くと、モニターの数値がわずかに上昇を始めた。数千円分のポイントのために、国家に寝室を覗かれ、行為を採点される市民たち。私は引き出しから、民間の私立ラブホテルがまだ存在していた頃の、古い色褪せたパンフレットを眺めた。そこには、ただ純粋に、誰の目も気にせず抱き合っていた男女の影があった。だが、そんな感傷に浸っている暇はない。明日は「国家公認・独身者向け連帯責任シェアハウス」の抜き打ち交流査察の日だ。会話のない時間が数分でもあれば、彼らの減免措置を停止しなければならない。私はネクタイを締め直し、次の公務に励む市民たちを迎えるため、フロントの画面を更新した。




