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第16話 退院祝い

家に帰ると、玄関の向こうから明るい声が聞こえた。


「おかえり、夏!」


 リビングに入ると、母さんがエプロン姿で出迎えてくれた。テーブルの上には料理が並び、まだ湯気が立っている。


 焼き魚、煮込み、サラダ――。

 俺用の焼き肉もある。


 ソファには、小蓮が座っていた。まだ顔色は少し悪い。でも、退院できたせいか、どこか晴れやかな表情をしている。


「おかえり、夏。異世界はどうだった?」


 少し笑みを浮かべながら、小蓮が言う。その声にも、前より少し力が戻っているようだ。


「まあ、いろいろあったけど、なんとか帰ってきたよ」

「いろいろね……。あとで詳しく聞かせて」


 母さんがエプロンを外しながら、俺たちをテーブルへ呼んだ。


「さあ、座って。今日は小蓮の退院祝いよ」


 三人で席につき、「いただきます」と声をそろえる。俺と母さんは「退院おめでとう」と小蓮に言った。


 食卓には、いつもの匂いがあった。父さんの煮込みは相変わらず優しい味で、噛むほどに出汁の旨味が広がる。


 小蓮は久しぶりの家の味だからか、何度も「おいしい」と言いながら、驚くほど食べていた。


 それを見て、母さんがうれしそうに微笑む。そんな二人の顔を見るだけで、今日の疲れが少し軽くなる気がした。


 食後。

 ケーキを前にした小蓮が、ふと俺を見た。


「……で、異世界実習って、どんな感じだったの?」


 マグカップを両手で包みながら、静かに聞いてくる。


「うーん……そうだな。まず、門をくぐった瞬間に空気が変わった。外から見たときは赤黒かったのに、中は草原みたいに緑で、ちゃんと風もあった」

「怖くはなかったの?」

「最初はな。でも……どこか懐かしい感じもした」


 小蓮は目を細めて聞いていた。まるで、話の向こうにある景色を思い浮かべているみたいだった。


「それで、モンスターとは戦ったの?」

「……ああ。スライムとゴブリン。ただ、俺は全然ダメだったなー」


「ダメだった?」

「スライムにはダガーが刺さらないんだ。他のみんなは普通に倒してたのに、俺だけ刃が弾かれる感じで。それで逆に体当たりされて、けっこう痛かった」


 自分で言っていて、情けなくなる。

 それでも小蓮は、ふざけずに真剣に聞いていた。


「ダンジョンの中でも似たようなことがあった。ゴブリンに囲まれて……、もう終わりだと思ったんだ。でもその瞬間、転んだ。そしたら俺を囲んでたゴブリン同士で――」


「……どうなったの?」

「棍棒がそれぞれの頭に当たって、二体まとめて倒れた。それで、黒い砂みたいになって消えた」


 少し間を置いてから、俺は続ける。


「――“ポーン”って音が、また聞こえたんだ」

「ポーン?」

「耳鳴りだと思う。覚醒してから耳鳴りがするんだ。ストレスかな」


 小蓮が首をかしげる。


「それって、レベルアップの音じゃないの?」

「そう思ったけど……、違うと思う」

「どうして?」


「本来、レベルが上がるときって、体が一瞬熱くなるとか、力が湧いてくる感じがあるらしい。でも俺は、何もなかった」

「たしかに、そう言われてるね……」


 夕食のあと、母さんは台所で洗い物をしていた。父さんは、まだ店の後片付けの時間だろう。


 リビングには、テレビの音と、食器が触れ合う小さな音だけが流れている。


 俺と小蓮は、テーブルを挟んで向かい合い、湯気の立つマグカップを手にしていた。


「養成所、あと二日で修了なんでしょ?」

「ああ。……ようやくって感じもするし、あっという間だった気もする」


 口にしながらも、胸の奥には引っかかりが残っていた。達成感より、この先どうするかの迷いのほうが大きい。


「修了したらどうするの?」

「異世界には行くつもりでいる。でも……正直、迷ってる」

「迷う?」

「今日の実習で、俺はほとんど何もできなかった」


 小蓮はカップをテーブルに置き、少し照れたように笑う。


「私も明日から養成所だからね。やっと同じ場所に行ける気がする」

「そういえば、体調どうなんだ?」

「うーん、どうかな。まだ退院したばっかりだしね。とりあえず午前中は授業、午後は体力訓練ってとこかな。まだ外の実習は無理かも」

「焦らなくていいさ。体が本調子になってからで」

「まあ、すぐ追いつくよ。僕は、夏の三倍は強いからね」


 小蓮はそう言って、カップを両手で包んだ。淡い金色の髪が、照明を受けてやさしく光る。


 時計の針が静かに進む音。そのリビングの空気が、不思議と心地よかった。



 その夜。


 自分の部屋に戻ると、鞄を机の横に置いた。ジャージのままベッドに腰を下ろし、個人端末を開く。


 田中先生に聞いた名前が、まだ頭の中に残っていた。


 ――月光草。


 検索欄に打ち込む。すぐに、探索者向け公開資料のページが並んだ。


 異世界の岩場や、低層ダンジョンの奥にまれに生える薬草。暗い場所では、白く淡い光を放つ。傷みやすく、採取後は早めの保存処理が必要。


 上級回復薬“リカバリードラフト”の主要材料。


「……ほんとに、あるんだな」


 思わず、小さく呟く。


 画面をスクロールする。採取推奨ランク、D級以上。ただし単独行動は非推奨。周辺にはグレイウルフ、ロックモールなどの低級モンスターが出現。まれに上位個体の報告あり。


 そこまで読んで、指が止まった。


 D級以上。

 単独行動は非推奨。

 モンスターの上位個体。


「無謀か……」


 今日の自分を思い出す。スライムにダガーは通らず、ゴブリン相手には転んでばかりだった。


 月光草は、たしかにE級でも手の届かない話じゃない。


 でも、今の俺じゃ……。


 個人端末を閉じかけて、止める。もう一度、月光草の画像を開いた。湿った岩陰に生える、細い白い草。先端だけが、かすかに青白く光っている。


 こんな小さな草が、小蓮を助ける材料になる。そう思うと、不思議と目が離せなかった。


「……見つけるしかないよな」


 誰に言うでもなく呟いて、俺は端末を握り直した。



 side 北海拓磨


 川北ギルド本部の地下。


 白い壁一面に試験管が並び、淡い光を帯びた液体が静かに揺れていた。薬品のような匂いが、ひんやりした空気の中に薄く漂っている。


「――北海くん。君が希望したモノだ」


 白衣の男が、実験台の上に置かれた小瓶を指さした。中では、淡い桃色の液体がゆっくりととろみを返している。


「これが、“ヴィーナス・ドロップ”だ」


 北海拓海は、思わず息をのんだ。噂でしか聞いたことのない、禁制薬。


「それが……」

「そうだ。理性を抑制し、快楽中枢を暴走させる。効果はおおよそ三時間から五時間――その間、すべての刺激が快感に変わる」


「……副作用は?」

「ほとんどない。ただ、使用後の記憶が一部曖昧になる。それと――使われた本人は、夢の中のような時間だったと錯覚する」


 男は淡々と言った。そこにためらいはなく、倫理の影もなかった。


「覚醒者にも効くんですか?」

「効く。ただし、相手の格が上がれば、通じないこともある」


 白衣の男が、口元だけで笑った。その笑みには、人を道具としか見ていない冷たさがあった。


 そして、小瓶を北海へ差し出す。


「扱いは慎重に」


 瓶は冷たかった。揺らすと、ガラス越しに液体がぬめるように光を返す。


「……誰に使うつもりだ?」


 試すような問いに、北海は少しだけ目を細めた。


「知り合いですよ」


 答えは短かった。だが、その声には妙な熱があった。


 液体が揺れるたび、光が色を変え、淡く甘い香りが立ち上る。北海は小瓶の蓋を閉め、胸ポケットへ滑り込ませる。


 その口元には、満足とも、陶酔ともつかない薄い笑みが浮かんでいた。

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