第11話 妻は旦那様がありのまま過ぎて困る、こともある
ヴェルクがふいに立ち止まったので、シュネーもつられて立ち止まる。
「……つまり君には、好きな男性はいなかった、と? 『子供ではない』というのは……」
「ほとんどそのままの意味ですわよ。成人していますもの」
穴が開くほど見つめられるので、彼女は率直に気持ちを話すことにした。この期に及んで隠すことも、恥じらうことも何もないだろうと思ったのだ。
「私、この結婚が嫌だったのではありませんわ。素敵な方と結婚できたと思いましたもの。
ですが、結婚のすべてを、ヴェルク様への好意を、あなたのためにすることを全部『よい娘』、『遠慮がちな妻』なんてものに回収されることが。
あなたにも政略結婚に流されるだけの、庇護すべき子供と同じように見られることが、腹が立って仕方なかったのですわ」
シュネーは紅玉のような瞳が鮮やかさを取り戻して揺れているのに気付き、自分でも彼の心を乱すことができているのだと、少し嬉しくなった。
「私、本当はまったくもって善良な人間ではありませんの。我儘で好き勝手なことをして。体の中が寒いから、せめて周囲は心地良いもので満たしたいだけなのです。
そのためには手も汚します。そういう、大人ですわ。
ですからヴェルク様にも、多少のことは信用して話していただきたいのです」
鼻を鳴らして言い切れば、ヴェルクは狐につままれたような顔をしている。
「……聞き間違いだろうか。……もう一度言ってくれないか」
「私、善良な人間では……」
「その前」
「ええと、腹が立って仕方なかったのですわ?」
「もっと前だ、その、好意だと……」
「ええ。ですから。今の私はヴェルク様をお慕いしております」
情けないくらいに緊張しているヴェルクに返すのは、今日のパンにはバターを付けます、くらいの甘さの欠片もない口調。
思わずつられて真面目に返してしまったと気付いたシュネーは、伏し目がちにもう一度言い直す。そこには追加で乗せる苺ジャムくらいの甘さは、あったかもしれない。
「……お慕いしております」
「もう一度は言わなくていい……いや、何回言ってくれてもいいが、外ではやめて欲しい……あと、コートを着て欲しいのだが。脚が見えている」
「ヴェルク様も意外にわがままですわね。ものにはタイミングというものがありましてよ」
手のひらから勝手に流れ込んでくる魔力がひどく熱いので、シュネーは以前のように首筋に手を伸ばした。
***
「あのね、あなたを見に行ってからヴェルクの挙動がおかしかったのよ。何度も小火を起こしかけてたの」
「母上!」
「本当のことじゃない。どんな美女でも目で追わなかったのに」
その日の夕食の席では、シュネーがほんの少しだけ恐れていたような、乱暴で向こう見ずな辺境伯夫人への弾劾などは行われなかった。
義母のジークルーンはにこにこして義父に引っ付いているので、二人が手を繋いで揃って帰還したことが、余程嬉しかったのだろう。
「私もね、あなたの度胸を買って来てもらうことに賛成したのよ。あなたくらい素直じゃないと、ヴェルクも自分からなーんにも動かないし。
だからご実家が何を言ってきても、あなたを実家に帰すつもりはないの」
隣でヴェルクに輪をかけて――いやこちらが本家だろう、寡黙な義父も頷いている。
圧を掛けられるのも困るが、こうやって好意に言及されるのもいたたまれないものだ、とシュネーは初めて知った。
そして、お城に帰ってからヴェルクに受けさせられた魔法医の診察で、「魔力の滞りは初恋のせいだったのでしょうね」と言われたのを、必死で口止めしておいて良かったと心底思った。
魔力にとってのストレスとは、慣れない感情でも起こるからだそうだ。
***
「――小火を起こしかけたから、服を着られなくなったのだ」
久しぶりの夫婦の寝室で義母の言葉を反芻するヴェルクは、ソファに腰を下ろすシュネーに温かい紅茶を渡し、ひどく真面目な顔で隣に腰掛けた。
「……実は、君と結婚できることが決まってから、どうも体の熱をうまく逃がせないことが増えてしまった。色々な意味で変わっていることは重々承知していたから、言い出せなかったのだ」
「まあ、変わっているご自覚はありましたのね。体質は仕方ありませんけれど」
「最初こそぎょっとされたが、わたしも皆もいつしか慣れてしまった」
「……そうでしょうね」
「わたしも君が人前で毛皮を着ていないと、薄着だと思うようになってしまったからな」
もこもこのルームウェアに包まれてお茶を飲みながら、シュネーは頷く。
薄着も厚着も文化の違い、見慣れているかそうでないかの違いは大きい。
「でも私、やっぱり腹が立ちますわ。ヴェルク様よりずっと年下で子供っぽい――それは認めますわ。だからってそうやって、私の意見を聞かないのは悪いところですわね。
それと私、私をありのままとかにさせることで、旦那様が満足なさるのにも我慢できません」
「それはどういう意味だろうか」
「中途半端に私を満たしたって、ご自身がありのままでなければ代替でしかありませんわ。
何か失敗したところで私がどうにかします。そのために政略結婚されるくらいなのですから、根拠は十分あるはずですわ」
「……君は意味を理解して発言しているのだろうか」
疑問の目をぶつけられて、また子ども扱いするとシュネーはいらっとする。
お茶を飲み干すとサイドテーブルにカップをかちゃりと音を立てて置き、立ち上がる。
そして彼の目の前で、もこもこルームウェアを脱ぎ始める。
「シュネー? ……ちょっと待って欲しい」
「ありのままでいいとは、嘘でしたの? あんな泥まみれ血まみれの姿までお見せしたのですわよ。私ももっと、みっともないヴェルク様を見たいですわ」
脱いだルームウェアをベッドに放れば、あの日初夜で披露するはずだった膝丈の白いネグリジェが現れた。
一歩近づけば、座っていて逃げ場のないヴェルクは体を反らす。
「若い女性が、人前でそのような姿になるのは」
「夫以外誰も見ていません。妻ですから合法です」
「違法だとは言ってない。だから簡単に脱ぐのはどうかと……いや、わたしが言えた義理ではないが……」
「そうでしょう? ずっと半裸だった方が、今更人には『脱ぐな』なんて言えませんわよね? 墓穴を掘りましたわね」
シュネーは勝ち誇った笑顔を浮かべる。
ネグリジェは可愛らしく清楚ではあるが色っぽいデザインではないし、腰に腕を当てて胸を張れば色気も何もない。
とはいえ、ヴェルクはこれほど薄着の妻を見たのは初めてだ。顔を凝視して身体を見ないようにしているのが分かる――ちょっと前までのシュネーと同じように。
「早く着た方がいい、風邪を引いてしまう」
「大丈夫ですわ。寒くない……寒くない……寒……さむいですけど、寒くなんて、ありません。こうしていれば」
……くしゃみを出る寸前で堪えて、ヴェルクの手を取る。
熱いくらいの魔力が流れ込んでくるので、少々薄着でも問題なさそうだ。
「……いいか、確率的に相当低いはずだが、もしも君が寒くなかったと仮定してだ。わたしが『暑くなって困るから助けてあげよう』という慈悲をくれても良いのではないだろうか」
「だから、冷やして差し上げれば問題ありませんわ。それと――」
「周囲を見境なく燃やしてしまったらどうする」
ヴェルクの紅玉の瞳が、部屋の暖炉やベッド、カーテンを辿る。
シュネーも視線でそれを追って片手を顎に戻して少し考え、にこりと自信ありげに笑った。
その表情が何か“良いこと”――他の大人にとっては時にろくでもない思い付きであることを、ヴェルクは既に理解している。
「大人だから平気なふりをしなくちゃいけないなんてこと、ありませんわ。失敗するのが当然として、対処法を考える方が良いと思いますわ。
逆に燃やしてはいけないものをつい燃やしてしまう――ならば、燃やしていいものを先に置いておくのです」
「……うん、それは思い付かなかった。試す価値がある提案だと思う」
ヴェルクは参ったというように首を振り、深い息を吐くと、筋肉質な腕でシュネーの腰を引き寄せて膝の上に座らせる。
長く川の流れのような白銀の髪に鼻先を埋めれば花が香った。
「分かった、少し好きにさせてもらおう」
「……あら、くっつくと暑くありませんの?」
「暑いよ。……それで君の言うように、それ以上に、そうしたいから、している」
そっと抱きしめれば体格差がはっきりして、壊れ物を扱うように指が腕の線を辿った。
「ただ、君もちゃんと冷やして欲しい。このまま勢いで新雪を踏むようなことはしたくない」
「何ですの、それ?」
「……やはりまだ早いな、君には」
何かを押し殺したような熱い息に文句を言おうとした時、腰に回ったヴェルクの指先に炎がちらつく。
だからシュネーは慌てて首筋と手を冷やすのに気を取られ、文句も続く詰問も口から出ることはなかった。
それからしばらくの間、ヴェルクの周囲には不自然な松明やら何やらが置かれるようになった。
城の皆は慣れたもので、それからは結婚記念日や、パーティーでシュネーが新しいドレスを着る日、誕生日などには松明の本数が増えた。
いつか松明が周囲から消えてシュネーが油断していれば、代わりに人目がないところで腕が伸びて抱きしめてくる。
「ありのまま過ぎて少し困るのですけど」
「やはりこれが一番落ち着く」
寝室にいれば、すぐに口付けが落ちてくる。今までの距離感は何だったのだというくらいだ。
文句を言っても届かないし、魔力の温かさにあやされてしまうのが今の一番の不満だ。
(……ヴェルク様って、意外と甘えん坊ですわよね)
そう思うが、人前で領主として振舞うのも大変なことが多いのだろう。頻度は減ったが、シュネーが中庭で子供たちと雪遊びをする時には、時折混じるようになった。
親兄弟を気遣うあまり、そして嫡男としての教育のために子供らしい子供時代を過ごしてこなかったらしい。
そういうことにも、無理に急いで家族になろうとすれば気が付かなかっただろう。
実家からのせっつきは、ヴェルク義父母が対応してくれたので止んだので、シュネーも焦らされることはなくなった。
「もうちょっと二人きりで過ごした方が、良いかもしれませんわね」
「……そうだな、わたしもまだ君を知り足りない」
ベッドで戯れる時にくすぐったそうに答える声に、シュネーは今度は自分がつい凍らせてしまわないようにと、熱い指先を探してそっと自分のそれと絡める。
その後の二人は、時折領内のトラブルはあったものの、おおむね平穏な日々を過ごした。
お互い、ごくまれに魔力が暴走して対処に必死になったり、喧嘩をした時には魔法をぶつけ合う時もあったが、それは最終的に溶け合って水蒸気になり、大なり小なり虹になる。
そしていつしか、ヴェスト辺境伯領を訪れる旅人が丘の上に立つ城の、晴れた空に架かる虹に疑問の声を上げれば、みな領民に聞かされることになるのだ。
それは今日もヴェストが平和な印で――「城に虹がかかる」は、夫婦仲が良いことのたとえなんですよ、と。
「甘えん坊」は鈍くてずれているシュネーの主観なので、実際はコミュニケーションと魔力交換と、色々慣れるための一環だったりします。
お読みいただきありがとうございました。