↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
来週も、君に会いたい  作者: reika1021


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/10

第5章:何でもないという夜

金曜日の朝はいつもより雲が多く、水瀬紬は窓の外を見上げながら、今夜は律の部屋で過ごすことになっていることを思い出した。


そう決まったのは、特別な理由があったわけではない。仕事帰りに食事をして、そのまま近いからという理由で律の部屋に寄ることは、これまでにも何度もあった。それなのに今朝は、その何気なさに、いつもとは違う重みを感じていた。


天井を見上げながら、紬は自分がなぜそんな重みを感じるのかうまく説明できないでいた。特別な予定があるわけではないのに、朝からずっと心のどこかがざわめいていた。


身支度を整えながら、紬は鞄の中身を確認した。着替えを一枚多めに入れておくという習慣も、いつの頃からか自然に身についていた。


特別に意識したことはなかったが、こうして鞄に手を伸ばす瞬間にはいつも、小さな緊張が伴っていた。着替えを入れるという行為一つにも、これから始まる夜への期待と不安が同時に織り込まれていた。


会社ではいつも通りの一日が過ぎていった。原稿の確認、企画の打ち合わせ、細かな修正作業。仕事に集中している間だけは夜のことを考えずに済んだ。


昼休み、紬は同僚とランチに出かけた。何気ない世間話の合間に、紬はふと律の部屋の間取りを頭に思い浮かべていた。ソファの位置、キッチンの棚の高さ、寝室のカーテンの色。


どれも詳しく説明されなくても知っている情報だった。同僚が語る恋愛相談を聞きながら、紬は、自分の状況をどう説明すればいいのか、頭の片隅で考えていた。恋人でもただの友達でもない関係を、言葉にする方法がまだ見つからなかった。


終業後、紬は駅までの道をいつもより少し軽い足取りで歩いた。夕方の空気には秋の気配がわずかに混ざり始めており、街路樹の葉先が少しずつ色を変える準備をしていた。


季節が移り変わる速度は、いつも人の感情の速度とは無関係に進んでいく。紬は、その無関心さに時々救われるような気持ちになった。自分がどれだけ思い悩んでいても、街の景色は淡々とその表情を変え続けていく。


恵比寿の駅前で律と落ち合い、いつもどおり夕食をとった。食事の内容も交わされた会話も、これまでの金曜日と大きく変わるものではなかったが、紬は今夜という夜がいつもと違う場所へ続いていることを意識せずにはいられなかった。


食事の間、紬は何度か律の様子を確認するように見つめた。特に変わった素振りはない。それなのに、これから向かう場所を思うと、いつもの会話にすら微かな緊張がにじんでいる気がした。


食事を終え、律の部屋へ向かう道すがら、街灯の光がそれぞれの影を伸びたり縮んだりさせながら追いかけてきた。紬はその影の動きを見つめながら、この道を何度歩いてきただろうと考えた。数えることはもうとうに諦めていた。


律の部屋のドアを開けると、いつもの匂いが紬を出迎えた。柔軟剤の香りと微かなコーヒーの匂いが混ざり合った律の部屋特有の匂いだった。紬はその匂いを吸い込むたびに自分がこの空間にどれほど馴染んでいるかを改めて実感させられた。


玄関で靴を脱ぐ仕草すら、もう考える必要のない動作になっていた。体が勝手にこの部屋の間取りに沿って動いていくその自然さが、時に誇らしく、時にどこか物悲しくも感じられた。


「適当に座ってて」


律はそう言いながらキッチンでグラスを二つ用意し、紬は言われるまでもなくいつものソファのいつもの位置に腰を下ろした。クッションのへこみ方まで体が覚えている位置だった。


腰を下ろした瞬間、体の力が自然に抜けていくのを感じた。この部屋の中でだけ得られる安堵感が確かに存在していたが、それがどこから来るのか紬は改めて考えようとして、すぐにその答えの近さに戸惑った。


テーブルの上には、律が読みかけの本が伏せて置かれており、紬はその表紙をちらりと見て以前貸した本の続編だと気づいた。この部屋にはそんなふうに、互いの痕跡があちこちに自然に溶け込んでいた。


本のページの折り目や栞代わりに挟まれたレシートまで、紬にはどこか見覚えがあった。誰かの生活の中に自分の存在の欠片が紛れ込んでいるその光景は、いつ見ても不思議な安心感を紬にもたらしていた。


律がグラスを運んできて、紬の前に置いた。炭酸水に薄く輪切りのレモンが浮かんでいる。これもまた、紬の好みを聞くまでもなく彼は知っていた。


グラスの表面についた水滴がテーブルクロスにゆっくりと染みを広げていく。紬はその染みの形を目で追いながら、これほど当たり前になった好みの一致がいつから始まったのかを思い出そうとしたが、始まりはすでに思い出せないほど遠かった。


「ありがとう」


「うん」


短いやり取りの中に、これまでの時間の厚みが静かに横たわっていた。言葉を交わさなくても成立する呼吸の合わせ方が、この部屋の中にはいつも満ちていた。


テレビをつけると、律は特に見たいわけでもなさそうな番組を流し始めた。紬はその選択にも、彼の性格の一端を見た気がした。何かを積極的に選ぶよりも、ただその場の空気を埋めることを優先する人だった。


画面の中では見覚えのある芸能人が他愛のないトークを繰り広げていたが、内容はほとんど頭に入ってこなかった。しかし、その音の存在自体がこの部屋の静けさを心地よく満たしていた。


紬はふと思い浮かべた。冷蔵庫の中身のこと。牛乳が少なくなっていること、卵がまだ半パック残っていること、隅に紬が置いていった調味料の小瓶があること。どれも、確認しなくても分かる情報だった。


「お腹すいた?何かつまむ?」


律が尋ねてきたので、紬は小さく首を振った。


「今はいい。さっき食べたばっかりだし」


「そっか」


そんな他愛のないやり取りが、この部屋の中では数えきれないほど繰り返されてきた。紬はその繰り返しの心地よさにいつも安心を覚えてきたが、今夜は、その心地よさの奥に何か違う感情が静かににじみ出ているのを感じていた。


「そっか」という短い相づち一つにも律なりの気遣いが込められている気がした。深追いせず、必要以上に踏み込まないその距離感がこれまでずっとこの関係を支えてきた基盤だった。


心地よさと寂しさがこんなにも近い場所に同居できるものだとは、紬はこれまで知らなかった。安心していいのか、警戒すべきなのか、その判断がつかないまま時間だけが静かに過ぎていった。


こういうとき、答えを急がないことも一つの選択なのだと、紬は思うようにしていた。焦って結論を出せば今ある関係そのものが崩れてしまうかもしれないし、曖昧なままでいることの方が今はまだ安全だった。


律がソファに腰を下ろすと、その距離は自然と近くなった。肩が触れるか触れないかの位置で互いにテレビの画面をぼんやりと眺めていたが、この距離感もまた何年もかけて調整されてきた確かな均衡だった。


均衡というのは、どちらか一方が動けば簡単に崩れてしまうものだった。紬はその危うさを承知の上で、あえてこれまでその均衡を保ち続けてきた。均衡を崩す勇気よりも、均衡を守る安心の方をいつも優先してきたからだった。


律のスマートフォンは、充電器につながれたままテーブルの端に置かれていた。紬は、その充電器の位置もコードの長さもすべて記憶していることに気づいた。この部屋の中で、紬が知らないものなど、もうほとんど残されていないはずだった。


それなのに、この部屋の中で唯一知り得ないものがある。律の内側にある感情の輪郭だけが、どれだけ長く一緒にいても確かめるすべがなかった。物の配置は覚えられても、心の配置図までは見えなかった。


心という地図には目に見える目印がどこにもなく、手探りで進むしかないその領域に紬はいつも二の足を踏んできた。踏み込んだ先で迷子になることを何より恐れていたからだった。


「眠くなってきた」


律がふとつぶやいた。その声には隠しきれない疲労の色がにじんでいた。紬はその声の質感だけで、彼が今どれくらい疲れているのかを正確に読み取ることができた。


「先週から忙しそうだもんね」


「まあね。でも、紬といると少し楽になる」


その一言に、紬の胸の奥がわずかに揺れた。何気ない言葉のはずなのに、その響きはいつもより深く紬の中に染み込んでいった。「楽になる」という言葉の裏にどれほどの意味が込められているのか、紬には測りかねた。


楽になるというのは、緊張が緩むという意味だろうか、それとももっと積極的な安らぎを指しているのだろうか。言葉の解釈一つで紬の胸の温度は簡単に変わってしまいそうだった。


律は目を閉じ、ソファに深く体を預けた。その寝顔に近い表情を、紬はしばらく黙って見つめていた。仕事で失敗した日の顔も、体調を崩した日の声も、紬はすべて知っている。


それなのに、彼が誰を好きになるのかを決める権利だけが、紬にはなかった。


こんなに近くにいるのに、私はこの人の何でもない。


その言葉が、紬の中で不意に形を成した。これまで何度も感じてきたはずの現実が、今夜だけはこの上なく鮮明な輪郭を持って、紬に迫ってきた。


これまではこの現実に気づかないふりができたが、一度言葉になってしまった感情は簡単には元の曖昧さへ戻ってくれなかった。輪郭を持った痛みはより鋭く紬の内側を刺していった。


冷蔵庫の中身を知っていること、充電器の位置を知っていること、疲れた声の理由を聞かなくても分かること。


それらはすべて、恋人同士が積み重ねるはずの記録と何一つ変わらないものだった。それなのに名前だけがどこにも存在していなかった。


紬は、自分の膝の上に置いた手をぼんやりと見つめた。この手でこれまで何度も律の袖を軽く引いたことがあるし、転びそうになった彼を支えたこともある。


それなのに、その手を彼の手と重ねたことは一度もなかった。


律の規則正しい呼吸の音が、部屋の静けさの中に溶けていった。紬はその音を聞きながら、自分がこの部屋にいることの意味を改めて問い直していた。友達なら、こんなふうに隣で眠る相手の顔を、これほど熱心に見つめたりはしないはずだった。


呼吸の間隔が少しずつ深くなっていくのがわかり、眠りに落ちていく彼の無防備な姿を、紬はこれまでも何度となく見てきた。それなのに、その無防備さを愛おしいと感じてしまう自分を、今夜だけは止められなかった。


窓の外では夜がゆっくりと深まり、カーテンの隙間から漏れる街の灯りが律の頬にわずかな陰影を作っていた。紬は、その陰影の揺らぎを見つめながら自分の中に生まれた寂しさの正体を少しずつ言葉にしようとしていた。


寂しさは、律がいないことから生まれるものではなかった。むしろ、律がすぐ隣にいるからこそ生まれる寂しさだった。近くにいながら、決して埋まらない距離があるということ。


その事実がこれまで以上に重く紬の胸にのしかかっていた。物理的な距離はゼロに近いのに、感情の上での距離だけがいつまで経っても縮まる気配がなかった。


律がふと目を開け、紬の視線に気づいた。


「どうした?」


「ううん、なんでもない」


紬はとっさに視線を逸らし、テレビの画面に目を戻した。今の自分の表情に何が浮かんでいたのか、紬自身にも分からなかったが、分からないまま律にそれを見られたくないという気持ちだけがはっきりしていた。


律は特に深く追及することなくまた目を閉じたが、その素直な信頼が今夜の紬にはこれまでとは違う重みを持って感じられた。信頼されているからこそこの距離を守り続けなければならない。


そんな義務感が紬の中で静かに首をもたげていた。信頼を裏切らないことと自分の感情に正直になること、その二つが今夜だけはうまく両立してくれなかった。


紬は律の眠りを妨げないようにと、テレビの音量をそっと下げた。恋人でなくても自然にできる行為だった。それなのに、その配慮の一つひとつが、紬にとっては愛情の表現そのものでもあった。


行為の意味はいつも見る側によって変わる。友達としての気遣いなのか、恋愛感情から来る優しさなのか。境界線はどこにもなく、紬はその曖昧さの中でこれまでずっと自分の感情を偽装してきたのかもしれなかった。


偽装という言葉を使うことに紬は自分でも少し驚いたが、他に適切な言葉が見つからなかった。優しさという名目で本当の気持ちを覆い隠し続けてきたことに今更ながら気づかされていた。


しばらくして、律が薄目を開けた。


「悪い、寝落ちしかけてた」


「大丈夫、疲れてるんだから」


律の疲れた声を聞くたびに、紬の中には労わりたいという気持ちともっと自分に頼ってほしいという矛盾した願いが同時に湧き上がり、どちらの感情も嘘ではなかった。


「紬、今日泊まってく?」


その問いかけはこれまでにも何度か交わされてきたものだったが、今夜その言葉を聞いた瞬間、紬の中で何かが小さく引っかかった。当たり前のように交わされる言葉の中に、当たり前ではない意味が潜んでいるように感じられた。


泊まっていくという行為がこれほど重い意味を持つと感じたのは初めてかもしれなかった。何年も繰り返してきたはずの言葉なのに、その響きだけが今夜は違う色を帯びていた。


「うん、泊まってく」


紬はいつも通りの声で答えたが、その声の平静さと心の中の揺れとの間には大きな隔たりがあった。それでも紬は、その隔たりを表に出さないことにこれまでずっと慣れていた。


律は満足そうに小さくうなずき、立ち上がって寝室の準備始めた。紬はその後ろ姿を見送りながら、この部屋のすべてを知っているはずなのに、彼の本当の気持ちだけはいまだに何一つ確信を持てないでいる自分に気づいた。


物は覚えられても心までは覚えられない、という当たり前の事実が今夜に限って妙に残酷な真実のように感じられ、分かり合っているようで実は何も分かっていないのかもしれなかった。


紬は、洗面所を借りて歯を磨きながら鏡の中の自分と向き合った。この鏡に映る自分の顔を、これまで何度この部屋で見てきただろう。見慣れているはずの光景なのに、今夜に限ってその顔がどこか他人のもののように見えた。


歯磨き粉の泡を吐き出しながら、紬は自分の表情を注意深く観察した。いつも通りの落ち着いた顔をしているつもりだったが、目の奥には隠しきれない疲れと戸惑いがにじんでいるようだった。


鏡の中の自分に、紬は小さく問いかけてみた。このままでいいのか、と。答えはすぐには返ってこなかった。


ただ、問いかけたという事実だけが、今夜という夜に確かな爪痕を残していった。


寝室に敷かれた布団は、いつも通り二組並べて用意されていた。


律が几帳面に整えた布団の端を、紬は目の端で確認した。乱れなく並んだその様子は、彼の几帳面さの表れでもあり、越えることのできない境界線の証しでもあった。


その並び方にもこれまで一度たりとも変化はなかった。紬はその規則性の中に律なりの誠実さを感じる一方で、その誠実さがもたらす距離の確かさにも静かに向き合わざるを得なかった。


規則正しく並べられた布団の間には腕を伸ばせば届くほどの隙間しかない。それなのに、その隙間はどんな言葉よりも雄弁に境界線を主張しているようだった。


わずか数十センチのその隙間を、これまで一度もまたいだことがなかった。またがないことが優しさなのか、それとも臆病さなのか。今夜の紬には、その区別すらはっきりとはつかなかった。


明かりを消し暗闇の中に横たわると、律の寝息がすぐ近くから聞こえてきた。壁一枚を隔てないこの距離の近さ。それなのに、紬の心の中には越えられない透明な壁が確かに存在していた。


透明な壁は目には見えない分、余計に厄介だった。触れようとしてもその存在すら証明できないが、そこに何かが立ちはだかっていることだけは紬にははっきりと感じ取れた。


「おやすみ」


律の声が闇の中で静かに響いた。


「おやすみ」


紬もまた同じ言葉を返した。その言葉のやりとりだけで完結してしまう夜がこれまで何度あっただろう。数えることに、もう意味はなかった。


同じ言葉を返すたびに、紬は自分の声のトーンをいつも律に合わせて調整してきた。今夜もまたその調整を無意識に行っている自分に気づき、紬は小さく自嘲した。合わせることに慣れすぎて、自分の本当の声さえ時々分からなくなる。


自分の声さえ見失ってしまうほどの馴染みを果たして友情と呼んでいいのだろうか、と紬は自問した。しかし、まだ答えを持っていなかった。


暗闇の中で目を開けたまま、紬はしばらく天井の見えない闇を見つめていた。すぐ隣で眠っている律の存在を、これほど近くに感じながらも、これほど遠くに感じる夜は、これまでになかった。


規則正しい呼吸の音だけが、暗闇の中で確かな存在の証しだった。その音を数えるように聞きながら、紬は、自分の孤独が律の不在からではなく、律の存在そのものから生まれていることを、改めて思い知らされていた。


「こんなに近くにいるのに、私はこの人の何でもない」その言葉が暗闇の中で何度も静かに繰り返され、繰り返すたびにその輪郭は少しずつはっきりとした形を持ち始めた。


それでも、この夜が終わればまた朝が来ていつも通りの日常が戻ってくると分かっているからこそ、紬はこの一晩の揺れを誰にも気づかれないよう静かに胸の奥へしまい込もうとしていた。


一方、その頃律もまだ完全に眠りに落ちておらず、目を閉じたまま隣で横たわる紬の気配を密かに感じ取っていた。呼吸のリズムがいつもより浅いことに律はぼんやりと気づいていた。


眠れないのだろうかと律は薄目を開けかけたが、結局そのまま目を閉じた。声をかければ何かが変わってしまう気がした。それが良い変化なのか悪い変化なのか、律自身にも判断がつかなかった。


紬はゆっくりと目を閉じたが、眠りはなかなか訪れなかった。すぐ隣にある温もりと決して埋まらない距離の両方を、紬は同時に抱えたまま深まっていく夜の中に身を委ねていた。


律の呼吸がやがてまた規則正しいリズムを取り戻していき、眠りに落ちたのだと紬はその変化だけで分かった。何年もこの音を聞いてきたからこそ分かる、確かな判別だった。


規則正しさの中に潜む安心感を、紬は密かに愛していた。呼吸のリズム一つで相手の状態がわかるほどの馴染みは、簡単には手に入らないものだった。それだけに、その馴染みを失いたくないという気持ちも同じくらい強く胸に残っていた。


眠っている律の横顔を、紬は暗闇の中でもう一度だけ見つめた。この顔を、明日からもきっと同じ距離で見つめ続けることになる、そう思うと紬の胸には、安堵とも諦めともつかない感情が静かに広がっていった。


暗闇に慣れた目には、その輪郭がぼんやりと浮かび上がって見えた。まつげの影、鼻筋の線、わずかに開いた唇。どれも見慣れているはずなのに、こうして間近で見つめると、いつもとは違う緊張が胸に走った。


指先を伸ばせば触れられる距離に律の頬があるのに、その距離を実際に埋めることはこれまで一度もできなかった。できない理由を紬は改めて自分自身に問いかけてみた。


答えは簡単だった。踏み込んだ先に何が待っているのか、紬には確信が持てなかったからだ。今のこの関係を失うくらいなら、この曖昧な距離のままでいたい。


そう思う自分と、もう耐えられないと感じる自分が紬の中でせめぎ合っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。