第13話|鯛、酔う海
難波津から穴門へ向かうこの内つ海は、東西に長く伸びています。
東と西に潮の出入り口があり、およそ六時間ごとに潮の向きが変わるのです。
息長帯姫たちは潮の流れに身を任せ、折々に港へ寄っては潮待ちをしながら進みました。
海は急がず、焦らず、ただ規則正しく息をしているようでした。
那波浦に着いたときのことです。
「大后」
桟橋に立っていたのは、小千三並でした。
足仲彦天皇に従っていた武人です。
帯姫は胸の奥が、ひときわ静かに張りつめるのを感じました。
小千三並は膝をつき、告げます。
吉備の浦には熊襲が入り込み、
小さき国のごとく勢を張っていたこと。
これを、将軍 鴨別が討ち破ったこと。
さらに、天皇自らも戦陣に立たれ、
賊の頭目と見られる者を討ち取られたこと。
その威に服し、熊襲はついに観念し、
みな従う意を示したこと。
「大王はご健勝にて、すでに先へ進まれております」
その言葉が、春の風のように届きました。
豊姫がほっと息をつきます。
「姉上の仰せの通りでしたね」
葉山媛も、長媛も、安堵の表情を浮かべました。
帯姫は静かに目を閉じます。
予知は、現実となりました。
けれど、未来は変えられたのです。
「……ご無事で、何よりです」
その声は静かでしたが、胸の奥の張りつめた糸が、ようやく緩みました。
「さすが大王でございます」
襲津彦が誇らしげに言います。
豊姫は笑って、
「姉上と大王、最強ですね」
と無邪気に言いました。
皇后はわずかに頬を染めます。
恐れていた未来は、避けられました。
春の海は、今日も穏やかです。
濘田門に至った頃には、日も高く、海は穏やかでした。
船上に卓が設けられ、簡素ながらも温かな食事が並びます。
「海の上でいただくご飯は、どうしてこんなに美味しいのでしょう」
長媛が目を輝かせます。
「潮の味がするからよ」
葉山媛が静かに言うと、豊姫がくすりと笑いました。
帯姫も珍しく肩の力を抜き、盃を手にします。
そのときでした。
「ご覧ください!」
襲津彦の声に、皆が身を乗り出します。
船べりの下、きらきらと赤い影が群れています。
「鯛です!」
しかも一匹や二匹ではありません。
まるで呼ばれたかのように、船の周りへ集まってきています。
豊姫が身を乗り出します。
「姉上、歓迎されていますよ!」
帯姫はふと、盃を見ました。
そして、いたずら心が芽生えます。
「では、少し振る舞いましょうか」
そう言って、海へと酒を注ぎました。
白い筋となって、酒が水面に落ちます。
次の瞬間。
鯛たちが、ふわりと浮かび上がりました。
「あっ……!」
長媛が声を上げます。
鯛は腹を見せ、ゆらりゆらりと揺れています。
「酔ったのですか?」
豊姫が目を丸くします。
漁師たちが慌てて網を投げました。
「これは、聖王がお与えくださった魚だ!」
歓声が上がります。
甲板の上は、たちまち笑い声で満ちました。
「姉上、海まで味方にしてしまうのですね」
豊姫がからかうように言います。
「そんなつもりはありません」
帯姫は笑いましたが、どこかくすぐったい気持ちです。
やがて、獲れた鯛は丁寧に調えられ、帯姫へと献上されました。
飯を入れる器に盛られ、それを若い海女が頭上に載せて進み出ます。
男ではなく、女。
その姿に、帯姫は目を細めました。
「美しいわ」
葉山媛も頷きます。
帯姫は上陸し、この土地を見渡しました。
山はなだらかで、海は豊か。
「ここは、五穀もよく実るでしょう」
そう告げると、人々は顔を見合わせて喜びます。
帯姫は海へ幣を流しました。
白い布は波に揺れ、やがて沖へ。
後にその幣が打ち上げられた浜は「浮幣」と呼ばれ、祠が建てられることになりますが、今はただ、春の海が静かに光っているだけでした。
献上された鯛を囲み、再び船上は賑やかになります。
「おいしい!」
豊姫が声を上げ、葉山媛もほころびます。
帯姫はその様子を見ながら、思いました。
この者たちの笑顔が、ずっと続けばよい。
戦も政も、遠い波の向こうにあるかのようです。
濘田門の海は、春の日差しを受けて、穏やかに輝いていました。
次回、第14話「豊浦の如意珠、凪の約束」。
海に問う誓約で束の間の猶予を得た帯姫は、天皇との再会の中で限られた平穏を受け入れます。




