第二部 第7章:牙を研ぐ野心、あるいは「緋色」の登記(後半)
手渡された金属製のプレート――『緋色の傭兵団之証』を、俺はまじまじと見つめた。 磨き上げられた銀色の表面には、ギルドの紋章と共に、俺たちの新しい名が刻まれている。指先に伝わる金属の感触は、驚くほど冷たい。
俺はそれを隣のオットーさんに手渡した。彼はその重さを確かめるように一度頷き、ハンスへ。ハンスは音もなく受け取り、にやりと不吉な笑みを浮かべてクリスへ。「やったね」と少女のような無邪気さで呟いたクリスの瞳は、相変わらず氷のように冷めたままだ。プレートはヤミルの無骨な掌を経て、最後に団長であるガーブの手元へと届いた。
ガーブは黙ってその小さな証を見つめていた。その横顔には、かつての「憂国の傭兵団」を失った時の悲壮感はなく、かといって勝利の昂揚感もない。ただ、自分たちの手が、もう二度と「真っ当な人間」のそれには戻れないことを悟ったような、奇妙な諦念が漂っていた 。
「シン。お前が持ってろ」 ガーブはプレートを俺に向けて放り投げた。
「……いいのか? 団長」
「ああ。そいつは『数字』の重さだ。俺より、お前の方が似合ってる」 彼女はそう言い捨てると、軽やかな、しかし獲物を探す獣のような足取りでギルドを出て行った。 「いこうぜ」「行きましょう」 仲間たちがそれに続く。俺もまた、確かな重みと冷たさを感じるカードを懐に仕舞い、歩き出した。
「おい、小僧」 背後から、だるま親父の低い声が飛んできた。振り返ると、親父がカウンター越しに、値踏みするような眼差しで俺を見ていた。
「……死ぬなよ」 その言葉は、慈悲ではなく、これから始まる「消耗」への忠告に聞こえた。
「もちろんです。俺の計算に『全滅』の二文字はありませんから」
俺は不敵に笑って答えた。だが、扉を抜けた瞬間、俺は自分の右手が微かに震えていることに気づいた。 完璧な計算なんて、この世界には存在しない。 あるのは、「間違っていたとき、誰が死ぬか」という冷徹な二択だけだ 。今回は、まだ俺たちが死ぬ番ではなかった。それだけのことだ。
外では、冬の薄日が仲間たちを照らしていた。 「シン、これからどこに向かう?」 ガーブが、新しく手に入れた自由という名の呪いを隠そうともせず尋ねる。 俺は、地平線の先――群雄が割拠し、合理の怪物が跋扈する「中央平原」を指差した。
「決まっている。俺たちの価値を、もっと高く売りつけられる場所へ」俺たちは歩き出す。一歩進むごとに、あの丘で死んだ仲間たちの記憶が、少しずつ「過去のデータ」へと変質していく。勝利という名の無機質な冷徹さで、俺たちは自分の心を塗りつぶしながら進んでいた 。
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同じ頃。ガウス自治領、北外海に面した港街、ゲルニーハーヘン。
潮風と金貨の匂いが混じり合うこの街の歓楽街に、一際豪奢な構えの酒場がある。自治領を支配する五人の大商人の一人が経営し、国家間の密約や、表に出せない巨額の商談に使われる、いわく付きの店だ。その二階、最高級の装飾が施された一室で、五人の男たちがテーブルを囲んでいた。
彼らは商人という仮面を被ってはいるが、その隙間から漏れ出す気配は、戦場を支配する「暴力の権化」そのものだ。彼らこそ、ゲルマニアの裏の秩序を司る、五色の傭兵群団の頂点に立つ者たち。
部屋の入り口では、一人の男が滝のような汗を拭いながら跪いていた。 「で?」 テーブルについた一人、茶色の服を纏った大男が、低く唸るような声を発した。
「は、はい……『茶』の一三五C分団は……壊滅しました。討伐依頼を受けた、名もなき六人組に……皆殺しにされました」 「ほう」 男は杯をテーブルに置き、跪く男に向き直った。その鋭い眼光は、獲物の喉笛を狙う羆のそれだ。男の肩が、目に見えてびくりと震える。
「……どうした、続けろ。その『六人組』の正体は何だ?」「はい。フランク王国から流れてきた傭兵のようで……その討伐の実績をもって、ギルドで正式に団の登録を行ったとのことです。団の名前は『緋色の傭兵団』。所属群団は――無所属です」
「ふむ……。おい、茶の一三五C分団なんて、どいつだ?」 羆のような男が、隣に座る眼鏡をかけた知的そうな男に尋ねた。 「そんな番号の分団、台帳には存在しませんね。我が群団(茶の剣)の名を騙り、裏で野盗働きをしていた端株でしょう」
「本当か?」 「はい。不浄な数字です。今、完全に抹消しました」 眼鏡の男は冷淡に言い放つ。彼らにとって、末端の兵の命など、帳簿の上の塵にも等しい。男は立ち上がり、跪く配下に近づくと、腰を落としてその顔を覗き込んだ。 「勝手に『茶の一三五C』の名を授けた、身の程知らずは誰だ?」
「それは……」 「言えないのか? それとも、知らないのか?」 「いえ……確か、茶の一二B分団のマルクスとかいう男が……」 「おかしいですね」 席に座ったままの男から、透き通るような、しかし毒を含んだ声が上がった。
「私の方には、そのような分団の申請さえ届いていませんよ。勝手に看板を貸し出して、マージンでも取っていたのでしょう」 男はゆっくりと立ち上がり、冷酷な笑みを浮かべた。 「そうか。ならば『茶の一二B分団』は、今日をもって解散(全滅)だな」
「そ。じゃあ、お掃除しなきゃね」 席にいた一人の女が、退屈そうに立ち上がった。 「頼めるか?」 「もちろん。死体は残さないわ。それが私の流儀でしょ?」 コツコツと、女の足音が跪く男に近づく。
(殺される!) 男は首をすくめて絶望したが、女は彼をゴミでも見るような目で一瞥し、そのまま入り口の扉を開けて外へと消えて行った。男が安堵の吐息を漏らし、前を向いた瞬間。 目の前に巨大な靴底が迫った。
ぐしゃっ。 生々しい破砕音が部屋に響き、高級な絨毯に赤黒いシミが広がった。 「あーあ、部屋を汚しちまった。店のオーナーが怒るぞ」 羆のような男は、靴底にこびりついたモノを忌々しそうに床で拭った 。
「なら、お前のところの奴を寄こせ。掃除と処理は任せる」 男は再び席に戻り、酒瓶から杯に酒を注ぐと、一気に飲み干した。 タン、と乾いた音を立てて杯を置く。 中空を見据えた男の瞳には、かつての戦友を懐かしむような、あるいは新しい玩具を見つけた子供のような、狂気を孕んだ色が浮かんでいた 。
(無所属の傭兵団、か。二十年ぶりかな……。 『緋色の傭兵団』。覚えておくぜ)
その咆哮はまだ小さい。だが、ゲルマニアの澱んだ空気は、確実に震え始めていた。 シンの「数式」にはまだ現れていない、理性を超えた暴力の波が、すぐそこまで迫っている 。




