95話 リア、出立する
ココノハが塔に戻って来れたのは日付が変わってからだった。
中にはまだ明かりが点いており誰かしらが起きているだろうことが見て取れる。
飛行魔術の多用とシン国内での戦闘のせいでココノハの魔力は枯渇しかかっていた。しかし震える足を気力で抑えつけ、重たくなる瞼を開いて塔の扉を開ける。
扉を抜けてリビングへと向かうと、リアとシィナが起きていた。ココノハの姿を見つけると安堵した表情を浮かべる。どうやらかなり心配をかけてしまったらしい。
「ただいま……です」
「ココノハちゃんお帰りなさいませ」
「ココノハ……おかえり。あなた魔力切れを起こしかけてるわよ。大丈夫?」
二人は倒れそうなココノハを支えてひとまずソファーに寝かせる。一眠りすれば魔力は回復するから心配はしていないが、ソファーでなんて眠ったら疲れは取れない。だから彼女が眠ったら部屋に運んで行こうとしていたのだ。
だがココノハは二人を───正確にはリアを見て、手を伸ばした。
「ココノハ?」
「ココノハちゃん?」
重なるリアとシィナの声。しかしココノハにその声は聞こえていない。疲労と魔力切れで眠りに落ちる寸前にリアを見つめてゆっくりと口を開く。
「東へ……シン国で、ホシミさんが……リアさんを、待ってます……。炎の、巨人と、一人で、戦って……」
そこまで言ってから力を失って瞼が落ちる。直ぐに規則正しい寝息が聞こえてきたので耐え切れずに寝落ちしてしまったようだ。
だが残されたリアとシィナは穏やかでは居られなかった。
「ねえリア。これって……」
「ええ、ココノハちゃんはこっそりとホシミ様の所へ向かったのですわね。そこで何かが起こって炎の巨人とやらと戦うことになった」
「でもココノハは今ここにいる。それはつまり、あの人が一人で戦っているってこと。どうするの? ……なんて、聞かなくても分かるけどね」
シィナは肩を竦めてリアを見る。最愛の人に頼られたリアの表情はとてもうきうきとしていたのだ。状況はあまり良くないだろうから少しだけ不謹慎かもしれない。
勿論、ホシミがリアのことを気遣っているのは理解している。だがリアとしてはやはり頼られたいのだ。
どんなことでも良いからあの人の役に立ちたい、そしていっぱい愛して欲しい。
リアの思考は単純であるが故に想いは人一倍強かった。
その気持ちを知っているシィナはリアに何も言わない。ただ、彼女が無事に帰って来られるように最善の行動をするだけだ。
「行くんならまずは眠ってきなさい。戦闘になるんだから万全の状態じゃないと要らない心配を掛けさせちゃうわよ。飛んで行くだけでも体力使うんだからさ」
だからシィナはリアに睡眠をとることを提案する。
今日は珍しく昼寝をしていないリアだ。このまま出て行けば途中に寝不足で頭は重く痛くなり、反応も鈍くなってしまうだろう。戦闘になると分かっていてそんな状態で出発させることほど馬鹿なことはない。
「そうですわね。朝に出発すれば夜までには到着出来ると思いますし、少しだけお休みして来ますわ」
シィナの意図を理解したリアは一度頷き、微笑みを浮かべてから自室へと向かう。その前に、シィナに振り返る。
「お留守番、よろしくお願いいたしますわ。愛してますわよシィナ」
ウィンクしてから今度こそ自室へ向かっていった。
シィナは頬を掻きながら苦笑する。
「知ってるわよ。あたしだってリアのこと好きなんだからさ。───さってと、ココノハを部屋まで運んで着替えさせて……身体も拭いておいてあげましょうか。少し汚れてるし汗かいてるみたいだし」
シィナはやるべきことを口に出しながらココノハを軽々と抱え上げた。見た目以上の軽さに驚くが、リアと比べて胸部の重みがないからだろうと結論が出る。
「あんたも大変ねえ。リアとあまり背は変わらないのに胸だけ大きな差があるなんて」
気にしているので起きている時には絶対に言えないことを呟きながらココノハを部屋まで運ぶシィナだった。
翌朝。
生物のいない森の中では鳥のさえずりなど望むべくもないが、早寝早起きな森精種たちが目を覚まし、風を浴びたり談笑している姿が見える。
リアはいつもの薄青のドレス姿とは異なり、ホシミの格好を模した薄青のローブを羽織っていた。
中には白いブラウスと膝丈のスカート。腰部には上からコルセットを巻いているので胸部の存在感が増している気がする。
目立つ格好は避けたつもりではあったが、彼女自体が人中にあっても目立つ程の美貌を持っている為にあまり意味は無い。
元々あまり他人の目など気にしない方……というよりはどうでも良いと考えているのだ。リアはホシミにさえ見て貰えれば良い。
そんなことよりもホシミと似た格好をしているということの方がリアにとっては重要であった。
「こんな時もあろうかと仕立てて貰って良かったですわ」
そう言ってリアは一人、塔の扉の前で立っていた。
何故、彼女がまだ出立していないのかというと、待っている人がいるからである。
一緒に来るのは駄目だと言われたにも関わらず、そんなことは知るかとばかりに彼の元へと会いに行った人物。
「すみません遅くなりました!!」
勢い良く扉を開けて出て来るのは、ホシミの危機を報せてくれたココノハだった。
服装は夜に見た時の旅装姿。急いでシャワーだけ浴びて来たのだろう、髪がまだ湿り気を帯びている。どうやら一眠りしたことで魔力はすっかり回復したようで、表情は昨夜とは違い活力に満ちていた。
そう、リアはココノハを待っていた。
起きて直ぐにリアの部屋を訪ねてきたココノハは、自分も一緒に行くと言ってきたので了承したのだ。
「まだ予定よりも時間はありますわ。髪くらい乾かしてからいらっしゃれば良かったですのに」
「これくらいなら風で直ぐに乾きますよ」
リアはくすくすと笑い、ココノハは湿った髪の毛先を弄る。
「さっきユキユキと会って、肩に噛みつかれちゃいました。勝手に出て行ったのを怒ってましたね」
たはは、と思い出し笑いをしながら塔に振り返る。
「でも、無事で良かったって───。気を付けて行ってこいって言ってくれました。あの子、母親になってから、その、なんて言いますか。母性的というか、抱擁力溢れる女性になりましたね」
そう話すココノハの表情は穏やかだ。内心はユキユキへと感謝をしているのだろう。彼女の変化には若干羨望が混じっているが、いつか自分も子どもを産めば変わるのだろうか、とそんなことを思うココノハだった。
「母は強し、と昔から言いますもの。それよりシィナは───まぁ、寝ていますわよね」
シィナの話題を出しておきながら、直ぐに結論が出て嘆息する。彼女の寝起きの悪さは周知の事実だ。今更治るものでも無いし、むしろ愛嬌ですらある。
そんなリアの言葉に苦笑しか返せないココノハ。
ココノハが起きた時に隣で眠っていたのはシィナである。どうやら服を着替えさせてくれたり、身体を拭いてくれたりしたようだ。
それらが無事に終わった後で眠くなったのか自分の部屋に戻ることなくそのまま眠ってしまったらしい。
「シィナさんに早起きを求めるのは酷ですよ。それに昨日は遅くまで面倒かけちゃったみたいですし」
ココノハはバツが悪そうに頬を掻く。しかし直ぐに気を引き締め直した。
いつまでも和やかに話をしている時間は無いのだ。
「……そろそろ行きますか?」
「ええ、ではシン国へと参りましょうか」
リアは翼を広げ……ようとしてローブが邪魔なことに気づいて一度脱ぎ、大事そうに手に持ってから再び翼を広げる。
ココノハも魔術で浮き上がり、二人は空へと飛び立っていった。
ーーーーーー
時間は少し戻って真夜中、ココノハが塔にたどり着いた頃と同刻。
クルルは人気のない王宮内を警戒しながら歩いていた。
王宮内の人間が避難していたのを確認した彼女は、誰もいなくなり、かつ魔力が最も満ちる夜に探索しようと決めた。
その為、先ほどまで仮眠を取っていたのでココノハの追尾に使用した魔力も回復済みである。
人の気配は無いとはいえ、ここは敵地だ。万が一に備えて隠形は入念にやっていた。
クルルは王宮内に僅かに残るホシミの匂いを辿っていく。先ほど誰かの執務室らしい部屋まで行ったが、重要な書類は全て持ち出されてしまっていた。
得るものが無かったことに残念がりながら今度は謁見の間に向かう。ここはつい数時間前まで人が集まっていたのだろう、色々な匂いが入り混じっている。
中には強い香水と体臭が混じった悪臭も残っており、クルルは顔を顰めながらホシミの匂いを探した。
広間の方から玉座に近づくにつれてホシミの匂いが近くなるのを感じ、玉座の周囲を見渡すと横から更に奥に繋がる通路を見つけた。
そこを抜けると今度は新しい廊下が現れる。クルルはここを王族の私的空間だと認識した。
ホシミの匂いは上階から漂ってくるようで、上に行くにつれて匂いが強くなる。その匂いを辿り、やがて一つの部屋の前までやって来たのだった。
この部屋の奥からは特にホシミの匂いが強く残っている。獣人にしか嗅ぎ分けることの出来ない僅かな匂いではあるが、間違いなくこの向こうが彼の気掛かりの在り処なのだと確信した。
クルルは扉に耳を当てて中の音を探る。しかし何も聞こえてこない。
街では炎の巨人が暴れているのだ、おそらく誰も残っていないのだろう。
だからクルルは無人だと思い、そっと扉を開けて中に入り───目を見開いて驚愕するのだった。
「……だぁれ? パトラを、起こしにきたの?」
音は絶対に立たなかった。その自信がある。
しかしベッドに座る少女は窓の方向を向いていた顔をクルルに向け、尋ねてきたのだ。
隠形は継続しているので姿は見えていない筈だが、その瞳は間違いなくクルルの方向を向いている。
今まで一度も見破られたことのない隠形を呆気なく見破られたことにクルルは動揺した。
しかしクルルは達人である。直ぐに平静を取り戻し、注意深く少女を観察する。
彼女の仕草、目線の動き、全てを観察して、クルルは一つの仮定を思い付く。
そっと懐から短刀を抜き取り、壁に向かって投げつけた。短刀は空を切って壁に突き刺さり鈍い音を立てる。
「えっ!?」
少女は驚き声を上げ、短刀が突き刺さった壁を凝視していた。その反応速度と認識能力は夜闇の中にも関わらず非常に速く鋭かった。
そこでクルルはこの少女は目が見えていないのだと理解する。当然、この少女が主の気掛かりであったことも。
「私はクルクル、ホシミという男性の従者です…にゃ」
だからクルルは自ら少女に話し掛ける。
最初は急に声が聞こえてきたことに驚いた少女だったが、ホシミの名を聞いて表情を明るくした。
「そうなんだ、よかった〜。いつまでも声をかけてくれないからまたホシミのいじわるかと思っちゃった! パトラはね、パトラっていうの。よろしくね、おねーさん!」
パトラと名乗る少女は屈託のない笑みをクルルに向けた。
クルルは適当に相槌を打ちながら何故この少女だけが避難もせずにここに居たのだろうかと考える。
「ねーねー、おねーさん。お外、いつもより静かだけど何かあったの?」
しかしパトラに話し掛けられたことで考えは中断してしまった。首を傾げながら尋ねてくる様子を見て、彼女は外で起きていることを一切知らないのだと理解した。してしまった。
「大丈夫、全部主が……ホシミが何とかしてくれますにゃ。私も一緒に居ますから……」
そう言ってクルルはパトラを抱きしめる。
彼女がどんな素性なのかなどどうでも良かった。ただ、この娘を守ると心に誓う。
いきなり抱きしめられたパトラは困惑しながらクルルの為すがままにされていた。
「もー、おねーさんったら変なの。ねっ、お話しよう? おねーさんのこと、ホシミのこと、知りたいの」
「ええ、良いですよ。じゃあ何から話しましょうか…にゃ」
どうか彼女には外で起きていることなど知らずにいて欲しい。そう思ったクルルはパトラの要望通りに話をしてあげることにした。
巨人が暴れ、ホシミが凌いでいるこのシンという国で、この空間だけが外の騒動から隔絶された異界のようだった。