8 家出少女
僕が会話を大幅に脱線させ、鮫映画について語り合ってしまったせいで、だいぶ時間が押している。立花先生はパパッと関係代名詞の要点を説明し、テンポよく授業を進めた。
ラスト10分。あとは演習問題に取り組んで終わりだ。僕が三問目を解いていたところで、部屋のドアがノックされた。
「悟、お友達が来てるわよ~」
母さんだった。
そういえばさっきチャイムが鳴った気がしたが、宅急便か何かだろうと完全にスルーしていた。僕は椅子から立ち上がり、ドアを開ける。
「変なこと言わないでくれよ、母さん。自慢じゃないが、僕には友達がいない。したがって、家に来るわけがない」
「そんなことが自慢になるわけないでしょ」
さすが、母は強し。僕は秒で撃沈された。
「まあとにかくさ、悟、一度会って話をしてあげなさいな。あの子、何だか困ってるようだったよ」
「えっ……? ああ、分かったよ。百聞は一見に如かずだ」
微妙に意味が違う気がしたが、まあいい。立花先生に断って離籍し、僕は自室から玄関まで向かった。
そして、玄関で靴も脱がずに、むすっとした表情で立ち尽くしている彼女を見て、呆然とする羽目になった。
艶のある黒髪が、制服の肩の辺りまで伸びている。目がぱっちりしていて、「京美人」的な和を感じさせる顔立ち。身長、体重はおそらく女子の平均値くらい。
黙っていれば超清楚ではんなりした和風美人、口を開けば腹黒でがっかりな残念美人。
湯川栞。先刻、立花先生にこう紹介した、同じクラスの問題児だ。
『どれくらいの年齢の女性が好きかなんて、よく分かりませんよ。ただ一つ言えるのは、その子の体つきが絶妙にむっちりしてて、エロく感じるということだけです――学年でもトップクラスに性格が悪いのが、玉に瑕すぎるんですけど』
うん、確かにエロい。制服が全体的にぱっつんぱっつんで、元々のスタイルが決して悪くないことと相まって色気が溢れ出ている。男はクラス一の美人ではなく三番目くらいの美女に惹かれる傾向があると聞くが、まさにそういう感じ。性格を抜きで考えれば、三番目以上のポジには余裕で着けるだろう。
いや、色気について考察している場合ではない。なぜ彼女が突然家に来たのか、聞き出さなければ。
「……えっと」
口火を切ってから気づいた。恥ずかしながらこの僕は、湯川栞とほとんど話したことがない。ぼっちなので休み時間は本を読むか、寝たふりをしてやり過ごしている。湯川栞の顔を直視した経験すらほぼなく、この子が湯川栞かを顔で判別できるかどうかすら、若干自信がなくなってきた。緊張のあまり、つい敬語になってしまう。
「お、お名前とご用件は何でしょうか」
「留守番電話のメッセージか、あんたは!」
的確なツッコミだった。また、記憶にあったよりもアニメ声だった。喋り方も何となくツンデレ感があるな。
まあ、ツンデレくらいで済めば可愛いものなのだけれど、実際は想像を絶する性格の悪さだからなあ。警戒するに越したことはない。
「質問に対する答えになってないな。僕は名前と用件を聞いているんだけど」
「名前くらい、名乗らなくても分かるでしょう? あたしよ、湯川栞。あんたと同じクラスの。で、用件は……」
コホン、と咳払いをして、湯川栞は上目遣いに僕を見た。
「しばらく家に帰れなくなっちゃったの。だから、泊めて?」
何てことだ。同級生が、家出少女に大変身してしまった。僕は魔法少女ものは嫌いじゃないが、家出少女は守備範囲外だ。
「湯川さん。失礼な言い方になってしまうけれど、僕は君と直接話したことはあまりないにもかかわらず、君の性格に関する悪評を小耳に挟むことは多々ある。そんな湯川さんのことだ。どうせ、こんなのは巧妙なドッキリなんだろう?」
「ドッキリ?」
「そう、ドッキリ。隠しカメラか何かで僕のリアクションを撮影して、何か挙動不審なことをしたらネットに晒すつもりだな。まったく最近の若者は、明らかに自分が悪いケースでも、とりあえず証拠を撮ってネットに上げれば勝ちだと思ってる。そういうの、本当は負けって言うんだぜ。僕も最近の若者だけど」
「違うわよ!!」
おっと、キレ気味に否定されてしまった。論破失敗。
「あたしは本当に居場所を失って、今日寝るところにも困ってるの。ドッキリなんかじゃないわ。ていうか井上、台詞が長い割にすらすらと滑舌良く喋るのがなんか逆にキモい」
「ごめん。次からは、滑舌を悪くしてみるよ」
「いやそれよりも長ったらしい台詞をやめなさいよ!」
また怒られた。どうやら湯川栞は、立花先生に負けず劣らずのツッコミ性能を有しているらしい。両者の違いは、ツッコミに愛があるかどうかだ。
「分かったよ、分かった。分かったから、まずは靴を脱いでリビングまで上がって、それから詳しい話を聞かせてほしい。なぜ今日、僕の家まで来ることになったのか、その理由を」
「フン。良いわよ、別に」
鼻を鳴らし、僕の言葉に従う湯川栞。
しかし、毎度毎度「湯川栞」とフルネームで表記するのも長ったらしいな。名字だけにしようか。いや、「湯川」呼びだとなんか男性みたいだ。よし、「栞」表記でいこう。漢字一文字の方が楽だし。決して、女子を下の名前で馴れ馴れしく呼ぼうとしているわけではない。
僕と栞、母親、そしてちょうど仕事から帰ってきた父親も交えて、リビングのテーブルを囲んで事情聴取が行われた。
人の振り見て我が振り直せ。栞の身の上話も、僕ほどではないにせよ長ったらしく、やや要領を得ないところがあった。そんな長い話を要約すると、次のようになる。
栞は僕と同じクラスの女子で、暇さえあれば人の悪口を言うほど性格が悪い。ただ、こういうタイプにありがちなことに集団内での立ち回りが非常に上手く、悪口を言いまくっているけれど自分自身が言われることはまずないという、とても美味しいポジションに収まっていた。クラスで最も発言力が強い、いわゆる「一軍」グループの人から好印象を持たれるよう巧妙に策を巡らせることで、世論操作を行っていた。
けれど、それも数日前までだった。