10 湯川栞は邪道を進む
栞は段取りが良かった。スーツケースに衣類など身の回りの品々を詰め、既に持参済み。井上家で提供するのは、寝床とご飯だけで良いらしかった。
その夜。正確には午前二時に、僕はふと目が覚めた。妙に意識が覚醒している。水でも飲もうと思い、キッチンへ向かった。
家の構造上、キッチンに行くにはリビングを横切らねばならない。僕はそこで、ソファベッドに寝転んでスマホをいじっている栞と遭遇した。部屋の照明は落としたまま、小さな明るい画面とにらめっこしている。
栞は水色のパジャマを着ていた。さすがに制服のときほどぱっつんぱっつんではなく、ゆったりとしている。しかしそれでも、出るところが出ている印象は否めない。
「湯川さんも起きてたんだ」
「悪い? ストレスで胃が痛くて、寝たくても寝れないのよ」
スマホに視線を向けたまま、彼女は仏頂面で言った。まあ、あんなことがあった直後なのだ。体に不調が出てもおかしくはない。
「……昨日、寝る前に考えていたんだけどさ」
ストレスを少しでも和らげるべく、僕は提案した。水を飲むのは一旦後回しだ。
「湯川さん、今回君が取れる選択肢は主に二つだと思う。一つは、女子バスケ部の両名へ謝罪して許しを請い、彼女たちからの追及が弱まることによって居場所を取り戻す選択肢。もう一つは、何日か学校を休んで極力うちから出ないようにして、精神的にかなり落ち込んでいる感を出すことで女子バスケ部たちの同情を誘い、『やりすぎた、ごめん』『また学校に来てほしい』などの言葉を引き出す選択肢だ」
「何言ってるの。選択肢くらい、他にもあるでしょう?」
スマホから視線を外し、栞は手元にあった読書灯を点けた。
その側に小説や漫画本が積み重ねられているところを見るに、寝れなかったときに読む用のものも準備万端のようだった。僕の部屋から勝手に持ち出したと推測される本たちばかりでなかったら、素直に「用意周到だな」と感心できたのだけれど。
「その二つを両方とも使うというのはどう? つまり、まず謝罪を実行して、効果が薄ければ家に引き籠らせてもらうの。二段構えってわけ」
「すごいな。さすがは湯川さん。令和の竹中半兵衛と呼ばれるだけのことはある」
「そのあだ名は私も初めて聞いたんだけど⁉」
「ごめん、嘘。今のは僕が即興で考えた」
「即興」というとどこか格式高い感じがするが、似たような意味でも、「アドリブ」というと急に俗っぽい印象になるのはなぜなんだろう。ちなみにアドリブは元々音楽用語で、楽譜を離れて自由に演奏することを意味するらしい。そう考えると、アドリブも格式高い気がしてくるから不思議である。
「もう少しましなジョークを言って頂戴」
再びスマホへ視線を戻すと、栞はメッセージアプリを開き、何やらぽちぽちと入力し始めた。
「何してるんだ? こんな時間にメッセージなんか送っても、既読がつくのは数時間後だろうに」
「だとしても、送らないよりましよ。善は急げ。さっき、井上が言った作戦を実行しなくちゃ」
おお。ということは僕の提案をすんなり聞き入れて、正確には一と二の選択肢を合体させたやつを早速やるつもりなのか。
けれども、雲行きが怪しくなってきた。なぜって、栞の手はたちまち震え出し、上手く文字を打てなくなっているからだ。
「どうした? 大丈夫か、湯川さん」
ソファに寝転んでいる彼女の顔を、覗き込む僕。心なしか顔色が悪く見える。やはり精神的なものなのだろう。
「すまない。僕としたことが、女子バスケ部の人たちと話すことで湯川さんのストレスが増大したり、精神的ダメージを受けたりする可能性を考慮できていなかった。本当にごめん。くれぐれも無理しないでほしい」
よし、決まった。自分の配慮の足りなさを詫びつつ、相手の体調を思いやる紳士っぷり。僕が女子だったら、この一言で好印象を与えられること間違いなしだ。
「――フン、違うわ!」
が、学年一の腹黒女は考えることが凡人とは違う。僕の台詞を一蹴し、鼻で笑ってみせた。
「私はただ、あいつらに頭を下げた結果傷つくことになる、自分のプライドを労わっていただけよ。あんなクズ相手に低姿勢で臨むなんて、本来ならまっぴらごめんだわ!」
「僕の誠意あるコメントが台無しだ⁉」
ひょっとしたら、ストレスで胃が痛くなったのもプライドの高さが原因なのかもしれない。何て奴だ。
「……君、本当にいい性格してるよね。惚れ惚れするよ。変な意味じゃなくて」
「そりゃどうも」
栞は上の空で返事をした。まだ自分のプライドと戦っているらしい。おせっかいかもしれないと思いつつも見るに見かねて、僕はコメントを追加した。
「あのさ、湯川さん。世の中、たとえ自分が悪くなくとも、悪いとは思えなくとも、形だけでも謝っておいた方が上手くいく局面は多いよ。まあ、この場合は湯川さんが100%悪いけどさ」
「あんた、あたしに味方するつもりあるんでしょうね⁉」
「すまない、100%は言い過ぎた。87%くらいだったよ」
「ほとんど変わらないじゃない!」
時刻が時刻だ。両親が目を覚まさないよう、普段より控えめなボリュームで、僕たちは他愛のないボケツッコミを交わした。うん、やっぱりこいつ、笑いのセンスだけで言えば立花先生と互角にやり合えるな。あとは性格さえ良ければ、素敵な女性なのに。
そんな他愛のないやり取りの後、栞は渋々ながらもメッセージアプリで謝罪のメッセージを送信した。もちろん、既読はまだ付かない。「翌朝、起きたときにまたチェックしよう」という話になって、この件は一段落した。
「じゃあ、僕はキッチンで水でも飲んでから二度寝するよ」
「待ちなさいよ」
立ち去ろうとしたら、パジャマの袖をぐいぐい引っ張られた。伸びたらどうするんだよ。
「まさかあんた、不眠を訴える女の子を放置して、自分だけ眠るつもり? 信じられない。最低。キモい。童貞」
「おい。他はまだ良いとして、童貞は関係ないだろ。大体、童貞で何が悪いんだよ。高校生の6割は童貞か処女だっていう統計もあるくらいなんだぞ」
「多数派が正義だと思ったら、大間違いよ!」
「……」
ぐうの音も出ないほど正論だった。この場合、少数派が正義、というか勝ち組だ。
「まあそんなわけで、多数派さん。あんたに人並みの甲斐性があるのなら、眠れない可哀想なあたしに付き合って、もう少し話をしていきなさいな」
「分かったよ。分かったけど、自分で自分のことを可哀想だとか言わない方がいいよ」
「余計なお世話よ。……でさ、家庭教師の立花さんだっけ? 井上って、あの人とデキてるわけ?」
「だからデキてはないって。向こうが一方的に猛アタックしてくるだけだ」
「ふーん、そう。好きじゃないの?」
スマホを脇へ置き、元々僕の部屋にあった少年漫画を流し読みしながら、栞は問うた。何というか腹の立つ奴だ。傍若無人とも言う。
「恋愛弱者すぎて、そういうのよく分からないんだ。でも、受験が終わるまでに答えを出そうとは考えてるよ」
そこまで話してから、僕は慌てて付け足した。
「あ、でもこれ、他の人には広めないでくれよ? 色々とまずいことになりそうだからさ」
「安心しなさいな。確かにあたしは学年でもトップクラスに情報通だし、自分から噂を流すこともしばしばある。けど、一宿一飯の恩義を仇で返すような真似はしないわ。あんたと立花先生とのいけない関係は、あたしの胸の内に秘めておいてあげる」
「いけない関係って何だよ⁉ 僕たちは健全なデートしかしていないぞ。年上の女性とデートすることが、罪だとでも言うのかよ」
本当は立花先生がJKのコスプレをしていることを伏せつつ、僕は反論した。
「いいえ、別に? あたし自身、年上の男とばっかりデートしてるもの」
あっけらかんとした口調で言う栞。
「年上ってことは、大学生か。何でまた」
「同学年の男どもと遊んでたら、そうとは知らずに、ある女子の彼氏と遊んじゃったことがあってね。それで一時期気まずくなっちゃって、同年代を狙うのはやめたわ。あたしだって全ての情報を網羅してるわけじゃないし、こういうリスクをゼロにはできないって悟ったのよ」
なるほど。たとえ交際にまで至っていなかったとしても、一軍女子が密かに想いを寄せていた男子を横から奪ってしまったら、反感を買うこと必至である。手堅い戦略だ。
「その点、年上相手だと楽で良いわ。万が一誰かの彼氏を寝取ってしまったとしても、『どう考えても高校生をたぶらかした彼氏側が悪い』って、世論があたしを守ってくれる。エッチするときに制服に着替えてあげたら、男は皆興奮してくれるし。本当にいいご身分だわ、JKって」
「……いや、ていうか湯川さん、遊びすぎでしょ。本当に受験生かよ。手堅いも何もないよ」
やっぱり傍若無人、最悪の第2ヒロイン候補である。
普通、ラブコメのヒロインは清純なキャラが多いと思うんだけどなあ……。めちゃくちゃ男漁ってそうなのが出てきた。しかも、王道の「お泊まりイベント」をこなしているにもかかわらず、全然ドキドキしない。どういう読者層に人気が出るんだろう、これ。僕にも分からない。これがもし連載漫画だったら、絶対、キャラ人気投票での順位低いだろ。