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余炎と孤影 前編

 

 猫西(ねこにし)は大学キャンパスの真ん中で立ち止まった。

 頭上から、目を開けていられないほどの日差しが降り注ぐ。薄目で見やると、道に陽炎が立っている。長い前髪も意味をなさない照り返し。九月が秋とは思えない。


 猫西は黙って歩きだす。

 まるで揚げ物鍋のごとき道だ。



「案外、ごときではないかも」



 目に見えないだけで、聞こえないだけで、ここが本当に鍋の中だったとしたら。歩くたび、踏みつけるごとに揚げられていることになる。靴底の擦れた靴に穴があいて、パチパチ、パチッと新鮮な状態で揚がって、そして食卓に並べられるのだ。お前は罪人なのだから、せめて食べ物になってまっとうしなさいと天から声が降ってきて――。



「……文学作品じゃあるまいし」



 と(つぶや)いた。

 口では冷静を装っても目の瞬きは止まらず、無意識のうちにかかとを浮かせて歩いていた。

 (まぶ)しくて顔を上げた瞬間、後悔した。



「餌をやるな!」



 男の怒声に猫西は肩を震わせる。

 成績発表日に限って何ごとだ、と深呼吸で緊張した肩を引き下げながら前方の様子を(うかが)う。


 ()せたコンクリートのような髪をかきあげる初老男性が、女子学生ふたりに向かって怒鳴ったようだ。

 餌をやるなとの言葉。

 法学部棟付近であること。

 猫西は、そこから女子学生のふたりが猫サークルのメンバーであり、トラブルが起きたのだと理解した。



「私は許可した覚えがない。誰だ、こんなことしたのは! あの部長か!?」



 ふたりの女子学生は目配せし、口を開かない様子である。

 もっとも赤の他人だ。

 猫西は黙って通りすぎた。


 しかし、初老男性の顔を横目に見たとき、重大な問題に気がついた。

 猫サークルは、保護部からの引き継ぎができていないのではないか。考えてみたら当たり前だ。保護部・部長の退学や副部長の失踪で引き継ぐタイミングがなかった。


 かかわる理由がないと放置すれば、保護部の解体に続き、猫サークルの保護活動も危うくなってしまう。


 引き継ぎするなら猫サークルの代表に会わなければならないが、彼らの活動場所を知らない。活動場所を知るには、今すれ違った猫サークルのメンバーふたりに声をかけるのが早い。


 猫西は(きびす)を返し、初老男性とふたりの学生の硬直状態が続いているところに割って入る。



「あの、加瀬谷(かせや)先生ですよね」

「……君は?」

「猫西です。すみません、すぐ片づけさせます」



 初老男性――加瀬谷は険悪な顔で見つめてくる。



「君も部員かね。悪いが今日は譲れない。私は前にも注意したんだ」


「申し訳ございません。以前にもご指摘いただいたことは覚えています。今回は後輩に伝えていなかった僕にも責任があります。今回は見逃してくださいませんか。猫サークルのふたりは本当に知らないだけなのです。お願いします」



 猫西は頭を垂れ、地面を見つめたまま謝罪の言葉を発した。



「え? ちょっと待ちなさい。君たち保護部じゃないの?」

「僕はそうですが、ふたりは違います。今は猫サークルが大学猫の世話をしています」

「そうなのか」



 加瀬谷は猫西を見続け、流し目で女子大生のふたりを見る。彼女らはたじろいだあと、加瀬谷は口角を少し上げた。



「猫西くん。本当に申し訳ないと思うなら、あとで研究室に来たまえ。ちょうど学会発表の準備で忙しくてね、猫の手も借りたいくらいなのだよ。反省しているかどうかはそこで見よう」


「わかりました」



 ふたつ返事で引き受けると、加瀬谷は真顔になった。彼の矢のごとき鋭い目つきには猫西も少し体を固くした。



「じゃあノートパソコンをもって研究室に来てくれ。あ、猫の毛は持ち込まないでくれよ」

「はい」



 加瀬谷は研究室に戻っていった。


 猫西は深呼吸をして鼓動を落ち着かせてから、女子学生のふたりに向き合った。



「猫サークルの代表に会って話がしたいんだけど、どこにいるか知りませんか」



 ふたりは再び目配せして、どちらが答えるか見計らっていた。今は時間も惜しいというのに、と苛立ちを覚える。



「サークルを作ることができても、部室の割り振りは来年度まで待つしかない。通常は大学の外や空いた教室で活動しながら待つのが普通だが、大栗(おおぐり)がサークルメンバーにいるんだったな……。今の活動場所は保護部の部室か?」



 待つのが面倒で、つらつらと推測を話してみた。すると女子学生のふたりがあからさまに不機嫌な顔をし、聞こえない振りでもするように歩いていった。当たりのようだ。


 猫西は顎に手を当てる。

 成績表を受け取らなければならないし、約束も守らないといけない。部室に向かうならそのあとだ。


 一度家に帰り、下宿先からノートパソコンを持ち出した。

 向かうは法学部棟三階。

 いつもなら静かな三階は、今日ばかりは(にぎ)やかだ。先生の研究室に学生が並び、成績発表および面談がなされているからだった。

 

 それでも右の角部屋だけは普段どおり、静けさを保っていた。加瀬谷の研究室である。

 猫西がノックすると、「開いてるからどうぞー」と加瀬谷が言った。


 研究室に入り、ところ狭しに置かれた本に驚いた。研究室の左右に本棚があり、本が並べられている。それだけでも百冊近くはあるだろう。そこだけではおさまらなかった本が床に直置きされ、積み上げられている。


 本に圧倒されていると、



「入ってきてー」



 と加瀬谷は言った。

 注意深く見回すと、本でできたタワーとタワーの間に人ひとり通れるか否かの、もはや隙間と言っても差し支えのない狭い通路を発見した。


 慎重に足を進めていく。積まれた本のタイトルを見ていると、加瀬谷の専門である環境法関連の専門書や新書が多い。



「……わっ!」



 本のタイトルに目を奪われ、突然目の前が本のタワーになっていることに気がつかなかった。ぶつかる寸前で立ち止まるも、手に引っ提げているノートパソコンのケースがタワーに当たってしまう。タワーは揺れ、上に積まれた本二冊が落ちてきた。落としてしまった本を拾い、タワーの上にそっと乗せた。申し訳ないと思いながらも、とりあえず先を急いだ。通路はうねっており、蛇の体内を歩くように歩いた。


 そうして、ようやく加瀬谷の姿を見ることができた。

 デスクとふたり用のソファがふたつ。そのソファの間にテーブルも置かれており、本のタワーができていることを忘れさせるほど広々としている。



「ああ、きたね。そこ座って」



 加瀬谷は、ふたり用のソファを指差した。ソファの目の前にある小さなテーブルにノートパソコンを置くと、さっそく課題の説明がはじまった。


 加瀬谷から与えられた課題は三回生が書いたレポートの誤字と思われる箇所と気になる文章に修正コメントを入れていく作業だった。思いのほか大変そうではなく、猫西は安()した。


 作業する間、加瀬谷はもうひとつのほうのソファに寝転がり、分厚い専門書を読みふけっていた。

 研究室にはキーボードの打音と呼吸の音が流れた。加瀬谷のマグカップに入ったコーヒーの香り、時間がすぎるたびに薄れていった。


 ――作業を終えた猫西は、小さく伸びをして体を解す。

 同時に加瀬谷も、本を棚に戻しに立ち上がる。



「猫西くんはブラックコーヒー、飲めるかい」

「はい」

「じゃあ()れよう」

「ありがとうございます」



 加瀬谷が姿を消す。耳を澄ませてみると、コーヒーメーカーの音がする。セッティングするだけの場所がどこにあるのかと疑問に思っていると、コーヒーの香りが研究室に舞い戻ってきた。

 加瀬谷がブックタワーの間から出てきて、テーブルにマグカップを置いた。



「ありがとうございます。いただきます」



 猫西がふぅふぅとコーヒーを冷ましていると、加瀬谷がまじまじと見てくる。



「見覚えのある顔だが、法学部か?」

「はい」

「何年生かね」

「二年生です」

「ゼミには入るのか?」



 ゼミ――正式にはゼミナールという――とは、学生が主体となって行われる対話型の講義である。


 猫西が通う大学の法学部では、ゼミは選択制だ。ゼミに入ってもいいし、入らなくても卒業できる。それゆえに、弁護士や裁判官など司法関係の仕事を志す者は、まずゼミに入らない。ゼミに入るのは公務員や民間企業など就職活動で話題を作りたい学生ばかりだ。



「はい。加瀬谷先生のゼミに入るつもりです」

「そうか、私のゼミに……」



 道理で見覚えがあるわけだ、と加瀬谷は声を漏らした。

 大学はゼミのイメージを(つか)んでもらうべく、夏休み前にゼミの見学期間を設けている。

 例年、加瀬谷ゼミの見学希望者は毎年ゼロだという。

 しかし、今年は猫西ひとりだけが加瀬谷ゼミの見学を希望したのだ。



「本当に入るの? 私のゼミの(うわさ)は聞いてる?」


「はい。卒業論文を書かないといけないんですよね」


「そうだ。法学部はゼミに入ることも自由なうえ、卒業論文も卒業の必須条件ではない。だが私のゼミでは卒業論文を強く推奨している。というか、必須だ。だから学生の間では不評で第一希望者は毎年いない。それでも入る?」


「そのつもりです」


「ふむ……。理由を()いてもいい?」


「学びたいテーマが加瀬谷先生のところがもっとも近いかなと思いますので」



 猫西は即答する。



「なにが学びたいんだい」

「猫と行政問題について」

「ああ。動物の殺処分とか?」

「はい。行政がどこまで関与できるのかとか……。行政具体的なテーマはこれから考えるつもりですが」



 なるほどね、と考え込む加瀬谷。



「第一希望者がいた場合、面接と課題も課さなければならないが、正直なところ、猫西くんのためだけに面談と課題用意するのが面倒くさいんだよね」


「はあ……。それは、つまり……?」


「本当に私のゼミが第一希望なんだね?」



 猫西はマグカップを机におき、(たたず)まいを正す。



「はい。加瀬谷先生のゼミに入りたいです」


「じゃあ合格で」


「えっ?」


「さっき先輩のレジュメを見てもらったろう。粗い部分はあるが、基礎知識があるのはあれでわかった。事務にはうまく言っておく」


「わかりました。ありがとうございます」



 猫西が頭を下げると、加瀬谷は自身の頭を()でつけながら苦笑した。



「先ほどは随分と大人げないことをしたし、これで償いというわけではないが……、まぁ、その、けじめみたいなものだ」



 加瀬谷は立ち上がり、(かばん)から財布を、机の引き出しから茶封筒を取り出した。



「けれども学会準備で忙しいのは本当でね。助かったよ。これは気持ちだ」

「いえ。うまく引き継げなかった僕が悪いですし」



 猫西は、差し出された茶封筒を押し返した。



「いいから、いいから。若者に気遣われるほうが嫌なんだ。バイト代と思って受け取ってほしい」

「……では、すみません、いただきます」

「謝ることはない。さあ、はやく帰んなさい。今日は二二○日。なんでも台風が近づいてるそうだからな」


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