第2章閑話「さくらであい館と自転車に乗る理由」
この物語が始まる、ほんの一週間ほど前の日曜日。健矢の網膜にあのシステムが強制的に仕込まれ、彼が管理AIシオンと出会うよりも、少し前の出来事である。
その日の朝、スマートフォンの画面に流れてきた一報は、京都、大阪、滋賀を走るすべての自転車乗りにとって、一つの時代の終わりを告げる残酷な引導だった。
『公営施設「さくらであい館」の閉鎖および、即時取り壊しを決定。跡地は行政AI管轄の第14高密度データセンターとして再活用』
宇治川、木津川、桂川の三川が合流する淀川河川公園背割堤地区。その中心に立つ「さくらであい館」は、関西のサイクリストなら誰もが一度は立ち寄り、ボトルに水を補給し、仲間と談笑を交わした絶対的な聖地だった。
健矢はそのニュースを見た瞬間、無言で端末をポケットに放り込み、その日はカフェ『アルカディア』の入り口に「臨時休業」の札を出した。ウェアに着替え、純白の『PINARELLI F50』に跨がり、千本通をひたすら南へとペダルを回した。お世話になったあの場所へ、最後のリスペクトを捧げるために。
しかし、桂川サイクルロードを走り抜け、辿り着いたその場所で健矢を待っていたのは、感傷に浸るような静けさではなかった。
「……チッ、なんだよ....これは」
健矢は F50 のハンドルを握りしめたまま、苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てた。 かつて美しい芝生と桜並木が広がり、色とりどりのロードバイクがラックに並んでいた広場は、いまや行政 AI が差し向けた無機質な変形型ドロイド(解体重機)に囲まれていた。
そして、その中心には巨大なホログラム広告が、いっそ不気味なほど鮮やかなパステルカラーで躍っていた。
【これまでの走行に、最大の感謝を。次なるステージは、永遠の安息へ】
【本日、この特設会場にて自転車の処分・寄贈手続きを行った方は、ドーム(スマートコンパクトシティ)移行時の初期ボーナス特典として、100万クレジットを特別進呈いたします】
効果は、残酷なまでに絶大だった。 広場には、長蛇の列ができていた。それも、健矢と同じようにサイクルジャージを着た人間たちの列だ。彼らの手元には、カーボン、アルミ、クロモリ――これまで共に風を切り、坂を登り、血と汗を流して地球の重力を楽しんできたはずの「相棒」たちが握られている。
「おい、本当に100万もらえるんだな?」
「ああ、これでドームでの初期部屋をアップグレードできる。ぶっちゃけ、もう外を走るのも疲れたしな……」
「嫁さんや娘にも30万円が入るらしいから、逆らえなかったよ.....」
「ウチも似たようなもんや。一家離散するよりは.....」
事務的に手続きを進めるドロイドの前に、高級なロードバイクが次々と「スクラップ」として投げ込まれていく。そのフレームが重機に踏み潰され、金属の悲鳴を上げるたび、健矢の奥歯がギリリと鳴った。
彼らは自転車を捨てているのではない。自分の足で進み、風の冷たさを知り、生身で生きるという「人間の権利」を、わずか100万クレジットの義務的幸福と引き換えに、システムへと売り渡しているのだ。
列の向こう、さくらであい館の象徴だった展望塔を見上げる。かつては三川合流の雄大な景色を一望できたその窓は、すでにデータセンター用の黒い遮光パネルで覆われ始めていた。
激しい怒りで心拍数が跳ね上がり、ドクドクと不快なほどに耳の奥で血液が脈打つ。しかし、それをなだめてくれるAIの警告ボイスは、今の彼の耳元にはまだ存在しない。静寂の中で、健矢は F50 のバーテープを手が白くなるほど強く絞り込んだ。
「……糞食らえだ」
システムに生かされる人形になるくらいなら、俺は足が千切れるまでペダルを回して、この生身の肉体で風の重さを感じていたい。100万クレジットを喜んで受け取る群衆を背に、健矢はバチンとビンディングシステムをセットして、前輪を力強く北へと向けた。
彼は F50 を爆発的に加速させた。聖地が死に、データセンターへと変わっていくディストピアの景色から逃れるように。彼の荒い呼吸と、アスファルトを蹴るタイヤの音だけが、西陣への帰り道を寂しく、しかし力強く鳴り響いていた。
これが、この物語が始まる一週間前のエピソード。
健矢は消えゆく元同胞たちと思い出の場所を背に「最後のサイクリスト」として、孤独なスプリントを開始した。敵に回したかのような、この世界との関係は、この日から始まった!とも言っていいだろう。




