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第7話:【冷え切った陳列棚、あるいは市場の死亡診断書】

午前九時十五分。 開店から一時間以上が経過しても、やはり西陣のカフェに客の足音が響くことはなかった。 健矢はリネンでカウンターを磨き上げ、ドアに.......


【外出中、御用の方はこちら(080-xxxx-aaaa)または当店SNSアカウントのメッセージでお知らせください】


と書いた紙を入口ドアに貼ると、店番を長老猫のリコと若いクロに任せて小さめの保冷バッグを手に勝手口から外へ出た。

向かうのは通りを数ブロック進んだ先にある、かつて「スーパー」と呼ばれていた場所だ。


健矢には、譲れない主義があった。 「食材は、自分の目で見て、手で触れて選ぶ」 パスタのトマト缶一つ、昼のまかないに使うキャベツの葉一枚、朝食の鮭の切り身に至るまで、彼は生身の五感でその『鮮度』を確かめてからでなければ決して己の腑に落としたくはなかった。


食材を選ぶという行為は料理人としてのプライドであり、生身の人間として世界と対話する厳粛な儀式だったからだ。


だがしかし、その儀式を行うための戦場は、

この数年で無残に、そして静かに...

虐殺されていた。


(……二年前は、まだマシだったな)


歩道を歩きながら、健矢はかつての光景を苦い口の中で反芻する。 かつてのそのスーパーには、不揃いだが瑞々しい京野菜がカゴに盛られ、鮮魚コーナーには氷の上に頭付きの魚が並んでいた。おばちゃんたちの雑談があり、惣菜の揚がる油の匂いがあった。耳障りなガキンチョ共のギャン泣きと母親の怒号が奏でる喧騒もあったし、夜にはすり切れた社畜たちのぼやけた背中がたくさん見られた。


健矢はそこで、鮭の切り身の「赤みの冴え」をじっと見定め、大根の「ずっしりとした重み」を掌で測って買い求めていた。


変遷は、ジワジワと、しかし確実に始まった。 まず、行政AIが『食品ロス削減の最適化ガイドライン』を発令した。 スーパーの棚から、少しでも形の悪い野菜や、賞味期限が迫った肉が姿を消した。AIの計算によって「売れ残る可能性のある生鮮食品」の入荷数が極限まで削られたのだ。


次に、棚の半分が『完全栄養ペースト・タイプA(プレーン味)』に占拠された。 「調理の手間を省き、排泄物の量を最小化する、市民の味方」という、反吐が出るようなキャッチコピーと共に。


人口の七割がVRカプセルに引きこもるにつれて、店から「匂い」と「人間」が消えた。生鮮食品の棚は冷え冷えとした真空パックの陳列に変わり、やがて一年半前、レジ打ちの人間が全て撤去され、冷徹なドローンゲートに置き換わった。


その時点で、健矢の「目で見て選ぶ」というささやかな贅沢は、事実上の死刑宣告を受けたのだ。


そして、現在。

スーパーの自動ドアをくぐった健矢を待っていたのは、陳列棚すら存在しない、灰色の一枚岩のような空間だった。


かつて果物や鮮魚が並んでいた場所には、ガルバニウム鋼板の無機質な「自動受取ロッカー」が壁一面に埋め込まれている。冷たいLEDの光が床を照らし、天井からは、浮遊する防犯監視ドローンがブーンという不快な羽音を立てて健矢を 見下ろしている。


ここにはもう、選ぶべき食材も、匂いも、色彩もない。あるのはただの「配給所」としての機能だけだ。


「チッ……」


健矢は舌打ちを噛み殺し、壁のタッチパネルに自身の網膜IDをスキャンさせた。


『山崎健矢様。事前申請された個別食材の払い出しを行います。承認番号を確認中……』


システムが冷たく告げる。 今や、未加工の生鮮食品を購入するには、数日前からの「事前申請」と「生身活動の証明」が必要になっていた。AIにとっては、個人のために生肉や生野菜を流通させること自体が、エネルギーの無駄遣い(非効率)だからだ。


ガコン、と重苦しい金属音が響き、一つのロッカーが開いた。 中に入っていたのは、厳重にプラスチックパックされ、バーコードが印字された「鮭の切り身」と、窒素充填されたわずかな青物野菜。


健矢はパックを手に取り、照明に透かして見た。 肉質は悪くない。行政の管理下で均一に育てられた養殖鮭だ。だが、そこには彼が求めていた「選ぶ楽しさ」も、職人の目利きが介在する余地も一切ない。ただ、上から割り振られた数値を機械的に受け取るだけの作業。


「目で見て選ぶどころか、これじゃ家畜の餌の受け取りだな」


自嘲気味に呟き、保冷バッグにパックを叩き込む。 隣のロッカーからは、VRカプセルから一時的に這い出てきたような、顔色の白い男が『完全栄養ペースト』の1ヶ月分入った段ボール箱を無表情にカートへ積んでいた。男の目は完全に濁り、網膜VRの青い光だけが爛々と輝いている。彼は自分が何を食べているのかすら、興味がないのだろう。


これでもフィジカルAI端末に使いっ走りを遣らせてないだけマシに見える。

街が、食が、人間の感覚が、こうしてジワジワと無機質な砂へと変わっていく。


「ふざけやがって。俺は死ぬまで、ペーストなんか喉に通さねえからな(ライドで極限まで削られでもしない限りは)」


奪われていく「生身の現実」の重みをバッグの中に感じながら、健矢は配給所と化した元スーパーを後にした。胸の奥で、システムに対するどす黒い反逆の炎がさらに勢いを増して燃え上がるのを感じていた。


時計の針は午前九時四十五分を回ろうとしていた。 店に戻れば、あと十五分で、あの「効率の化身」である実体ドロイドが、彼の聖域へと土足で踏み込んでくる。


健矢はエプロンの紐を強く結び直し、西陣の冷え切った風を切り裂くように、力強い足取りで我が城へと歩を進めた。


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