◯最近やろうとしていること。
定時後の道場は閑散としている。柔道のコート二面分の半分に自分とナツメがいて、反対に他の部署の人が数人いる程度。向こうは組み手、こちらは基本練習なので交わる事もない。ナツメの監督の元、基本的な動きを丁寧に繰り返すティオの姿があった。
少し遡る。ナツメさんが復帰して初めてのエリさんとの稽古で見た景色は、なかなかに強烈なものだった。ナツメさんが右足を囮にしてエリさんに掴ませる。それを軸に回転して左足でこめかみを蹴る。衝撃的な景色だった。人はああいうふうに動くのか、あれをやって見たいと思った。
一瞬前の記憶の中のナツメさんの動きを全て言語化して、よし、これで私も戦えます。と意気込む。更に皆さんの役に立てると。今にしてみれば、取らぬ狸の皮算用をし始めていた。二人の組み手が終わった後の皆のやりとりをそっちのけで、一人ふらふらと、一目見た瞬間の興奮冷めやらぬ、変な熱にうなされた感覚で、早く早くと気持ちを掻き立てられ、自身の能力をフル活用した、完璧なプロンプトでもって、誰も見ていないであろう空間で、一人でさっそく蹴りをやってみた。
どてっ
ぎこちなく地面に落下する。あれぇ。おかしいな。計算し尽くしたところに身体を持って行くことが出来ない。そもそも蹴り足を上げた時点でふらついて話にならない。足を高く上げるというだけでもう半分以上身体の制御が出来ない。
どういうことだろう。理解が追いつかないままに、気づいたナツメだけが寄ってきてくれて、手を差し出してくれた。ありがたく手を取り立ち上がる。彼女はティオのやろうとしたことを見抜き話す。
「いきなりは無理よ」
そう言って基本的なことを教えてくれた。ただ、それすらまともに出来なかったということに愕然としたのが、その日だった。
それからも合間を見つけては練習する。しかし理想に対して自分の身体がついて来ない。ナツメさんやエリさんはまだしも、たまに合同稽古に参加するサヤカさんですら、スムーズに身体が動いているように見える。
ところが自分はどうだろう。軸足になる足の足首、膝の角度と位置、これはできる。しかし蹴り足が地面から離れた瞬間にまず立てない。なぜ?どうして?その結果蹴りは真っ直ぐにならないし、高さも出ない。
「当たり前だけど、基本もできずに応用なんか出来ないよね」
ちょっと厳しい言い方だけどね、とナツメさんは言ってくれた。その後もナツメさんが練習や合同稽古に参加するたびについていき、裏でこっそり模倣する。しかし自分の動きは全然ぎこちない。
ただ、いくつかわかったことがある。一つは、自分の身体が、動き出した時に止まることができないということだ。例えば、蹴り上げた足が、いうことを聞かずに、流れていく。だからバランスを崩す。姿勢制御の問題か、積み上げた全体プロンプトの問題なのか、しかし何度も見直してもプロンプトとシュミレーションは完璧であり、原因については皆目見当がつかなかったが、ナツメさんが簡単に答えを教えてくれた。
「それは多分筋力の問題、意識とかテクニックの問題じゃないと思うな」
その次は、当たり前と言えば当たり前の話だが、例えば突きを放つ時、自分の身体の位置全てを言語化していると間に合わないのだ。わからない部分で小さなフリーズが発生し、それが余計にぎこちなさ繋がっているようだ。両足が地面についている突きであってもこの様であり、ましてや片足が中に浮く蹴りについては、ぎこちなさと言うかまともな姿勢を保てない。
「言葉で言うと難しいけどね、歩く時、小走りする時、そんな事意識してる?してないよね」
ナツメは言ったが、しばらくして自分が言ったことを反芻して固まる。
「え?ま、まさか?」
「いえ、なんとなく動かすという部分はわかります。ただ、新しい動きというのは、やっぱり難しいですね」
「それは誰でもそうよ」
安堵するナツメ、そして、大きな問題が二つ、と呟き顎に手を当てて少しだけ考えこむ。向かい合った視線からゆっくりと上半身をひねって視線を逸らして、一拍、そしてまた戻ってくる。小柄なナツメは上目遣いで少し可愛げのある目つきで告げる。
「この二つの問題に対しての特効薬があります」
聞きますか?と言い終わる前に、ティオがにじり寄り、なんですか?と聞く。ナツメは一歩も引かずに答える。
「基本よ、基本練習。文字通り身体に叩き込むの」
その宣言が数週間前、相沢と優木の事件が片付いたあたりだった。
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そして今に至り、とにかく基本練習。ナツメであったり、ユキであったりが、ティオの監督をすることにしている。そして今日はナツメが見る日であった。
「1」
「はいっ」
道場に響くナツメの号令。それに合わせて基本動作を繰り返すティオ。
「号令の間でも構えは崩さないよ、はい、2」
「はいっ」
蹴りをやりたいとは言ったものの、今はまだ突きである。構えから一歩前へ踏み込んで自分の顎と同じ高さを撃ち抜く。撃ち抜いたあとはちゃんと手を引いて元の位置へ戻る。その際に最初の位置とずれていないか逐一目視で確認する。
「はい、また肩に力が入ってる。軌道がおかしくなるよ。やり直し、はい、2」
理屈はわかる。いわゆる間合いの外から中へ入る。それから突きを放つ。身体の中心に据えた利き手である右手に対して、踏み込んだ際の後ろ足から順番に、足、膝、腰、肩、肘、手首、そして拳の先へと力を連動させて打撃として相手に伝える。
理屈はわかるが、それを早くやる、となると話が違ってくるわけで、なんのために突きを放つかというと相手を倒すためであり、そのためには力を込める必要があるわけだ。だから拳は硬く握られるし、肘は伸びたままになるし、肩に力が入りこむ。
「肘が伸びちゃってるから、それを変に補うために身体が流れてるよ。まだその段階じゃないよ。はい、3」
「はいっ」
こんな調子なので、時間がかかる。あっという間に一時間は経過する。ちなみにユキの時は。
「ナツメが言ってることは正しいから、とにかく数をこなそうや、ほな20回3セットな」
ということで、とにかく数をこなす。明らかにおかしい時だけ、ナツメに何を言われたか思い出してやー。という程度の声かけはある。
「いわゆる予習と復讐ですね」
と、この練習方法についてティオ自身は納得をしているようだ。多分、復習だとは思うが。
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「エリ、こっちの書類直してや。年号が前回のままやわ」
「あれ?ごめんなさい。直しておくわ」
監査院監査の来訪は意外に近く、最初の連絡から三週間後には来ることになった。そしてその日はもう来週である。会計関係の書類は大詰めを迎え最終チェックという段階になっている。
エリ自身は正直言って事務仕事は得意ではないが、署長曰く。
「あー、ごめんねぇ。うん。四条くんと四条さんに書類作らせて本番でさぁあ、居ないからわかんないってことだけは避けて欲しいんだよねぇー、あーごめんねぇ」
解釈が間違っていないなら、準備から、ユキとティオをあまり関わらせないようにしろということだ。面倒なことこの上ない、しかも妙に細かいから最終的には、必ずご自分でも確認される。なんという絶妙な面倒くささ。
ただそれでもユキやティオも書類のチェックやアドバイスはしてくれるので、日々書類と格闘する。
「だぁー」
書類を直しているエリが奇声を上げる。一度崩れるとズルズルと行く、エリの悪い癖である。書類でも逮捕術でも、そのほかのスポーツでも、調子が良いと良いのだが、一度崩れると、立て直そうとして空回りする。資料は大枠を作るのは早いが、調整のところで苦労する。そんな感じというか現にそうなっている。指摘されたところだけでなくよく見ると小さなミスが目立つ。
「一回引っかかるとダメなのよねぇ、もう」
誰にいうでもなく呟いて、エリはまたノートPCに向かう。
自身の癖をなんとかしようというよりも、その実際はエリ自身の心配の目はナツメに向いている。
そんなんだから、ミスもするわよ。と自問自答しながら、本件の実質的な責任者となっている彼女を見つめる。彼女もソファーテーブルを挟んだ反対側の席で資料とノートPC、タブレットと視線を忙しく動かしている。
ことここに及んで、まだ、あの日の話を出来ていない。
ナツメさんが、優木ハルカの一撃を掻い潜り、一本背負いを決める。マフィアの身代わりが落とした銃が相沢ナルセの前に転がり、やつとナツメさんの間に割って入る。銃口が私に向けられる。震えた銃身では当たらないと確信があったが。
「お願い…エマ」
と、確かに彼女は言った。そしてうずくまってしまった。腑抜けた相沢そっちのけで、駆け寄って引き起こそうとしたが。
「うーん。久しぶりだったけどうまくいきすぎて、腰が抜けちゃった」
あ、嘘をつかれた。そう思って差し出そうとした手を引っ込めて、捜査官の仕事として、相沢たちに手錠をかける方を優先してしまった。返事くらいすればよかったと思っている。あれ以来、口を聞いてないとかそういうこともなく、それなりに会話はしている。なんなら休みを使ってでもベッタリしてしまっている。
いま思えば、あの時のそれはこちらを心配させまいとする気遣いなんだろうけど、それならそうと言って欲しい。どっちであっても私はお姉ちゃんの代わりではないから、でも、双子という性で人からみたら背格好は瓜二つだ。間違われることもある。それはもう仕方ない。
「生来持ってるものだもん、そうそう上手く出来っこないわね」
二重の意味を持った独り言を言う。気づく人はいないだろう。こういうやり方だから挽回が遅くなるのだろう。知ってる。わかってる。わかった上でやっている。
ただ、もう少し素直になりたいとも、思っている。ノートPCを持って立ち上がる。
「隣、いいですか?」
ナツメは手を止めエリを見る。
「良いわよ。どうぞ」
隣に座る、何か話すわけでもなく距離を詰める。まぁまずはこれくらいからと言うことで。
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ナツメへのべったり具合を横目に見ながら、サヤカは考えをめぐらす。
最近、エリさんも元気そうで、張り合いがないですからね。
我ながらとんでもないことを言っているという自覚はある。もちろん誰にも言うわけでもなく自身の心の中に留めているという世間から見た正しい行為をする。
弱っている人や困っている人を見ているとソワソワしてしまう。どうにかこうにかして役に立とうと思ってしまう。役に立とうとする点はティオとそんなに変わらないが。
まだまだ、彼女は甘いですね。サヤカ自身はティオをそう評価する。そんな彼女も今は書類との戦いだ、特に数字、お金とは無縁の世界で生きていたから、毎日が新鮮ではあった。
今回は、大人しく、節度を持って、この監査院監査を乗り切ろうと思っている。
ただ、それだけでは勿体無い気がしている。この監査係は、いま少し、とっても面白いことになっている。
どういう訳かわからないが、美少女に変身するおじさん。しかも最近は元に戻らないらしい。困っている。
失踪した大好きな双子の姉を追い続けるエリ、その姉とコンビを組んでいたナツメさんが合流してとても嬉しそうだが、元来の気の弱さがまだ邪魔している。困っている。
そしてナツメさん、華麗な復帰劇を果たしたと過言ではないが、エリの姉であるエマに関する大事な記憶、なぜエマが失踪したかはいまだに思い出せないようだ。復帰直前のカウンセリングよりはずいぶんと顔色などは良いが、困っている。
最後にティオ。元AIを自称する不思議な女性。あらゆることへのぎこちなさが愛おしいくらいに、そして多分、困っている。
そう。今この空間は皆困っているという、サヤカ自身が一番ソワソワしてしまう状況何だ。そこで慣れない数字と書類との戦いをしなければならない自分。そうサヤカ自身も困っているのだ。
だからこそ改めて、自分が困っていては話にならない。まずは監査を乗り越えよう。そうすれば美味しいデザートが待っている。そう我慢するサヤカであった。




