第十三話
夕暮れ時の少し前にやってきた乗合馬車に乗り込むと、ヨラは座席に着いた。喉まで込み上げていた悲しみが腹の底に少しずつ落ちていくようだ。窓の外で流れていく景色を眺めながら、ヨラはまだ、商船の紋章の刺繍を握りしめている。指にまるで縫い付けられたかのようだ。一本ずつ開いていく。
──海賊は、今まで一体何人を苦しめて来たのだろう。
ヨラの乗っていた武装商船は反撃して海賊船を沈めることができたが、ヨラとアインツが乗った商船の船長や乗組員も、その次にアインツが乗っていた商船も、海賊に襲われた。彼らの行方はわからない。
──どうして海賊なんかになる?
アインツがそうだったように、海賊に捕まってその一員になってしまった元船員は、自分の命と天秤にかけた結果だ。では最初に海賊になった者は、どうして海賊になったのだろうと、ヨラはうつむく。
自分が利益を得るために、または楽をするために、誰かから奪うことを望んだのだろうか。それとも海賊の頭のような誰かが指示して、名を上げるために海賊の船団の中で競い合った結果だろうか。
考えても考えても、ヨラにはその気持ちがわからない。海賊が、捕まえた船員たちを仲間にしようとすることもわからない。もしも船員たちが一斉蜂起したら、海賊船はあっという間に制圧されてしまうではないか。
「山向こうの村はひどい不作らしい。賊が増えるかもしれんから、しばらく近づかない方がいい」
「またか。領主様は交易で儲かった金で養護院や集合住宅を建ててるんだろう? なんでそれに牙を剥くような真似をするかね」
「賊の気持ちなんぞわからんよ。人の欲望ってのは、尽きないものなんだろうな」
乗合馬車で行商人らしき人々が世間話をしているのが聞こえてくる。刺繍をカバンに押し込んでいたヨラの手が止まる。
──もしかしたら、最初に海賊になった奴は、貧しかったのかもしれない。
仮にヨラの想像通りだったとしても、海賊は海賊だ。盗みや略奪が許されるわけではない。貧しいならば他の村に出て働いたり、学んで身を立てることだってできたはずなのに、それをせずに人から奪うことを選んだのが彼らだ。
群青色の空を見上げて、いや、とヨラは目を閉じる。船を買うにしても、動かすにしても、修理するにしても、お金はかかる。貧しい人間は、そもそも海賊になることさえできない。船を用意できないからだ。
──やっぱり、海賊の気持ちなんか、ちっともわからないな。
だからこそ、海上で海賊と戦った武装商船が、ヨラはこの上なく誇らしかった。
うとうとと眠りに落ちたヨラが次に目覚めたのは、朝日がすっかりのぼった後だった。ヨラは乗合馬車から寝起きのふらふらとした足取りのまま降りて、港町の岬の先から朝日が昇るのを眺めた。
朝日を浴びた漆喰の家々がオレンジ色に染まっている。じきにそれも元の色に戻って、ヨラの見慣れた活気ある港町の光景になるのだろう。ヨラは船着場までゆっくりと街を歩く。まだ静かな街に、ヨラのささやかな靴音が響いている。早朝から海に出た漁船が入江に浮かんでいるのが見えた。
ふと、ヨラの足が止まる。船着場に浮かんでいるはずの武装商船の姿がない。ヨラの足取りが早くなる。木製の船着場を進む軽やかな音とは裏腹に、ヨラの胸には焦りが膨らんでいる。
「なんで!?」
武装商船はヨラを置いて出航したのだろう。置いて行かれたことに呆然として、ヨラは海の向こうを眺めた。目を凝らしてあちこちを見渡すが、入江に武装商船の姿はない。波のきらめきと潮騒が聞こえるばかりである。
「ふざけんなよ……! 俺だって、武装商船の仲間だろ!」
思わず声に出したヨラの脳裏を、船長の言葉がよぎった。
──お前、ドリス商会に戻るか? アインツの仇は討ったろう。
ヨラの握りしめた拳が、怒りで震えている。今思えば、武装商船の船長はヨラをドリス商会に戻そうとしていたのだろう。
ヨラは今にも力が抜けそうな足を踏ん張って、ドリス商会へと向かう。市場に品出しをしている行商人たちがいる。積まれていく商品の中にはリンゴがある。ほんのりと潮の味のするリンゴを思い出して、ヨラは唇を噛んだ。
ドリス商会の門番はヨラの姿を見つけると、一通の手紙を渡した。
「預かってたんだ。武装商船の船長から」
ヨラはぶっきらぼうに手紙をその場で開いた。
──ヨラへ。
アインツの家族への届け物をありがとう。
武装商船は出航する。置いていくこと、お前はきっと怒るだろうな。
しかしお前はまだ若い。今は海賊への憎しみが勝っているかもしれないが、それがずっと続くとは限らない。
うちの乗組員を見ただろう? みんな、海賊への憎しみを抱えている。それが元船員だろうがお構いなしだ。
もしも次に武装商船がエルシュタットの港に戻って来たとき、お前が変わらず海賊への憎しみを抱えているなら、今度こそは武装商船に迎え入れよう。
それまでに一度、頭を冷やすんだな。
ドリス商会は大きな商会で、船員たちへの面倒見もいい。見聞を広げろ。話はつけてある。
お前とまた会えることを楽しみにしている。
武装商船船長──。
手紙を握りしめるヨラの手が怒りで震える。ドリス商会の門番はヨラのために門を開くと、困り果てた犬のように眉を下げて、ヨラを見守っていた。ヨラはドリス商会の建物にゆっくりと入っていく。何度も見上げたオレンジ色の屋根瓦の上に、風見鶏が見える。付属の風車がくるくると回っていた。
ヨラは以前そうしていたように風の向きや強さや、太陽の向きを観察して、手帳に殴り書きをした。
「おかえりなさい、ヨラ」
ドリス商会の受付嬢が困ったようにそう笑ったのを見て、ヨラはぶっきらぼうに「ただいま」と告げた。
廊下を抜けて、漆喰と柱でできた船員用の寝室に向かう。手近なベッドにごろりと寝転んで、ヨラはまぶたを閉じた。怒りで眠れそうになかった。
──きっと海賊になった元船員でも、躊躇なく吹っ飛ばせなきゃダメなんだ。
船長に迷いを見抜かれたようで、ヨラは悔しくてたまらない。何度もベッドの上で寝返りを打つが、眠れなかった。乗合馬車に何時間も揺られて疲れているはずなのに、目が冴えている。
「おーい、積荷の上げ下ろし、できる奴はいるか?」
昼過ぎにドリス商会の寝室に響いた声に、ヨラは跳ね起きて「やる」と言った。疲労はあちこちに残っていたが、今は身体を動かしたい気分だった。
船員たちと並んで船着場に向かう。街はすっかりいつもの活気に満ちていて、波の音も変わらない。海鳥が呑気に飛んでいる。
ヨラは肩を怒らせながら、これから出航する船に積荷を積んでいく。そうこうするうちに、仕事が終わって、日が暮れた。
ヨラが海に沈む夕陽を眺めていると、どこからか陽気な音楽が流れてきた。踊る足音と歓声、手拍子が聞こえてくる。
ヨラは船着場に座って、爪先を海に浸す。たまに海水を蹴り上げて、その雫を眺めながら舌打ちをする。武装商船は当分戻ってこないだろう。
数ヶ月後、エルシュタット公国の領主が一つの公布を出した。私掠免許を持つ船のいくつかで、海警のための軍──海軍を結成するというものである。武装商船もその中の一つに入っていた。
ヨラは今日も海を眺めながら、港に届いた積荷の上げ下ろしをする。武装商船が次にこの港に戻って来たとしても、海軍となった武装商船の乗組員になれるとは限らない。軍ならば検査や教育を経てからになるし、望む船の乗組員に配属されるかもわからない。それとも船長は、陸で所用を頼んでいた乗組員だと言って、ヨラを武装商船に迎え入れてくれるだろうか。
港で一仕事終えたヨラは、靴を脱いで海に爪先を浸ける。跳ね上げた海水の雫が、夕暮れの日差しに輝いた。
「……うそつき」
武装商船は、まだエルシュタット公国の港には戻ってこない。風の向きや強さを記したヨラの手帳は、すでに四冊目になった。
後年、ヨラは海軍に所属し、海賊を狩る海軍として、その苛烈さで海賊たちに恐れられることになる。長じた後も、海賊への憎しみは決して変わることがなかった。
<おわり>
【参考資料】
建築知識7月号 2026.7.1発行
【あとがき】
お読みいただき、ありがとうございます。
この作品は小説賞に応募するために書いた、エンタメを意識した作品です。
大航海時代を元にした近世海洋ファンタジー、いかがでしたでしょうか。
ほとんど私の知識や記憶を元にしているので史実からすると違うところもあるでしょうが、ヨラがまだ船乗りとして未熟なのと、ファンタジーなのでこれでいいかなと考えています。
コーエーのゲーム『大航海時代』や、トマトスープさんの漫画『ダンピアのおいしい冒険』の影響は受けているでしょうが、極力要素が被らないようにしたつもりです。
直接的な資料は各話の参考資料として記載しています。
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お楽しみいただけますと幸いです。
2026.6.30 網笠せい




