第一話
大海原に出て数日が経つと、潮の香りも海風のべたつきも気にならなくなる。少年ヨラは帆船のマストの軋む音を聞きながら、日に焼けた顔を上げた。
昼の間は海がよく見えるから、ヨラのような下っ端にも見張り当番が回ってくる。夜になると、月や星や松明、カンテラなどのわずかな明かりで、暗い海の上を進む他の船や陸地を探さなくてはならないため、ヨラではなく、熟練の見張り番が担当している。
ヨラはマストの上の見張り台で、海に浮かぶ他の船の様子をじっと見ている。位置が近くなりそうなら操舵手に連絡して、ぶつからないように船の進路を変えなくてはならない。進行方向に岩礁があるときも同じだ。
ヨラたちの乗った商船は交易品を積んで東に向かっている。陸地はすでに遠く、方角は太陽の高度や星の輝きから航海士が計算で割り出している。ざっくりとした方角ならヨラたちにもわかるが、今大海原のどの辺りなのかというのは、船の速度や風の強さ、潮の流れ、海の荒れ具合によっても変わる。出航して数日で、ヨラのような新米にはすっかりわからなくなってしまった。
「ヨラー! そろそろ交代!」
「わかった!」
「海水汲み上げてあるから、風呂入っていいってよ!」
「了解!」
ヨラと同じ時期に船に乗った少年・アインツが下から手を振っている。ヨラが甲板を見下ろすと、海水の入った大きなタライが置いてあった。入浴できるのはいいけれど、海水だからべたつくんだよな……と、ヨラはマストに繋げていたロープをほどく。ヨラの視界の隅に、少し離れて航行していた他の商船が、旗を下ろすのが見えた。
「なんだ?」
ヨラは手を止めて、じっとその光景に見入る。代わりにするすると上がっていくのは、海賊の旗だった。
「海賊! 海賊だ!」
「マジかよ!」
「商船に化けてやがった!」
アインツが甲板を走り出して、「海賊だー!」と叫びながら船長に報告に向かう。ときどき船の揺れで、足元がふらついている。アインツの叫びを聞いて、にわかに甲板の上が騒がしくなる。熟練の見張り番がするするとマストを上ってきて、「よく見つけた」と、ヨラの肩を叩いた。
「甲板でもう一仕事して来い」
「了解」
ヨラはロープをほどいてマストを下りていく。ドンと大きな破裂音がして、少し離れたところで水柱が上がった。海賊が大砲を撃ってきたのだろう。弾は海に落ちたようだが、船がぐらりと傾いた。ヨラはうっかり滑らせた手を、必死でマストに伸ばしてしがみつく。海賊の二発目の大砲が、再び海に落ちる。距離が近づいてきている。ヨラは甲板に着地するや否や、船長の元へと走り出した。甲板の上では船員たちが海賊船に向けて怒鳴っている。
「下手くそー! ちっとも当たってねぇよ!」
「違う、ありゃあ弾着だよ。距離測ってんだ。じきに当てに来るぞ。気をつけろ」
船長は操舵室の入り口で、望遠鏡を目元に当てていた。海賊船を見ているのだろう。
「船長!」
「……報告」
「海賊が商船に化けてました。海賊船は、メインマストが一本、サブマストは二本の計三本。大砲の数は不明。おそらく右舷に二門」
「左舷にも二門で、計四門かもしれんな。こちらも迎え撃つ。ヨラ、お前、大砲の弾運びをしろ」
「了解!」
ヨラはハシゴを使って甲板から船内に下りると、弾薬庫にずらりと並んだ弾丸を運び出す。弾丸を固定しているロープを外して、弾をゴロゴロと転がしていく。弾薬庫の床を転がる鉄の塊は重く、敵の攻撃で揺れる船の中ではふらつく。砲門の前には弾丸を抱えた下っ端が何人か並んでおり、ヨラはその後ろについた。
「まだ撃たない?」
「ああ。こっちは商船だ。海賊船ほどには弾薬積んでねぇ。引きつけてから撃つぞ。一発たりとも無駄にはできんからな」
砲手は舌なめずりをすると、大砲用にくり抜かれた窓から海賊船の様子を探った。海賊たちは大砲をどんどん撃ってくる。水柱が何本も上がり、小さな飛沫がヨラにもかかる。
「あー、クソッタレ。歯がゆいぜ。お前らもムカつくよなぁ? 今はそのムカつき、溜め込んどけ。船長から発射許可が降りたら、盛大にぶちかましてやる」
「発射ー! 大砲の発射許可下りました!」
アインツが叫びながら弾薬庫にやってくる。連絡係を担当しているのだろう。砲手は「よっしゃ!」と腕まくりをすると、弾丸を大砲に押し込めた。射角を調整して、着火する。
「お前ら! 耳塞いどけよ!」
砲手の大声のあと、ドカンと大きな破裂音がした。耳を塞いでいたはずのヨラの鼓膜が、びりびりと痺れている。大砲の弾が猛烈な速度で飛んで行き、海賊船の大砲の近くに着弾する。海賊船の壁がバリバリと砕けて、大砲ごと何人もの海賊が海に落ちていくのが見えた。
「ざっまぁみやがれ! 土手っ腹にぶち込んでやったぜ! 次弾装填!」
「了解!」
キーンとしたままのヨラの耳に、砲手のガハハという笑い声が聞こえた。ヨラたちの乗った商船は次々と大砲を撃ち込む。大砲前には火薬の匂いと煙が充満している。砲手が煤にまみれた顔をゴシゴシとこすると、頬に黒い煤が伸びた。ヨラたちも煤まみれだ。
海賊船から、お返しとばかりに大砲が飛んでくる。しばらく大砲の応酬が続いたあと、連絡係のアインツがヨラの肩を叩いた。アインツの顔は青ざめ、手が震えていた。
「ヨラ、船長が呼んでる」
「わかった!」
「オレも行く」
大砲の音に負けないように大声を出すと、ヨラは自分が抱えていた弾丸を他の船員に託して再び甲板へと向かった。
大砲の揺れに身を引き締めながらハシゴを上ると、弾薬庫から見ていた風景とは違うものが、ヨラの目の前に広がっていた。マストが折れて、甲板に大穴が空いている。
「アインツ、これ……」
「……結構やられてるよな。マストが折れちまってるから、航行不能だろ」
絶句するヨラから少し離れた場所に、海賊の砲弾が飛んでくる。身構えたヨラとアインツの前で、砲弾は破裂することなく、ただ転がった。二人は砲弾を見る。ヨラが先程まで転がしていたような鉄の塊ではなく、切り落とされた人間の頭だった。
「ヒッ!」
甲板の上で響き渡っていた怒鳴り声が途切れた。ヨラの喉の奥が、ヒュッと狭くなる。腰を抜かして後ずさったアインツの元に、焦げた人間の頭がゴロゴロと転がってきた。
「海賊、弾切れなんじゃねぇの」
「お前、よくそんなこと考えられるな!? 首だぞ首! 海賊船に乗ってた奴の首を飛ばして来たってことだろ!? 仲間じゃねぇのかよ!」
わめくアインツをよそに、ヨラは船長の元に駆け寄る。腰を抜かしたアインツは、甲板を這いつくばるようにしてヨラのあとを追ってきた。
「ヨラとアインツか。すでに見ただろうが、マストが折れた。商会に手紙を届けてくれ。小舟を用意させた。急げ」
「俺たちがそんな大役……」
「使いっ走りのお前たちだからこそ頼むんだ。俺たちには船の上で、役目がある。一人欠けると、船を動かすのに苦労するからな」
戸惑うヨラに、船長は羊皮紙をくるくると巻いて手渡す。ヨラは神妙な面持ちで手紙を受け取った。船長は胸につけていた紋章をナイフで切り取って、アインツに渡す。商船の船長を示す紋章だ。
「気をつけて行けよ」
「了解。船長たちも、どうかご無事で」
敬礼する船長に合わせて、ヨラも額に手を添える。かつて軍にいたという船長は苦み走った笑みを浮かべて、「行け」と二人を見送った。
小舟にはすでに数日分の食料と水が詰め込んである。ヨラとアインツはロープを慎重にゆるめて小舟を海に下ろすと、縄ばしごを下りて小舟に乗った。
そうして二人は、大砲の応酬で大きく揺れる海に漕ぎ出した。オールを使って、商船から少しずつ離れていく。波の揺れがようやく穏やかになったところで、ヨラは太陽を見上げた。陸地の見えない大海原で、方角を知る手掛かりは少ない。
「おい、アレ……」
アインツが言葉にならないといった様子で、来た海路を指差す。ヨラたちの乗っていた商船に、海賊船の武装した船首がめり込むところだった。
ヨラは呆然としながら、胸の前で十字を切って祈った。これから海賊たちが商船になだれこんで、接舷戦になるのだろう。商船にも腕っぷしの強い船員は多いが、海賊相手となるとどうなるかわからない。
海賊に襲われた商船の乗組員たちは、大抵は海賊の仲間に加わるか、殺されるかのどちらかだ。軍出身の船長が、海賊の仲間に加わることをよしとするはずがない。船員たちも皆、航海に出たときに命を落とすかもしれないと腹をくくっている。海賊に一矢報いると暴れるのは、目に見えている。
「どうか、ご無事で」
ヨラはそう呟いて再びオールを構え、小舟を漕ぎはじめた。アインツもあわててオールを漕ぐ。できるだけ、海賊たちから距離をとらなくてはいけない。




