序章
不慣れな学園物になりますが、面白いと思っていただけるよう楽しんで書きますので頑張って読んでいただけると幸いです。
自立って何だろう?
高校に入学して三年目。今年で大学受験を控えているというのに、そんな言葉の意味すら分からなかった。
辞書で引くと、「他への従属から離れて独り立ちすること。他からの支配や助力を受けずに存在すること」、とあるが、果たしてそれは一体どういうことなのか、分からずにいる。
当たり前だがもちろん、言わんとしていることはわかる。日本語がわからないわけじゃない。国語の授業で『自立の意味を述べよ』という問いがあったら、そっくりそのまま「他への従属から離れて独り立ちすること」ときれいに答案に書くだろう。
分からないのは、自立した人間とは、どういう人間なのか、ということだ。
「自立した大人になりなさい」今はいない父親の言葉だ。
いないというのは、小説によくある死に別れた悲劇の主人公気取り、なんてありきたりなことでもない。
もっと当たり前に良くある話。母と離婚する前の父親の言葉だった。
『自立した大人になりなさい』
『そのために、人に迷惑をかけないようにしなさい』
『そして出来るのなら誰かを守れるようになりなさい』
父親から良く教わったその言葉は、なるほど、文章を並べてみると本当に、これまたすべて実践できればそれはよほど格好いい大人の姿になるだろうと思う。
それを話した父親はきっと自立していた人で、そして人に迷惑をかけないように生きてきたのだろう。
そんな父親は、離婚の際に母親の足にしがみつき、捨てないでくれと泣いて乞うていた。
ああ、きっとそれからだ。
『自立した大人』。うん。その言葉の意味が分からなくなったのは。
静岡県の中で唯一都会と言っても過言ではない静岡駅から車で走ること15分。同じ静岡市内なのにそれはもはやというかどう見てもど田舎だろう場所にある、県立の運動場の横の、なんとびっくり私立のくせして公立高校の方が文武ともに優れているという、悪い意味で有名と言えば有名な進学校の進学クラスの一室で、今日も今日とて先生が機嫌悪そうに教壇に立っていた。
それもそのはず。受験シーズンに入ったこのクラスは、進学校の進学クラスだというのに、学力に信じられないほどの開きがある。勉強してきたやつ、する気がない奴の差がはっきりと分かれ、する気がない奴はそもそも授業についていけないし、なにより実は進学する気がなかったりするので授業など完全にどうでもいい。放課後友人と遊ぶまでのただの昼寝休憩の場所としか思っていないのだろう。
一方、やる気がある人たちにとってみれば、私立に入るくらいだから家計にある程度余裕がある人たちの子供なのだ。学校の授業でやるような内容はとうに進学塾で済ましており、復習もとうに終わっているため、授業を聞くメリットがまるでない。授業そっちのけで各学校の入試問題――所謂、赤本――をひたすら解いている始末。
俺はというと、どちらかと言えば進学する気がない側の人間だ。もちろん決めているわけではない。しかし特に大学でやりたいこともないし、その後、就職先まで考える頭もない。何がやりたいかわからないのにやる気が出るはずもなく、大学なんてどこも一緒だろう程度にしか思えていないためまるで身が入らない。
まあ、それは言い訳と言えば言い訳だ。単に、それでも一流の大学に入ればそのあとが楽になるだろう、というわかりきっている現実から目を背けて、今やらなければいけないことから逃げているだけ。
言ってしまえばそうなのだが、しかしそれがわかっているからと言って勉強に身が入ることもない。
もちろん、なんの考えもないわけではないし、一応、自分の道は決めている。だが、現状それほど血眼になってまで勉強する必要がない。
今は徒然に、毎日を過ごしていくしかないのである。
「浅岡」
「はい」
だが、完全に授業を聞いていないわけではなかったため、先生に指されて無視する事態は避けることができた。危ない。実は半分寝かけてたなんてばれてないだろうな?
「この問題解けるか?」
「はい」
それは乗数、√を使った計算式だった。応用問題というお題目はついていたが、何のことはなくただ基本問題でやられていることをまんまその通りにやれば解ける程度のものだ。たぶんこうだろうな、と憶測を付けて計算した答えを言った。
「3√2です」
「正解だ。座ってよろしい」
答えが合っていて気分が少し良くなったのか、ほんの少し明るめの声で教師は言った。
ため息をつく。どうせ、半分くらいしか聞いてないんだ。授業を進めるか説教するかの二択の中で、教師は進める方を選んだのだろう。
そうなると、通常、クラス全員四十分の一という確率が、二十分の一というという確率まで跳ね上がる。一回の授業で五、六回指されるということを考えると、四時間に一回の確率で指されることになる。その問題を解けなかったのなら、もれなく残りの聞いていない生徒の仲間入りだ。先生のいらぬ反感を買うことになる。毎回正解をきちんと答えねばならず、無駄にプレッシャーがかかる環境の出来上がりというわけだ。
ため息しか出ない。まあ、今は四限目だ。今日はもう指されることはないだろ。きっと。
「やるじゃん。聞いてなかったでしょ」
後ろからひそひそと声がする。答えたいのは山々だが、席について早々に後ろを振り向くのはあまりよろしくないだろう。体ごと後ろを振り向かず、顔を少しだけ横に向けてその声に答えることにした。
「バレたか。まあ、日々の努力の賜物ってやつよ」
「日々の努力ねぇ……進学もしない奴が何言ってるんだか」
そう言って、ぶつぶつと言いながら赤本の問題へ取り掛かる親友。俺と違って進学希望のため、試験勉強に余念がない。そういう姿を見ると、ああ俺にはこういうことは無理だな絶対と思うのでひどく安心する。
次のページを開くよう教師が指示を出す。その指示に従っている者が何人ほどいるかは教師も特に期待してはいないようで、淡々と授業を進めていく。
後ろで勉強している男――三上純は、問題が難しいのか、ペンの蓋を口元に当てながらむむむむと呻いている。とてもじゃないが、授業のことを聞いている素振りはない。順当にいけば次に指されるのはこいつなのだが、随分余裕がある。大方、「分かりません」とはっきり言って乗り切ろうとしているのだろう。まあ、既にクリアしているレベルの問題なのかもしれないけれど。
純とは高校始まって以来、付き合いとしてはこのクラスの誰よりも長い。高校生活で初めて友人になったのがこいつだった。別に何かきっかけがあったかと言われるとそうでもない。なんとなく、「あ、こいつは俺と同じ属性なんだろうな?」と話したことが、きっかけと言えばきっかけなのかもしれない。
どちらかと言えばアウトドアではなくインドア、どちらかと言えばオタク趣味。もちろん、がっつりとはまったりしているわけでもないし、他の何よりもアニメを見ることを優先するとかそんなことは一切ない。それでもそれなりに楽しみにしているアニメは毎期ごと一個か二個はあるし、楽しみにしているゲームも半年に一個くらいあったりする。そんなレベルの、所謂にわか的なオタク度を互いに感じ取ったのか、何だかんだいって長くつるんでいる。このクラスの中では一番接している時間は長い。
身長は180もあるのに体格で言うとそれほどごつくもない。でかい体躯に似合わず、肌はやけに白く、鼻が大きいため顔の造詣がきれいとは言えない。よく言えば親しみやすい、悪く言えばイケメンではないといった感じ。だというのに、その物腰の柔らかさから親しみやすいのだろう。この前のバレンタインの時には俺の3倍チョコをもらっていた恨みは、俺が墓場まで持っていくと決めている。今さらそれに突っ込んでもみじめでしかない。
終了のチャイムが鳴る。いつものように次回の頭までにやっておく宿題を提示し、教師はこちらの起立を促すでもなく、そそくさと教室から出て行った。
思うに、今のこの状況は教師としても非常にやり辛いのではないかと思う。全員が全員、やる気がないわけではない。むしろ大半は進学を希望していて、学力という一点に絞ればむしろ非常にやる気がある。だというのに、自分の授業については特に聞かれないし、集中もされない。いっそのこと自習時間にしてしまえばどちらも傷を負わないのだが、仕事上そういったこともできないのだろう。だとすれば、当の教える立場としては非常にやりづらい環境この上ない。クラスの学力に合っていないと分かっていながらも予定している内容の授業をせねばならず、生徒側がやる気がないと責めることもできない。淡々と自分の仕事をするしかない。そこにやる意義があるのかと言われるとおそらくないのだろう。だからこそ、授業を聞かない生徒をあまり詰めることも出来ない。どちらも悪くはない。ただ、今がそういう時期なだけなのだ。
働くってそういうことなんだろうなぁ、と。高卒で職業に就こうとしている身からは考えてしまうわけで。そして考えなくてもよかったのに考えることで、これからの人生の道のりに辟易としてしまう。ああ、自分が今度はああいう立場になるんだと。教師にはなるつもりもないので、また違う苦労を味わうのだろうが。
教師が教室のドアを閉めたタイミングで、それまで静かだった教室が一転ざわつき始めた。
「疲れたー!」
「ねみー!」
「やっと昼だよあー腹減ったー!」
あちらこちらでいつも聞くセリフが聞こえる。まあ、昼になったときの感想なんていつも似たり寄ったりだ。特殊なセリフなんてあるわけもない。
「さ、飯食おうぜ優等生」
そう言って、三上純は俺の机に弁当を置いた。
「悪いね。今日は飯は買ってこいという指令を受けている身でして」
「あれ、そうなの。どこ買いに行く? コンビニ?」
「そうだなぁ。別に食べたいものがあるわけでもないし、コンビニにでもしようかなぁ。今日は少し眠いから、昼休みの間に寝たいし」
実際、今日は多少寝不足だ。昨日は母親が仕事だったから料理を作っていたし、見たいテレビ番組もあって夜更かししてしまった。残念ながら高校三年の五月。やりたいことができたといっても宿題の量が減るわけでもない。結果、いつもよりも2時間ほど遅く寝ることになった。ぶっちゃけ、午後の授業を居眠りせず持ちこたえれる気がしない。絶対寝る。しかも午後は古典に現代文。眠くなる要素目白押しだ。
幸いなことに今日は6限まで。日によっては7限まであるが、もしそうだったらそれこそ昼飯云々よりも前にまず寝ていただろう。寝不足でなくても辛いのに乗り切れるわけがない。
なので、出来ることなら学校の周囲の飲食店で優雅にご飯、と行きたいところだが、今日はそれはNGだ。さっさと買ってさっさと食べて、そしてさっさと寝るに限る。
この学校は私立で高い授業料をとるくせに食堂がない。なので、自然昼飯を買う人は、近くの店で食べることを選択する。コンビニ、牛丼、うどん、ラーメン、定食、パン屋、カレー屋、ハンバーガーという豪華なラインナップの中から、予算に応じて好きに選ぶことができる。まあ、大体ハンバーガーか牛丼なのだけど。たまにうどんか。ラーメンなんて一杯800円近くするものをそんな頻繁に食べれるほど学生は裕福ではないのである。いや、正直昼飯をケチって小遣いの足しにしている事もあるだろうけど。
しかしコンビニ……コンビニか。あまり気乗りがしない。そりゃあ食事に頓着がない、というわけではない。いつもなら出来れば美味しいのを食べたい。今日はあまりそういう気分でもないが、さすがに、コンビニ飯をこれから食べよう、という気合はさすがにどうしてもわかない。かといって、他の飯は殆どが店内で食事を強いられるから、寝る時間もないし――。
「いや、パンにしようかな」
「マルコに行くのか。いいなぁ。俺もたまには買ってこようかなぁ」
学生にマルコと呼ばれてるそのパン屋は、学校から自転車で3分ほど。学校の目と鼻の先にあるどこぞのテレビ局の前に出来た割と新しめのパン屋で、安い割に量も多く、味も良くて近所でも評判の店だ。
特にカレーパンが衣がサクサクで、下校時間にはまさに飛ぶ鳥を落とす勢いで売れていく。
コンビニのバラエティに富んだ食事と違い、パン一辺倒になってしまうが手早く食べたいのならむしろこっちの方が丁度いい。たぶん、コストパフォーマンスまで考えたらコンビニよりも安いし。
「今から行ってもさすがにカレーパンはないかなぁ」
「しょうがないだろ。あそこカレーパンも美味いけど、カレーパンだけじゃないし。照り焼きサンドとかも美味しかったから、そういうの狙いに行くよ。一個250円とかだし」
そうなのだ。
あそこのパン屋に行く人の殆どがカレーパン目当てに行っているが、実はそれ以外にも隠れた名商品が何個も存在する。照り焼きサンドもその一つ。大体の人が何故か買わないが、マックのハンバーガーよりもボリュームがあり、値段に対しての満足度……コスパも高い。圧倒的にコンビニよりは美味しいし安い。
「明太フランスとかも美味いよなぁ……よし、昼はそれにしよう」
そうと決めればすぐに行くべきだ。ここから自転車で3分とは言っても、自転車置き場までは歩いて3分。戻ってきたら12分は休みが削れている計算だ。昼休みは1時間あるとはいっても、そこからさらに食事をしていたら寝る時間は10分から15分程度。余分な時間はない。
「あ、マルコにいくの?浅岡君」
ふと、背後から声がした。聞きなれない声――いや、聞きなれないというよりは、話しかけなれてないという感じか。振り向くと、長瀬香月がこちらを見ていた。
「うん。そのつもりだけど」
多少声が裏返ってる気がする。くそ、自分の女性経験の少なさが憎い!
長瀬香月――実は、名前としてはずいぶん昔から知っている。表現するなら幼馴染。幼馴染と言っても、腐れ縁、といった方が正しい。たまたま小学校が同じで、たまたまそのまま公立中学に入り、そしてたまたまどちらも第一希望の高校に落ちてこの学校に入り、そしてたまたま文系の進学クラスの同じクラスになったというだけ。仲が良いかと言われればそこまで仲がいいわけではない。地域も近いからか色々お互い知ってはいるものの、お互いに踏み込んだ仲になることはなかった。
別に嫌いなわけではない。というか、出来るのであればお近づきになりたい。美人というほど美人ではないが、特に不細工なパーツがあるわけでもなく、スポーツをしていないので体は締まっているわけではないけれどそこまで太っているわけでもない。地味目の、言ってしまえばどこにでもいそうな普通のタイプ。だというのに実はクラスでも男子の隠れファンが多い。胸も結構あって正直体育のときは結構見られてる。っていうか、俺も見てる。髪はショートで、伸ばしたときはたまにツインテールになんかしたりするが、どちらかというと大人びた感じで実際、あんまり似合ってない。セミロングかなんかにしたらかなり似合うと思うのだが。本人曰く、最近にきびが増えてきたのが悩みらしい。勿論盗み聞きだけど。
性格もあけすけで、誰とでも仲良く出来るタイプ。テンションはいつも高めで、こいつを嫌う奴というのは余程性格が捻じ曲がってる人だけだろう。
そんな魅力的な女性だが、声をかける根性があるわけでもない。当人も男に興味があるわけでもないらしく、浮いた話はあまり聞かない。こいつの交友関係が問題というのもあるけれども。
「じゃあアンパンかアップルパイ買ってきて欲しいな」
「パシリかよ」
「いいじゃんケチ臭い。どうせ行くんでしょ? 最近育ち盛りで弁当だけじゃ足りないんだよねぇ」
その栄養、全部胸に行ってるんじゃない? と思ったが、ちょっと刺激が強い。まだでかくなってるのか、あれ。
ちょっと興奮してきた。
「分かったよ。一個で良いの?」
「うん。できればアップルパイがいいな。美味しいんだよね。あそこの」
「分かったよ。純はなんかいる?」
「ああ。俺はそうだな……カレーパンがあれば。なかったら金欠だからいいや」
「金欠なのにカレーパンは食べるのか」
「あそこのカレーパンは本当美味しいからな……ゲットできるならサラ金に手を出す覚悟だ」
ハッハッハと笑いながら言っているが純の目は若干笑ってない。
多分マジだ。
「分かったよ。じゃああることを祈っててくれ。行ってくる」
そう言って、財布と自転車の鍵を持って教室を後にした。幸運を祈る!という純の激励だか祈りなんだか分からない声が聞こえたが、軽く無視して戸を閉める。すぐ隣にある階段を降りて、下駄箱から靴を取り、駐輪場へ向かう。駐輪場は各人割り当てられた番号があるため、自分の自転車はどこだろう、なんて探す手間は要らない。
自転車を出しいつもの様に跨る。使い慣れたママチャリ。1万円と少しの安い自転車だが、少しのメンテだけで三年間何の故障もなく動いてくれている。パンクすら起こったことがない自慢の……は少し言いすぎだが、素敵な相棒だ。
俺と同じように買い物に行く生徒、外に食べに行く生徒が自転車でわらわらと出て行く様を見て、遅れをとるものかと自転車を漕ぐ。カレーパンのことを考えれば少しでも急いだほうがいい。
県立の運動場と学校の間の道路を一直線に走り、最初の通りを左折。南幹線と呼ばれる駅の線路に沿った大通りを少し行ったところに、10台以上車を停めれる大きな駐車場つきのパン屋がある。生徒だけではなく、向かいにある放送局の職員か、それとも近辺にある会社の職員か、スーツ姿の人もかなり多く、ものすごい混み様だ。イートインスペースの席には既に座る席がない。
店の前で自転車を止め、店に入るとパン屋独特の匂いが香ってきた。お腹が空いている時にこの匂いはきつい。今すぐにでも何か食べたい・・・!
店内は人がこれでもかというほど溢れているが、店員の誘導でスムーズに流れている。逆コの字になっている店内の通路の両脇に、各パンコーナーが所狭しと並んでいる。俺は店員からトレーとトングを受け取り、その列の最後尾に入る。最初に目に入ったのは入り口の最も近くにあったカレーパンのコーナーだったが、やはりというか。既に売り切れのようだった。次のパンが出来るのが十三時半と手書きの表示がされていた。心の中で合掌。成仏しろよ、純。
さて、頼まれたものは、と。カレーパンのコーナーの真向かい。店員に誘導されて通路を進む俺の左側にあった。甘い食べ物はどうもこちら側にすべて集められているらしい。アンパンから始まり、フランスパンに砂糖を塗りたくってカリッと焼いたもの、クリームパンにクリームメロンパン。果肉入りとか書いてあるがこれ本当に果肉はいってるのか? だとすると結構やばくない?
どれもこれもめっちゃ食べたい腹減った。
アンパンは残りが3個。安いしこれでいいかな、何て思いアンパンを一旦取ろうとした矢先、胸ポケットにしまった携帯が震えたのが分かった。トレーの上にトングを置いて、とりあえず携帯を見ると、純からLINEが入っていた。ロック画面に短く、『至急』とメッセージが表示されていた。
更に振動。同じく純からだった。『アップルパイ、アンパンどちらかを4個に変更のこと。差別なくどちらか4個が望ましい』とのことだ。
4個。ああ。そういうことかと察して、アップルパイのほうを見る。どうやらこの時間帯にアップルパイは不人気なようで、ざっと見ても6個以上は余っている。なら、こちらを4個買えばいいか。俺はトングを使ってアップルパイを四つトレーの上に載せた。俺の目当ての照り焼きサンドは、やはり誰も買っていないようで在庫が10個ほどあった。ううむ。何故こんなに美味いものがまるで売れないのか。世の中間違ってる。
俺は照り焼きサンドと、近くにあった明太フランスを取ってレジに進んだ。
「お会計、1580円になりまーす」
たまに見る店員。茶髪のツインテールで身長150センチくらいの誰が見ても可愛いというに何の躊躇もいらない看板店員が、ニコニコしながら俺の購入金額を告げた。
(アップルパイ高ぇ!)
レシートを見たら280円とか書いてある。照り焼きサンドより高くない? これ。
まあ、1000円ばかしは後ですぐ戻ってくる。財布の中にある数少ない漱石を二枚出すと、店員はおつりとレシートを渡してくれた。良かった。せっかく長瀬から話しかけてくれたイベントだ。お金が足りないなんてことがなくて本当に良かった。パシリだとは分かっているが、それでも少し嬉しかったりする。
自転車のかごにパンをいれ、自転車に跨る。マルコは盛況らしく、俺と入れ違いにもどんどん客が入っていく。いいことだ。あと一年もこの学校にいないが、それでも在学中に美味しいご飯が食べれる場所が盛況というのは喜ばしいことだ。潰れる心配はないし。
近くの県立運動場ではセリーグ、パリーグの交流戦があるらしく、所々に広告が置かれていた。本来、野球はセリーグ、パリーグと二つのリーグに分かれており、二つのリーグはそれぞれで優劣を競うため、自分たちが所属していないリーグのチームと戦うことはない。ただ、交流戦だけは別でリーグを跨いで試合をする。野球ファンからしてみれば重要なイベントらしい。純あたりは野球が結構好きなのでそういえば、交流戦がどうのとかいってた気がする。今月末にもうやるのか。
そんなことを考えているうちに学校に着いた。かごからパンを取り出し、足早に教室へと向かう。
眠い、という当初の目的は、長瀬と少し喋れるかもしれないという期待が上書きしてくれた。全く喋らないわけではないが、それこそ今回のように用がない限りそうは喋らない相手だ。少なくとも、こちらから喋りかける仲ではない。これでワンチャン、なんてことを期待するくらいには、女には飢えているのでしょうがない。
教室の扉を開けて、自分の席を見る。
俺の席はなかった。
「・・・・はぁ」
いや、予想はしてた。予想はしてたよ?
俺の席は女が占拠していた。
どころか、どうやら純もその被害にあったようで、部屋の隅っこで弁当を広げ、俺を見つけてやぁ、と掌をこちらに向けている。なんだか少し疲れている。まあ、それはそうだろうけど。
長瀬の席の周りは三人の女性が集まっていた。
三人、ということは俺と純以外でもう一人犠牲になったのだろう。合掌せざるをえない。
「あら。ようやっと買ってきてくれたのね。お疲れ様。ありがとう」
その内の一人がこちらをみつけ、話しかけてきた。
この進学校にあって茶髪に染めることを許されている(というわけではないが、成績が良すぎて教師も何も言えない)水瀬香月。身長は170センチという女子にしては高身長で、肌はどこぞの絵本に出るくらい白く透き通っている。噂によればどこぞの女性誌の読者モデルに選ばれたこともあるんだとか。髪は腰まで届くほどに長く、黙っていればそれこそ、肉食系の男は黙っていないだろう圧倒的な容姿。内密に行われた女生徒人気投票三年連続ナンバーワン。少なくとも、俺はこの女より見た目が綺麗な生徒を他に見たことがない。ザ・スレンダー美人といった感じ。
「でも少し遅いわね。私はともかく、長瀬さんを待たせるのは感心しないわね……貴方みたいな人の一分と、長瀬さんの一分はそれこそ、天と地ほどの差があるのだから」
「パシらせた挙句凄い言い草だな……」
だが性格が悪い。
特に男に性格が悪い。人当たりが良い長瀬とは偉い違いだ。
っていうかレズなんじゃないかって噂が立ってるほどの女好きだ。
「まあまあ、せっかく買ってきてくれたのに悪いよぉ。ねえ、浅岡さん」
それを止めるのは軽く天パが入ったショートヘアーの小柄な女生徒――山内香月だ。
見るからに優しそうな目元に、泣きボクロ標準装備という素敵ガール。声も所謂アニメ声で、水瀬の後に話しかけてもらえるとそれこそ、もう一生話してたい気分になる。
それだけでも十分魅力的なのに、この女生徒にはもう一つ素晴らしい魅力がある。
「いいのよ山内さん、こんな男に、貴方の胸の魅力を見せてあげる必要なんてないわ」
「む、胸の話はしてないよ!?」
山内香月――山内さんは、実はこの学校で一番の巨乳。
でかいとかいうレベルじゃない。もう存在感が半端ない。
H……いや、Iはあるんじゃないかと男子の間では密かに言われている。真偽の程は分からないけど。
『この学校に二つの山あり』とは、別の学校の女生徒が彼女を見て呟いた言葉だそうだ。
当然、何度も体育の時にはガン見してる。
「大きいだけが全てじゃないもん……」
「そうね。でもこういう男にはそれが分からないのよ。気を悪くしたなら謝るわ。上木さん」
そして自分とは全然関係ないところから精神攻撃をくらい、一人へこんでいる、どうみても中学生にしか見えない童顔の女生徒は、上木香月。
髪はショートに切りそろえられ、身長は圧倒的に小さく、聞くところによると140センチ程しかないらしい。ただ、おそらく顔の造形で言ったらこの中でもぴか一だ。人形のようなくりくりの大きな瞳に、ほくろ一つない整った顔。人形のよう、とは彼女のための言葉だろう。
男かと思えるほどのぺったんこの胸も、彼女の魅力の一つだ。勿論、俺は胸の大きさで人の評価を変えるほど醜い人間ではない。おっぱいいず正義。正義に大も小もないのである。すべてが素晴らしいに決まっている。
「さて、そんなことよりさ。アップルパイは? ねえ。あった?」
そんな取り巻きのやり取りなどまるで関係ないかというように、こちらに向かってニコニコ笑顔で流せは問いかけてきた。
同じ名前だから。そういう繋がりで集まったこの四人は、周囲から畏敬と侮蔑と一部の真実と、共通する名前の一字を込めてこう呼ばれていた。
『静岡蜜月カルテット』
これが幼馴染であり、モテるはずの長瀬に浮ついた話が一切ない最大の理由だ。
「本当に、長瀬さんは今日も綺麗ですねぇ」
とろんとした目で山内は呟いた。
「そうね……今日も本当に美しいわ」
大事なものを見るかのように、水瀬は呟いた。
「そう、ですね。本当に、綺麗です」
憧れるような視線で、上木は言った。
「アハハハ、ありがとう。いやー、昨日徹夜しちゃったからクマが酷くてねー。そこんとこケアしてないのは女としてどうかと思うんだけど、あんまり変じゃないなら良かったよー!」
その視線の意味を知っているのか知らないのか、笑顔で答える長瀬。
この様を見て、チャンスが俺にもあるんじゃないかと思えるほど、俺は楽天家ではなかった。
「さあ、さっさとアップルパイ食べて午後に備えようぜ!」
びしっ!とガッツポーズをとる長瀬に、三人とも違う表情で……でもどこか熱の入った視線を伴いながら、うんうんと頷いた。
隅っこで弁当を広げている純は、こちらに向かって手を合わせている。
要するに、彼はこう言いたいのだろう。
『ご愁傷様』
ああ、全く。その通りだよ。少しでも期待して戻ってきた自分を殴りたい。ああ、この三人が来る前に渡せればよかったんだけどなぁ――
そんなこっちの苦労を知ってか知らずか、長瀬は俺に金を渡し、俺から袋をひったくった。いい匂いのするアップルパイに興奮しながら、ありがとうと簡単に告げて集団の中へ戻っていった。
残された俺は、自分のパンを持って純のところに向かい、床に座った。
何も言わず、純は無言でうんうんと頷いて、俺の肩を叩いてくれた。
高校生活とは、多くの人間の青春の時代なのだという。
だがその生活もあと一年もなく終わってしまう。
「俺の青春って、こういうので終わっちゃうのかな……」
「何も言うな……浅岡……今は静かに、そのパンに舌鼓を打とうではないか……」
「人生って……つまんねぇな……」
「気持ちは分かる……分かるぞ……だって長瀬だもんな……そりゃ、俺も頼まれごとでもした日には、ちょっと嬉しくなっちゃうよ……」
「モテないって……辛いな……」
「……言うな……友よ……」
そんな感じで謎な友情を深めつつ、今日も一日が過ぎ去っていく。
『静岡蜜月カルテット』。その呼び名を本人たちがどう自覚しているか分からない。
だがその事実は本人以外の人間は事実を共有している。
少なくとも、長瀬香月は分からない。
ただ少なくとも、その周りの残りの香月―-―水瀬、山内、上木の三人は、傍から見ていればすぐわかる。
あれはレズだ。
間違いない。
「……俺も、青春、送りたかったなぁ……」
ふと、遠くの空を見て呟いた。
俺もかわいい彼女と登下校したりきゃっきゃうふふしたかったなぁ……。でも、俺の周りの環境なんてこんなもんだよなぁ。仲がいい女子がいるわけでもないし。
唯一、幼馴染と言えるフラグ立ちまくりの魅力的な女性はレズに囲まれてるし。
もうなんか、青春っていうか死春?っていうか?
「……友よ、大学に入学が決まったら、夜の街に繰り出そうじゃないか」
「酒でも飲むのかよ」
「たまには羽目を外すのもいいだろう?」
「お前な、俺の志望知ってるだろ?」
「ああ、そうか。警察官なら酒を飲むわけにもいかないな」
「当たり前だろ。決まったとしても、そんなことで事情聴取でもされた日には取り消しになりかねない」
「ったく、進学しない道も大変だよな」
そう言って、純は箸を進めた。
照り焼きサンドを一口。ふんわりとした触感が心地いい。そのあとに来るジューシーな鶏肉の感触が、舌と脳みそを強烈に満足させているのがわかる。
ああ、なんて満足。パン屋にしてよかった。コンビニ飯では味わえない満足感だ。
もう一度、窓から見える空を見る。こんなにもいい天気。だというのに、何故か自分の心には靄がかかっているようだ。
警察官になろうと思ったのは、実は随分も前のことだ。高校に入り、二年になったあたりにはもう決めていたと思う。何で、と言われたら、『なんとなく』としか答えられない。
明確な出会いがあったわけでもない。重要な思いがあったわけでもない。ハチャメチャな事件があったわけでも、何か約束があったわけでもない。
だというのに、心がその方向に決まっていた。
その漠然とした思いに、自分でも戸惑っている。
果たして自分はどこに向かうんだろうか。
自然と、頬が緩んだ。なんだ。まるで青春みたいだ。
「どうした?」
「いや、別に。なんか、望まない形で青春しそうだなって」
「なんだそれ。変な奴だな」
「本当だな」
自分でもよくわからない不安感にかられながら、それでも時間だけは経っていくのだから大変だ。
ふと、横目で4人の集団を見る。迷いなんてまるで見えない。本当に楽しそうにしている。
あいつらの未来も、いやかなり闇に包まれていると思うのだが、しかしそれでもああも楽しそうにできるのは、何かコツがあるのだろうか?
「何見てんだよ」
「いや、別に。楽しそうだなって」
「そりゃそうだろうけどさ。まあ、関わらないようにしようぜ。良いことないだろ」
「まあ、その通りだよな」
自分でも、頭おかしいとは、思うけれど。
今になって思うと、この時のこの好奇心がすべての始まり。
後悔をするわけではない。それでも、それでも、もっと何かが出来たのではないかと。
そんな慙愧が、いつまでたっても離れない事件の、言ってしまえばこれがきっかけだった。