1.ユーリ
黑い影が陛下へと襲いかかる。
場所は王宮内、庭園へと続く廊下。陛下と王妃殿下は、間近に控えた花見の宴について語らいながら歩いておられた。突如として、黒い影が壁の中から飛び出した。
誰も反応できなかった。私を除いて。
「献身!」私は、騎士にしか使えない守護のスキルを発動する。
黒い影が陛下に触れる直前、私はスキルをもって介入した。
次の瞬間、黒い影と陛下の身体が重なる。
「献身」のスキルが、その瞬間に陛下が受けた呪いを、私へと移した。
黒い影は呪いを放つと、そのまま消えた。
直後、私は呪いがもたらすダメージを感じた。痛みが身体の奥底から外側へ、四肢へと向かって拡散していく。まるで全身を粉々に砕かれ、掻き回されているかのようだ。
あまりの激痛に、私はその場に膝をついた。
これは致死の呪いだ。
女神の加護が私を守っているため、即死は免れた。しかし、加護が尽きたその瞬間に、私は呪いに殺されるだろう。
「ユーリが呪いに憑かれた!」
「すぐに祭司を呼べ!」
同僚たちが慌てふためき、指示が飛び交う。
「必要ない!」
顔を上げると、扇の向こう側から私を見下ろす王妃殿下の姿が目に入った。
「祭司を呼ぶ必要はない。それは血の呪いであり、祭司であっても解くことはできない」
王妃殿下は冷徹な眼差しで私を見ている。まるで泥まみれの野良犬を見るかのように。
「息があるうちに、陛下に影響のない場所へ行って、死を待つがよい。宿主が死ぬと周囲の者へと乗り移る呪いもある。陛下をその危険にさらすわけにはいかない」
私は陛下に視線を送ったが、陛下は怯えたように王妃殿下の顔を伺った。
「我が妃の言う通りにせよ! お前の犠牲は決して忘れない!」
「陛下の身代わりとなったお前は英雄となり、お前の家族も恩賞を授かるであろう」
扇に隠された王妃殿下の顔は、一瞬、歪んだように見えた。
すべては決した。
「御意のままに」
私は膝をついたまま、主である国王陛下に対し、人生で最後となる礼を捧げた。
◇◇◇
王都の外、馬車で半日ほどの距離に、「死の深淵」と呼ばれる洞窟がある。
その付近に生命の気配はなく、獣も近づこうとはしない。
伝承によれば、死の深淵の底には、かつて国を滅ぼした魔王が棲んでいるという。
私に同行したのは、近衛隊の隊長殿である。
王妃殿下の寵愛を受ける彼は、重要な任務のみを任される。
「まだ歩けるのか? お前を担いで中まで運んでやらなきゃならねえのか?」
「申し訳ありません。足が……」
「全く、騎士団の連中は厄介ごとばかり起こしやがって……。おい、剣を抜け。この男をさらに奥へと連れて行くぞ」
私と隊長殿、そして数名の近衛兵は、死の深淵のさらに奥へと進んだ。
洞窟の奥から入り口に向かって、不吉な黒い蔦が伸びている。それはまるで魔物の手だ。自らの巨大な身体を外へと引きずり出そうとしているかのようだ。あるいは、人間を奥底へと引きずり込もうとしているのか。
洞窟の中は冷たく湿っていると予想していたが、奥へ進むほどに気温は上がり、空気は乾燥していった。一歩踏み出すたびに、砂塵が舞い上がる。
どれほど歩いたか。隊長殿は足を止めた。
「よし、ここまででいいだろう」
「ありがとうございます……」
最期の道行に付き添ってくれたことへの感謝を伝えようとした瞬間、隊長が突如として高笑いを上げた。
松明の不安定な明かりに照らされた隊長の顔は、歪んでいた。それは先に、扇越しに私を見ていた王妃殿下と同じ顔であった。
「バカかお前は! まだ何も分かっていないのか?」
隊長がなぜそう言うのか、私は理解できない。
近衛兵たちも、くすくすと忍び笑いを漏らす。
「これを見ろ! ようやく理解できるだろうよ!」
隊長は部下から大きな袋を受け取った。袋の底を掴み、ひっくり返した。
球状の物体が、転がり出た。
血生臭い匂いが立ち込める。その球状の物体は草と布切れに包まれており、凝固した血がすべてを固着させている。
状況は飲み込めなかったが、その笑い声には聞き覚えがあった。
幼い頃から幾度となく耳にしてきた、虐げる者の笑い声だ。
村人たちはよく私と弟を囲み、大笑いし、叫びながら、殴り、蹴りつけた。
「親もいねえクズが!」
「空気を汚すんじゃねえよ、ゴミ虫が!」
それは、人を蹂躙しても報いを受けることはない、と確信している時に人間が放つ笑い声であった。
弱者を虐げるときの笑い声だ。
呪いの痛みもあってか、心臓を掴むような悪寒に襲われた私は、その球状の物体の前に膝をついた。
少しずつ、草と布切れを剥ぎ取っていく。
そこに、弟の顔があった。
「陛下が、約束してくださったはず……」私の声は、震えていた。
「バカめ。クズとの約束を、いちいち守る必要なんてねえだろう?」
笑い声が、鳴り止まない。
笑い声が遠ざかっていく。松明の光と共に。
私は暗闇の中で、冷たい頭部を抱いた。一人きりで、死が訪れるのを待ちながら。
自分の皮膚が裂ける音を聞いた。
自分の血が体の外で流れているのを感じる。
血の呪いが、私を死へと引きずり込もうとしている。
私はここで死ぬ。
悔しい。
痛い。憎い。
これらすべてを引き起こした者は、もっとも無惨な形で死ぬべきだ。
これらすべてを引き起こした者は、呪われるべきだ。
私は魂の底から、彼らを呪う。
◇◇◇
暗闇の中、何かが近づいてくる気配がした。
その何かの体が岩壁を擦り、轟音を立てる。重い足取りが地面を揺さぶり、まるで私の膝を直接叩きつけるかのようだ。
気温はさらに上がった。熱風が私を襲う。
私は必死に目を見開こうとした。
手を持ち上げる力すらなく、目を覆う血を拭うこともできない。そのせいか、私の目に映った「それ」は、鮮やかな血赤色をしていた。
暗闇の中に、無数の輝く瞳があった。それはまるで王冠の宝石のように煌びやかであった。
瞳の光が、鎌のような鋭い爪と、滑らかな甲殻を照らし出す。それは将軍の鎧のように輝いていた。
すべてが血赤色であった。鮮紅の薔薇の花々が洞窟を埋め尽くしたようだった。
恐怖、そしてその恐怖と同じほど強烈な美しさ。私はまるで花見の宴に身を置いているように、ただ感嘆するしかなかった。
「汝、死の臭いがする」
「それ」は人間の言葉で喋った。その声は、まるで谷間を吹き抜ける風の咆哮のようだ。
「汝、献身の匂いがする。汝、献身のスキルをもって、他者から血の呪いを引き受けたのか?」
これが魔王の力なのか。すべてを見透かされているように感じた。
言葉を発するたびに胸と喉が激しく痛んだが、私は必死に声を絞り出した。
「私は献身のスキルで、……っ、国王の呪いを肩代わりした。……っ、だが国王は私を裏切った」
私は花に向かって、胸の内をさらけ出した。
「彼らは、私の弟を殺した……」
「汝、憎いか? 復讐を希むか?」
花は私の本心を問いかけてくる。
「……憎い! だが、私はもうすぐ死ぬ! 悔しいんだ!」
「汝が生き延びる道が、一つある。
わらわも汝と同じく、血の呪いを受けておる。だが、わらわの呪いは汝とは逆、すなわち『不死』の呪いなのじゃ。
『献身』のスキルをもって、わらわの身にある『不死』の呪いを汝へと移すがよい。
二つの呪いは相殺される。そうすれば汝は生き長らえ、自らの手で復讐を果たすことができるであろう」
私は絶句した。
「献身」のスキルは、主を守るためのスキルである。命を懸けて、忠誠を誓った者を守るためのスキルなのだ。
自らの主に対してしか使えない。
「不死」の呪いを得るということは、私が魔王に忠誠を誓わねばならないことを意味する。
「いかがか。考える時間はもう残されてはおらぬ」
喉をせり上がった血が口の端から溢れ、弟の顔に滴り落ちた。
私は決意した。この人生で二度目となる、騎士の誓いを立てる。
「ここに誓います。あなたに忠誠を捧げることを」
両膝をつき、亡骸を抱えたままの姿で誓いを立てるなど、実に見苦しいものである。
「汝の真心を認めよう。汝を、わらわの騎士として認める」
私の肩に置かれたのは剣ではなく、鋭い爪であった。
「命を懸けてあなたをお守りします。我が──」
我が、何だ? 王か? 主か?
もう、誰に対してもその呼称を口にしたくはない。
「──私の、お姫様」
嘲弄するように、私はその呼称を口にした。
花は、笑ったようだ。
「献身!」
騎士と姫の物語は、ここから始まる。
これは復讐の物語であり、忠誠と愛の物語でもある。
私と、私の花の物語だ。




