第2節:第一教場 長野の山岳救助実習(07:30~09:00)
吐く息が瞬時に白濁し、耳たぶの感覚が微かに消えかけていく。 学校から目と鼻の先にあるとはいえ、そこは手加減の一切ない本物の長野の雪山だった。防護スーツを身につける前の段階として、訓練生たちは本格的な捜索隊のハードシェル・マウンテンウェアに身を包み、膝まで深く埋まる雪上の急斜面に立っている。頭上からは荒れ狂う吹雪が吹き荒れ、自然の圧倒的な重力と凍てつく冷気が、生身の肉体を容赦なく削り取っていく。
「おい、全員前を向け!」
雪面をアイゼンで激しく踏み鳴らしながら、山岳・過酷環境専門の鬼教官・ドウジョウが訓練生たちの前に立ちはだかった。その鋭い眼光は、極寒の風をも切り裂くような殺気を孕んでいる。
「ニュースの映像を観て『可哀想だ』などと思ったか! 実際の山岳遭難現場はな、甘い感傷など一秒で凍り付く死地だ! 一歩足を踏み誤れば、救う側もそのまま雪山の肥やしとなる!」
怒号が凍てつく大気に突き刺さる。これから始まるのは、雪山における要救助者捜索および搬送訓練だ。 シムラはアイゼンをしっかりと雪面に突き立て、呼吸を整える。周囲には、同じく身を固くするスズキやサトウ、そしてヤマダたちの姿があった。訓練生たちは4人1組の班を組み、要救助者に見立てた80キロの重りを載せた救助用タンカを、この凍結した急斜面で引き上げる過酷な任務に挑むことになっていた。
「――第1班、動けッ!」
ドウジョウの号令とともに、訓練が開始される。 シムラたちは息を合わせ、ハーネスに繋がれたロープを引き絞る。だが、足元は一瞬たりとも油断の許さないアイスバーンと深い新雪の混合だ。極度の疲労と酸欠状態の中、わずかなバランスの崩れが命取りになる。
「ぐっ……!」
隣でタンカの端を支えていたヤマダが、突如として足を滑らせた。 体勢を立て直そうともがくが、80キロの重みの反動に耐えきれず、ヤマダは大きくバランスを崩す。次の瞬間、ガシャアアッという重い金属音とともに、救助用タンカが傾き、雪面に激突してひっくり返った。
「そこまでだッ!」
雷鳴のようなドウジョウの怒号が、雪山全体を揺らした。
「――全班、その場で伏せろ! 腕立ての姿勢のまま肘を雪面に固定し、一ミリたりとも体を動かすな! 仲間を救えなかった連帯の重みを、その全身の筋肉と骨の髄で刻み込めッ!」
ヤマダの失態の余波は、一班にとどまらなかった。ドウジョウの命令により、シムラたちを含む全訓練生の班が「全員同罪の連帯責任」として、凍てつく雪面上でのプランク姿勢(腕立て伏せの状態で肘とつま先だけで体を支え、雪面に密着させるペナルティー)を強制された。 容赦なく吹き付ける吹雪の中、溶けかけた氷水が防寒着の隙間から容赦なく染み込んでくる。隣の班で仲間が苦しんでいようが、視線を上げることはおろか、助け合うことは一切禁止。完全に孤立した状態で、ただ冷気と自重による筋肉の痙攣に耐え続ける地獄のような時間が課された。
数分が数時間にも感じられる極限の静的拷問の中、シムラは酸欠と全身の震えに襲われていた。腕の筋肉が限界を迎え、崩れかけた姿勢を見せたその時、頭上からドウジョウの容赦ない叱責が飛んだ。
「おい、42番・シムラ! 貴様もその程度の足腰か! 命を運ぶ気概がないなら、今すぐその荷物を置いて消え失せろ!」
強烈な怒号が浴びせられる中、シムラは教官を睨み返す余裕すらなかった。ただ震える両手で固く凍った雪面を爪先までぐっと食い込ませ、一言も発せず、全身の力でその重圧に耐え抜く。歯を食いしばりすぎて奥歯がきしむ音だけが、耳を打つ風の音にかき消されていった。
「――起き上がれッ!」
容赦ない宣告とともに、地獄のペナルティーが解除される。 冷徹な指示で立たされた訓練生たちの前で、ドウジョウは転倒の原因を作ったヤマダに歩み寄った。
「命の重みを雪面に落とした貴様に、医療を扱う資格はない。――ヤマダ、今すぐ教場を出ていけ! 二度と戻るな、実家にでも這い返れ!」
「教官、待っ……!」
弁解の余地すら与えず、ヤマダはその場でIDカードを没収され、雪の中に放り出されるように教官たちへと引きずり出されていく。仲間が目の前で容赦なく切り捨てられる残酷な光景に、シムラたちは凍りつき、息を呑むことすら忘れた。
凍てつく吹雪の中、ドウジョウは冷徹な視線を残された生徒たちへと向けた。
「お前たちはどうだ? ぬるい実家に帰りたいか? 泣き言を言うなら、今すぐあの落伍者の後に続け。帰りたければそう言え!」
仲間の脱落という生々しい絶望が、訓練生たちの逃げ場を完全に断ち切る。 残された時間はまだ1時間以上もある。この過酷な雪山で、明日をも知れない恐怖と極寒が自分をいつ襲うか分からないという絶望感が、彼らの精神を確実に蝕んでいった。
極度の寒さと恐怖で歯がガチガチと鳴る中、シムらは震える声を必死に押し殺し、それぞれの胸の内で、あるいは絞り出すような声でそれに応じた。
「……いいえ」
「帰りたくありません……!」
その誓いを皮切りに、教場の空気はさらに狂気を帯びたものへと変わっていった。
「甘えは許さん、動けッ!」
というドウジョウの終わりなき怒号が吹雪を切り裂き、酸欠と疲労の極みに達した斜面では、恐怖に駆られた他の学生たちが次々と足元を狂わせていった。悲鳴ともつかない声をあげて崩れ落ちる者、重みに耐えかねてタンカを放り出し、ヤマダと同様にIDカードを剥ぎ取られて雪のなかに消えていく脱落者が後を絶たない。
だが、そんな地獄のような淘汰の嵐の中、シムラは歯をくいしばり、ただの一度も倒れることなく耐え抜いていた。寒さで感覚を失った指先でロープを握りしめ、スズキやサトウら生き残ったわずかな仲間たちと共に、重く冷たいタンカを引き揚げ続ける。
教官の容赦ない罵声が飛び交い、周囲で仲間が次々と切り捨てられていく中、シムらは生きてこの教場にしがみつくためだけに、狂気じみた執念で雪上の斜面を這い上がっていくしかなかった。 凍てつくその声はすぐに激しい吹雪にかき消されたが、シムらはアイゼンをもう一度雪面に深く突き立て、終わりの見えない次の訓練へと再び足を踏み出すのだった。




