第5節:ジュネーブの深部
スイス・ジュネーブ。レマン湖の青く澄み切った水面を静かに見下ろす湖畔地区に、AGB PharmaTechのグローバル統合統括ビルは佇んでいた。湖面からは象徴的な大噴水が高く白く泡立ち、遠景には雪を戴いたアルプスの山並みが荘厳な稜線を描くその景観に溶け込むように、巨大なコンプレックスがそびえ立っている。全面強化ガラスと漆黒の特殊合金、そして流線型を描く滑らかな美しい曲面と幾何学的な高層棟が一体となったその建造物は、屋上にヘリポートを備え、緑豊かな庭園と円形の美しいロータリーを抱く圧倒的なメガストラクチャーであった。
元々は軍需・医薬品のグローバル大企業であったディスカバリー社のグローバル本社ビルであり、2035年の買収・統合後にAGBとAIIBSOの最先端技術を組み込んで大規模に改造されたものである。
2040年代における人類の知性と善意の至高の象徴として、世界中の人々に仰がれているその場所は、かつて世界125カ国を繋ぎながらも崩壊した旧サイバーサイジング社の遺産と、ディスカバリー社のハードウェア基盤が完全に融合した中枢であった。
その最上層に位置するグローバル・オペレーションセンターは、レマン湖とアルプスを一望する全面ガラス張りの広大なドーム空間であり、AGB PharmaTechの圧倒的な技術力と洗練された美意識を結集させた未来的な大ホールであった。
中央に浮遊する巨大ホログラムモニターには、全地球の気候データや月面都市の環境数値にとどまらず、AGB関連の全6事業にわたる機密データ、全世界の施設運用状況、そして全国四拠点の厳しい淘汰を勝ち抜き、世界各地の最前線へと散っていった135名の国際総合新鋭救命救助部隊(IALRT/アイアラート)精鋭隊員たちの生体信号など、会議の進行や議題に応じて世界中のあらゆる情報が変幻自在に映し出されていた――。
広大なオペレーションセンターの中央には、AGB PharmaTechが世界に誇る6大事業のトップ陣――第3階層に位置する世界統括責任者たちが一堂に会していた。
国際総合新鋭救命救助部隊(IALRT/アイアラート)の世界全組織を束ね、レマン湖の拠点から全地球のレスキュー部隊を指揮する冷徹な元軍医、ヴァルター・フォン・シュタイン世界総監督。
ディスカバリー社出身で強化外骨格や防衛兵器と生体の融合プロトコルを推進する防衛・特殊技術部門トップのグスタフ・アイゼンベルク。
スマートシティや月面ドームの完全管理システムを設計した未来都市インフラ部門トップのヘレン・ヴァンドールン。
量子データセンターと全人類バイタルログ解析AIを管轄するIT・データソリューション部門トップのアーロン・チェン。
『AGB精神ファミリークリニック』を世界展開し微量薬理制御を統括する製薬・精神医療部門トップのディートリヒ・ホフマン。
そしてアニメ『きらめきパルスくん』や各種専門養成校を通じた精神刷り込み・早期選別を担当する教育・メディア部門トップのソフィア・コルネロ。
さらに、北米、欧州、中東、環太平洋など、世界各地に広がる国際総合新鋭救命救助部隊(IALRT/アイアラート)拠点群の管轄トップを代表してプレゼンテーションを行うべく、日本管轄の選考・事業代表陣が壇上に進み出ていた。
国際総合新鋭救命救助部隊(IALRT/アイアラート)全統括トップであるヴァルターの直下に位置する国際総合新鋭救命救助部隊(IALRT/アイアラート)日本管轄最高責任者・タツガミ・テルオをはじめ、本選考試験の絶対的最高責任者を担当していたサイジョウ・ミキヒサ、丁寧な「です・ます」調の陰に冷徹な計算を秘めた人事評価室長ミズシマ、救命システム解析部長タカギ、現場第一部隊長サクマ。
彼らは表向きの厳格な救命選考を完遂した体を取りながら、裏では「A級適合者の検定・データ集積」という真の目的を完全に理解した上で、実績とデータを報告していた。
会場の音声インプラントとホログラム翻訳システムを通じて、各人の発言はリアルタイムで多言語へ変換され、滑らかな音声となって響き渡る。
「……以上が、極東エリアにおける最新の救護体制の刷新と、人道支援における活動実績である」
国際総合新鋭救命救助部隊(IALRT/アイアラート)日本管轄最高責任者・タツガミ・テルオが、低く重厚な声で先陣を切った。
「激甚化する気候変動に対し、我が国際総合新鋭救命救助部隊(IALRT/アイアラート)日本管轄は即応力を従来比で一八〇パーセントへ向上させた。地球規模の環境保全と持続可能な社会の実現に向け、我が部隊は常に最前線で命を繋ぎ止める防波堤であり続ける」
続いて、全試験統括のサイジョウ・ミキヒサが巨大ホログラムのグラフを示しながら一歩前に出た。
「今回、日本管轄の養成学校から輩出された今期の卒業生一三五名をはじめ、世界各地の拠点から配属された隊員たちの練度は極めて高い。過酷なスクイーズやシステムエラーを冷静な計算によって撃破した彼らの存在は、2040年代における人間の知性と倫理の到達点と言える」
救命システム解析部長タカギが端末を操作し、各期生のバイタルシグナルと処理スペックの数値データをホログラム上に展開する。
「データ処理速度、システムエラー時のリカバリー率は過去最高数値を記録した。彼ら一人一人が、現場における動く最適化計算機として十二分に機能している」
最後に、人事評価室長ミズシマが丁寧な一礼とともにマイクへ向き直った。
「人事評価室からも補足させていただきます。候補生たちの心理面接におきましては、自己の限界や過ちを冷徹に自覚しつつも、組織のシステムと調和できる極めて高度な精神的適性を確認いたしました。彼らは間違いなく、我が社の掲げる人道貢献の理念を体現する至高の人材でございます」
パチパチと、会場を包む優雅で誇らしげな拍手。表向きの会議は、人類の知性と善意、そして国際的なSDGs推進の成果を讃え合う輝かしい空間として幕を閉じた。
やがて、表向きの報告のみを担う一般の地域責任者や現場の事務スタッフたちが次々と退室していく。重厚なセキュリティ隔壁が静かに閉じられ、巨大ホログラムが漆黒の極秘モードへと切り替わると、広大なオペレーションセンターの雰囲気は一変した。
そこは、AGB PharmaTechが誇る世界の心臓部――厳重なセキュリティに守られた上層部と計画の核心を担う者のみが足を踏み入れられる、圧巻の360度円形大ホールであった。表向きの国際人道支援や国際協調を司ると同時に、裏では世界中の権力と意志を統制する、いわば「PharmaTech版国連」とも呼ぶべき表裏双方の象徴的な空間である。一番外側の円環を描く壁面に沿っては、AGBが政府、軍、各種インフラ、事業を通じて完全に掌握・加盟させている世界各国の国旗が壮大に、アンドロイド管理区や月面都市の紋章とともにずらりと掲げられている。
そこに残されたのは、計画の真相を完全に共有する最上層の面々――地下最深部に隔離されたマックを除く、全世界の絶対的統治ネットワークの全貌であった。
円形の会場中央にある円卓に陣取るのは、CEO直属である第2階層の6大幹部たちだ。
工学・電子機器部門――支配の設計者として、AIアーキテクチャとアンドロイド軍の統制を司るカイザー・シュミット。
グローバル戦略統制部門責任者、神経インターフェースやDIS機体開発を主導するヴィクトール・ノヴァク。
生体機械プロトコル研究開発部門責任者、データセキュリティと善の弱点を監視するエリカ・ワイズ世界秩序監視局責任者。
そして化学薬品部門――悪の錬金術師として、「アルティメット」の最終合成を統括するリアム・コール。
薬物・ウイルス製造ユニット責任者、ウイルス工学で「アルティメットウイルス」の変異株設計を担うアレックス・リベラ。
麻薬植物栽培ユニット責任者、精神プロトコルや麻薬投与プロトコルを指導するハンス・ミュラー精神プロトコル技術者チーム統括。
その中央円卓を取り囲むように、360度すり鉢状に広がる階段状フロアや後方の空間を埋め尽くしていたのは、計り知れない数の幹部たちであった。第3階層の世界統括責任者や各部門の副代表、世界各地の極秘拠点責任者のみならず、表裏の社会秩序を支えつつこの計画の核心にも深く関与する国連(UN)幹部やその関連機関の要職者たち、各国の正規軍やCIAなどの諜報機関の窓口、NASAをはじめとする世界各国の宇宙機関・防衛宇宙軍の幹部、外部幹部、特級セキュリティ要員、AI戦略監査官に至るまで――極秘国家機密計画の核心を担う「真の実行者たち」が、表の会議中は要人や傍聴者として同席し、一般スタッフが去った今、マックただ一人を除いてこの大ホールへ一堂に集結していたのである。
旧サイバーサイジング社時代の125カ国というネットワークを遥かに超え、今や全地球のあらゆる国家、アンドロイド管理区、そして月面都市にまで事業と拠点を果てしなく広げたAGB PharmaTech。 だが、この広大な360度大ホールを埋め尽くしている者たちですら、世界各地の巨大組織のパイプを繋ぐ『ほんの一握りの最高代表者』に過ぎない。 国際総合新鋭救命救助部隊(IALRT)はもちろんのこと、製薬、都市インフラ、IT、防衛、教育・メディアといった6大事業の各トップ(No.1)の下には、世界各地のエリアを束ねる無数の『No.2』が存在し、さらにその下には各地域の地域人事責任者、サービス統括者、現場統括責任者がピラミッド状に果てしなく連なっている。 彼ら管理・統括層に至る幹部陣こそが、表向きの人道支援や社会インフラの裏に隠された『全人類ポストヒューマニティー計画』の全貌を共有する極秘の共犯者たちであった。各事業の末端で働く一般社員や現場の隊員たちには徹底した情報隔離が敷かれ、「純粋な善意と大義」で踊らされているのに対し、このピラミッドの上層・中枢を占める無数の幹部たちは、冷酷な淘汰の意志を完全に理解した上で指揮を執っていたのである。 物理的にこの大ホールへ入り切るはずもないそれら世界中・月面拠点の裏幹部たちは、専用の暗号化リモート回線を通じ、画面越しに固唾をのんでこのジュネーブの中枢を見つめていた。全地球・全宇宙規模に根を張るこの巨大機構の全容は、もはやこの大ホールですら収めきれないほど巨大化していたのである――。
円形ホールの最頂層、すり鉢状の最高所に配されたVIPバルコニー領域には、表向きのプレゼンテーションの段階から終始、冷徹な眼光で眼下を見下ろしていた最高意思決定機関――第1階層の面々が鎮座していた。かつてディスカバリー社のCEOであり、現在はAGBの経営権を握るジョウマン・ディスカーとシズエ・ディスカー。そしてマックの兄であるジェイムズ・アダソンである。
一般関係者が完全に去り、重々しい静寂が満ちたタイミングを見計らい、ジョウマン・ディスカーが最頂層からマイクに重々しく口を開いた。周囲に冷ややかな笑みが漏れる。
「表の茶番は終わったな。ヴァルター、そして日本の選考陣よ。全事業で長期間にわたり進められている進化スクリーニング……国際総合新鋭救命救助部隊(IALRT/アイアラート)の現場における『A級生体素体』の途中経過を聞こうか」
国際総合新鋭救命救助部隊(IALRT/アイアラート)全統括のヴァルター・フォン・シュタインが、鋭い眼光を崩さずに頷いた。
「報告しよう。国際総合新鋭救命救助部隊(IALRT/アイアラート)の現場を隠れ蓑にした『A級生体素体』の選別実験は、現在も全事業と同期しながら長期進行中だ。決して完了ではない。世界各地に広がる多数の養成学校から期を重ねて排出される全候補者に対し、不適合者への投与による急性拒絶反応や秘密の漏洩を防ぐため、真に適合する者を見極める慎重なスクリーニングを重ねている。その過程において、今期の日本管轄一三五名をはじめとする極めて興味深いサンプル群が抽出され続けている。サイジョウ、詳細を」
全試験統括のサイジョウ・ミキヒサが冷徹な表情でスクリーンの表示を裏のデータモードへと切り替えた。
「地獄の選考とエラーインジェクションを耐え抜いている各期の候補者たちは、単なる優秀な救命士ではない。もともとは疼痛、神経機能、精神状態、覚醒、集中といった人間の神経系への薬理作用を研究する過程で生まれた人工麻薬由来のワクチン――『アルティメット』の強烈な薬理作用と、その投与に伴って発現する人工ウイルスである『アルティメットウイルス』の細胞改変に耐えうる潜在能力を秘めた、最高品質の『A級適合サンプル候補』だ」
「実に結構です」
人事評価室長ミズシマが薄く微笑み、言葉を継ぐ。「彼らは『自分の意志と努力で黒スカーフを勝ち取り、命を救っている』と純粋に信じ切っております。この無知と誇りこそが、最高の生体データを無自覚に提供し続ける最高の触媒となるのですから」
「ふん、現場の叩き上げどもは使い勝手が良い」
現場第一部隊長サクマが鼻で笑う。
「熱血指導を行えば行うほど、候補生たちの神経系は極限まで磨かれ、データとしての精度が上がる」 すると、サイジョウがホログラム上の「シムラ」の生体ログと、日本で行われた最終面接試験の録画データを拡大表示させた。
「そして……現在集められている多様なA級候補の中でも、我々が最も強く着目している個体が一つある。『シムラ・レン』だ」
その名に、円卓の幹部たちがわずかに眉を動かした。
サイジョウが画面に映る面接のログを示しながら、シムラに目をつけた理由を淡々と述べ始める。
「第3次最終面接において、我々はシムラに対し『自らの判断遅れで患者を死なせた際、どう次へ踏み出すか』という極限の心理質問を叩きつけた。シムラはこう即答したのだ――『その罪を生涯背負い続け、自らの判断遅れを徹底解剖し、二度と同種のエラーを起こさない仕組みと手技として身体に刻み込む。亡くなった命への唯一の償いは、その痛みを抱えたまま次の現場で一人でも多くの命を救い続けることだ』とな」
サイジョウの言葉を受け、人事評価室長ミズシマが薄く笑みを深めた。
「圧倒的な過酷環境下でも神経系や心肺機能の破綻が一切起きない脅威的な生体耐性……それ以上に恐ろしいのは、彼のこの歪なまでの『誠実さ』と『他者を救いたい』という狂信的とも言える倫理的意志です」
すると、円卓に座る化学薬品部門のアレックス・リベラが、自身の端末からウイルスの分子構造ホログラムを展開しながら、冷酷な笑みを浮かべて引き継いだ。
「化学薬品部門の視点から補足しよう。マックはじめ我々が開発した人工の進化ベクター――アルティメットウイルスは、感染拡大性が極めて高いプロメテウス株(タイプα)、神経系へ強く作用し共感や倫理、自我の境界を崩壊させるレギオン株(タイプβ)、身体や臓器への負荷を急激に増大させるヘカトンケイル株(タイプγ)、精神支配を極端に固定化させるウロボロス株(タイプδ)の4つの変異株からなり、体内で変異を遂げる過程で激しい感情変異や自我の境界崩壊、過酷な毒性と副作用をもたらす。
『アルティメットウイルス』は人から人へも強力に飛沫・空気感染する。強靭な耐性を持つA級適合者同士の間では、互いに生体データを同期・変異させ合って新人類への進化を加速させる媒介となる。だが、耐性のない非適合者がA級適合者からウイルスを吐き出され感染すれば、激しい副作用と毒性に耐えきれず、身体が壊滅して死に至る……つまり、A級適合者が現場や社会で活動すること自体が、周囲の非適合者を淘汰していく自動的な『選別兵器』として機能しているのだ」
続いて、薬物・ウイルス製造ユニット責任者のリアム・コールが低く歪んだ声で応じる。
「だが、シムラをはじめとするA級適合者のうち、異常なまでに強固な『倫理的アンカー(心理的固定軸)』を持つ個体は、アルティメットの薬理作用と、ウイルスの及ぼす強烈な副作用(強い覚醒、情動変化、集中力変化、神経同期に加え、幻覚・幻聴、攻撃性の増大、高熱、悪寒、強い倦怠感、吐き気、嘔吐、血圧上昇、呼吸状態の悪化、食欲消失、現実認識の変化といった重篤な拒絶症状)を、その強靭な物理的耐性と純粋な倫理観で相殺・中和することができる。激しい副作用を乗り越えて正気を保ったまま神経同期と生体細胞の変異に適応する奇跡的な可能性を秘めているのだ」
精神プロトコル技術者チーム統括のハンス・ミュラーが眼鏡の奥の眼光を光らせ、結論を告げた。
「……まさにシムラこそ、全人類ポストヒューマニティー計画を完成させ、選び抜かれたA級適合者だけによる新人類社会を築くための、最高峰のキーパーツと言えましょう」
「ほう……進化の激痛すら、その生ぬるい『善意』と『罪悪感』で抑え込むというのか。面接の会話データが見事に伏線として活きているな」
ジョウマン・ディスカーが興味深そうに目を細めた。
静江・ディスカーが扇を弄びながら、優雅かつ冷酷に呟いた。
「実に面白いわね。では、他の事業部門での長期選別実験の状況はどうなっているの? 我々の『全人類ポストヒューマニティー計画』は、国際総合新鋭救命救助部隊(IALRT/アイアラート)だけで完結するものではないわ」
その問いを受け、製薬・精神医療部門の世界統括責任者であるディートリヒ・ホフマンが冷ややかに手を挙げた。
「製薬・精神医療部門でも多角的なスクリーニングと並行し、一般層への浸透基盤を構築中です」ディートリヒ・ホフマンは淡々とした口調で報告を続ける。
「全世界で展開する『AGB精神ファミリークリニック』のカウンセリングや日常的な処方薬、さらには日々のサプリメントや清涼飲料水、精神安定剤の流通網を通じ、微量の改変因子やプロトコル成分を日常的に混入・循環させています。その他のメンタルケアサービスや臨床ログの多角解析も含め、社会の様々な層から精神適合者を特定しつつ、一般層への日常的・微量投与を着実に進めている段階にあります」
続いて、未来都市インフラ部門のトップであるヘレン・ヴァンドールンが巨大なホログラム都市図を操作しながら引き継いだ。
「NASAや各国宇宙機関との連携のもと、月面ドームでも同様の微量成分散布と適合スクリーニングを進めています。スマートシティや月面完全管理ドームの居住者に対し、インフラAIを介した24時間の脳波・バイタルモニタリングを実施する一方、都市の気調システム――空気清浄や循環インフラを介してナノカプセル化した微量成分を空気中に極微量散布しています。閉鎖ドーム環境の中で生活する市民たちが、意識することなく自然と体内に改変因子を取り込むシステムを構築しつつ、適合候補のリスト化を進めております」
さらに、IT・データソリューション部門トップのアーロン・チェンと防衛・特殊技術部門トップのグスタフ・アイゼンベルクが並み立って言葉を重ねた。
「ITおよび防衛部門でも選別と環境整備は多角的に行われています。全人類バイタルログ解析ネットワークやVR/AR端末の利用ログから、システムとダイレクトに意識接続できる個体を常時抽出しています」
「同時に」とグスタフ・アイゼンベルクが屈強な腕を組んで低い声で頷く。
「レスキューや防衛装備である強靱外骨格(DISシリーズ)の着用運用試験、その他各種特殊兵器のフィールドテストを通じ、機械と生体が不可逆的に融合・順応できる重装適応個体のデータを収集・蓄積中だ」
最後に、教育・メディア部門トップのソフィア・コルネロが端末を叩いて可愛らしいアニメの画面を提示した。
「教育・メディア部門でも、次世代の礎を着実に築いております」 ソフィアは微笑みをたたえながら説明する。 「国民的アニメ『きらめきパルスくん』の放送時の周音波演出や、AGB傘下の各種専門養成校、早期教育プログラムを動員しています。幼少期から感情の境界を薄れさせ、システムへの高い同調率を持つ若い適合素地を多角的に育成・発見し、将来のA級候補として早くもデータベースへ組み込んでいる最中です」
ソフィアは余裕に満ちた笑みを深め、広大なホログラムモニター全体を指し示した。
「――もっとも、今報告された手法など、我が社の6大事業で展開する無数のサービスや取り組みの中の『ほんの一部(氷山の一角)』に過ぎません。製薬・医療、防衛、都市インフラ、IT、メディア、環境に至るまで、物流網や食品サプライチェーン、環境浄化プラント、さらには世界中のエンタメや日常インフラのあらゆる隙間に仕込んだ膨大なスクリーニング網を通じて、あらゆる角度から適合者を集めております。人類の逃げ場はすでに完全に塞がれているのです」
それぞれの部門トップによる報告に対し、第2階層の6大幹部たちが専門的知見から次々と冷徹な相槌を打つ。
「AIアーキテクチャおよびアンドロイド軍との神経同期プロトコルは完璧だ」
カイザー・シュミットが言い放ち、
「DISプロトタイプ002号機における生体インターフェースの適合データも十分に得られている」
ヴィクトール・ノヴァクが頷く。
「世界秩序監視局のデータセキュリティにより、外部への情報漏洩の危険性はゼロであると断言しよう」
エリカ・ワイズが冷酷に網を誇示した
「くっくっ……『アルティメット』の最終合成と長期的投薬準備は万全だ」
リアム・コールが邪悪に口角を上げる。
「アダソン兄弟自らの直接指揮のもと完成した麻薬植物群の成分精製、およびアルティメットウイルスの変異株群の製造ラインも完全に稼働している」
アレックス・リベラが誇り、
「各クリニックの予防接種プログラムおよび隊員たちの装備へ組み込む投与プロトコルのインストールも済んでおります。すべては両CEOの設計された開発指揮通りです」
ハンス・ミュラーが締めくくった。
ディスカバリー社の統合前後から長い年月を共にしてきたこれらの幹部や世界中にいる大勢の幹部たちにとって、アダソン兄弟が背負う狂気と壮絶な過去はもはや共通の信仰であり、この計画の絶対的な正当性を裏付ける礎であった。
「見事な連携だな、マック」
マックの兄、ジェイムズ・アダソンが、幹部たちの報告に満足げな笑みを浮かべた後、壁面の巨大高解像度モニターへ向かって語りかけた。
世界中の一般市民やパブリックメディア、そしてAGBのグローバルPRシステムに投影されてきたのは、常にサイバーサイジング社時代の当時を思わせる若がりし頃の紺色のスーツを隙なく着こなした端正な若きCEOの姿であり、あるいはその後に創立されたAGB神経化学・製薬研究部門の現場で白い白衣を纏い、人道支援の最前線に立っていた知的で親しみやすい「かつてのマック・アダソン」の残像であった。
世界中の人々が見ているその親しみやすいCEO像は、地下最深部に横たわる実体の脳波・神経通信から直接出力される思考ログをトリガーとし、過去の生体データと高精細3Dアーカイブを基にAIがリアルタイムレンダリングを行い、高度なホログラフィック・フェイシャルキャプチャによって各種メディアやホログラムモニターへ送出され続けている「パブリックPRプロトコル――世界を完全制御するための完璧な擬態」に過ぎない。
いま、一般スタッフが退出した大ホールの大スクリーンに映し出された真の実相――専用の暗号化リモート回線と脳波・神経通信を介して、地下最深部「生命維持統括室」の映像が全画面に拡大された。
多重気密隔壁の奥深く、24時間365日二度と外へ出ることができない物理的な密室。窓のないその部屋は分厚い隔壁によって外界から完全に切り離され、室温は常時マイナス15度前後に保たれていた。壁を走る冷却配管は白い霜に覆われ、部屋の四隅に聳え立つ漆黒のタワーファンや最新型サーキュレーター、さらには天井やマックの車椅子自体にまでギッシリと埋め込まれた大小数えきれない冷却ファン群が、耳を聾するほどの「ブォォォン……ッ」という重厚な低音の機械駆動音と絶え間ない風切り音を室内全体に轟かせていた。向かい合うファンや巡回扇風機からは、風速30メートルに及ぶ荒々しい冷却暴風が狂ったように吹き荒れ、マックの身体へ絶え間なく叩きつけられている。
この暴風と爆音で満たされた極寒の密室でありながら、なぜ上層部の大ホールにはノイズで掻き消されることなくクリアな映像と音声が届いているのか。そこにはAGB PharmaTechが誇る極限環境工学の技術革新が存在していた。
生命維持統括室の壁面や車椅子アームに配置された特殊カメラ群には、表面にナノスケールの自己解氷ヒーターグリッドと撥水・撥油性ポリマー層が焼き付けられていた。毎秒30メートルの強力冷風によって飛散するCryo-Gelの微小ペーストやダイヤモンドダスト状の霜がレンズに付着した瞬間に、超高周波マイクロ振動と局所的熱伝導によって一分の一秒で蒸発・弾き飛ばされるため、レンズが凍結したりホワイトアウトを起こすことは物理的にあり得ない。さらに、撮影された映像信号は即座に光伝送され、AIベースの光学透過フィルターを介して空気中の乱反射する氷晶ノイズを完全にデジタル消去してレンダリングされるため、大ホールの巨大モニターには「極寒の吹雪の渦の中に鎮座するマックの実像」が、不気味なほど鮮明な高解像度映像として結像されていた。
一方、音響面においても緻密なシステムが組まれていた。室内を揺らす毎秒30メートルの暴風圧と「ブォォォン……ッ」というファン群の凄まじい低音ノイズは、通常の空間マイクであれば一瞬で音割れを起こし、音響を破壊してしまう。しかし、マックの発する音声は、重装の呼吸マスク『Cryo-Mask Σ』内部のチタンフレームに仕込まれた骨伝導・喉元高感度ピックアップマイクが直に拾い上げている。さらに車椅子のDSPコンバーターが風圧ノイズを逆位相キャンセリング処理するため、彼の合成音声は大ホールのスピーカーから驚くほどクリアに響き渡るのだ。だが、そのクリアな音声の背景には、AGBの最高幹部たちに「マックがいま置かれている環境の圧倒的過酷さと絶対的な冷徹さ」を身体感覚として刷り込むため、統括室内のファン群が放つ「ブォォォン……ッ」という重低音の機械駆動音と風切り音の低周波成分が、意図的に一定の音量レベルで重々しくミックスされて共鳴していた。防音隔壁を隔てた遥か上層の大ホールにまで、まるで地鳴りのように響くその低音ノイズこそ、マック・アダソンという絶対者の命を繋ぎ止める生の鼓動に他ならなかった。
その吹雪と風圧の中心で、床面のアンカーによって微動だにせず固定された超ハイテク車椅子の上に、全裸で全身に青白く光る極低温のCryo-Gelを硬化・塗布させて第二の皮膚(外装甲)として纏い、肉体深部に埋め込まれた無数のワイヤーやチューブに生かされている総白髪の異形――かつて鮮やかだった金髪を失い、自らをPROTO-TYPE 0(ゼロメキラ)として実験台に変えたCEOマック・アダソンが横たわっていた。
長年にわたる過酷な自己実験、劇薬投与による代謝異常、そして-15℃の強冷風に晒され続けたことによる頭皮血管の微小循環不全は、彼の毛母細胞からメラニン生成能力を根こそぎ奪い去っていた。かつて若き日を彩った鮮やかな金髪は完全に生気を失い、氷のように冷たく褪せた白髪へと変質している。さらに、新陳代謝が極限までストップ(仮死固定)したことで毛周期そのものが停止しており、新しい髪が生えてくることも、古い髪が抜け落ちることも二度とない。
マックにとって、髪を洗ったり整えたりする「身だしなみ」という人間的観念はすでに完全に捨て去られたものだった。洗髪やブラッシングといった行為は、頭部に埋め込まれた神経インターフェースの端子やセンサー、傷口を塞ぐCryo-Gelの密閉保護膜を乱す不必要なノイズでしかなかったからである。前髪や側頭部の毛束は不規則に乱れたまま頭皮や額、耳周りへペタリと張り付いている。室温-15℃の極寒と強力な殺菌・防腐成分を含むCryo-Gel、そして絶え間ない強冷風が引き起こす永久結露が混ざり合うことで、彼の髪は「化学薬品と氷の結晶によって無菌的に固められた物質の塊」と化していた。ジェルや凍りついた皮脂、微細な霜が混ざり合い、樹脂とガラスのように冷たくパリパリ・ネチャネチャとした異質な光沢を放つ束状の固形物として頭皮に固定されている。その惨状は、彼が「時間の流れ」や「日常の人間性」から完全に切断されたことを生々しく物語っていた。
体内で暴走する致命的な高熱を外側から打ち消すため、彼の全身を覆っているのがCryo-Gelだった。
青白く光る極低温の特殊冷却ジェル。普通の人間の肌であれば一瞬で重度の低温熱傷や凍傷を起こすその極低温こそが、絶えず過剰な熱を発し続けるマックの生命維持の絶対条件だった。直後の高粘度ペースト状態からマックの高熱と極寒に反応して数秒で硬化し、風速30メートルの荒々しい暴風にも決して吹き飛ばされない「柔剛を兼ね備えた高分子の冷却皮膜(外装甲)」へと変質する。生体適合性ポリマーが皮膚の微細な凹凸や傷跡に入り込んで強力にアンカーし、風圧から肌を守ると同時に、顔面を守る『Cryo-Mask Σ』や瞳を守る『Cryo-Vision Σ』と同様に、室温マイナス十五度の極寒と風速30メートルの暴風、そして室内を舞い散る鋭利な霜や氷晶の直撃から彼の青白く痩せ細った素肌を直接保護する物理的防壁(外骨格)でもあった。もしこの硬質なジェル皮膜がなければ、彼の皮膚は狂った風圧と氷粒によって一瞬で乾燥壊死を起こし、裂け散ってしまう。高熱を冷却しながら、同時に外側の物理的破壊からも肉体を守る――それこそが、マックが纏う「第二の皮膚」のもう一つの必然性だった。
だが、どれほど強固なジェル皮膜であっても、狂った風圧と氷晶の打撃、内側からの異常な代謝熱に晒され続ければ徐々に微小な亀裂や乾燥剥離を起こすため、二週間に一度、古いジェルをすべて剥ぎ取って新しく塗り直す過酷なメンテナンス(Type-Σ Scheduled Maintenance)を止めるわけにはいかなかった。絶えず超低温のジェルに直接さらされ続ける彼の皮膚は、慢性的な低温熱傷の痛みを常に受けている。さらに、長年にわたる自己実験の果てに、彼の肉体はジェルによる火傷の痕だけでなく、無数の注射痕や度重なる穿刺による生々しい傷跡で埋め尽くされていた。
さらにマックが座る超ハイテク車椅子には、姿勢保持、冷却、生体監視、薬液供給、神経インターフェース、通信、情報処理、非常電源、そしてCEO業務用コンピューターに至るまでが統合されていた。彼はもはや車椅子から自力で立つことができない。無数のワイヤーやチューブは単に表面に這わせているだけでなく、肉体の深部にまで直接埋め込まれており、そこから繋ぐために執り行われたのは、肉体の限界を試すようなあまりにも過酷で絶望的な難手術の連続だったからである。仮にマスクやワイヤー、チューブを外せば、一瞬たりとも生き延びることはできず、彼の肉体は即座に崩壊し死に至る。マックにとって車椅子は移動補助器具ではなく、自分の身体の外側に存在する巨大な人工臓器であり、第二の身体そのものだった。
顔の下半面を覆うのは、元々は極地医療用の気密保護シールドであり、彼の痩せこけた顔面ラインに合わせてカスタム改造された透明な高機能密閉マスク「AGB Cryo-Respirator 'Cryo-Mask Σ'(クライオ・マスク シグマ)」である。硬質なチタンフレームの中央には頑丈な透明特殊樹脂のシールドが嵌め込まれており、荒々しい風速30メートルの暴風の直撃による顔面組織の凍結壊死を防ぐ物理的防壁であると同時に、その透明な窓の向こう側では、マックの痩せこけた口元やわずかな息の白み、そして内部で絶えず循環する冷気の気流が生々しく透けて見えていた。このマスクは外部の狂った風圧に対抗して、計算された温度の酸素や神経麻痺用ガス、肺胞保護フッ素キャリアガスを最適な高圧で気管へと直接送り届ける役割を果たしていた。
床面のアンカーで微動だにせず固定された車椅子の中で、彼は自らの瞳に装着されたAGB Ocular-Protect Sub-System "Cryo-Vision Σ"(AGB 眼球保護サブシステム 『クライオ・ビジョン シグマ』)を通して世界を捉えていた。
それは単なる脱着式のコンタクトなどではない。元々はAGBの軍事部門が、極地戦闘やバイオハザード下の極限戦場で兵士を「恐怖や動揺を知らない完璧な兵器」へと変貌させるために開発していた軍事用生体インプラントだった。戦場での脱落や敵による強奪を物理的に防ぐため、一度装着すれば二度と取り外すことのできない不可逆の仕様であり、装着者の脳から「赤」などの暖色を排除して白黒のモノクローム視界に変異させることで、血の赤や戦場の恐怖といった人間的ノイズを極限まで削ぎ落とす冷徹な兵器システムであった。72時間に及ぶ危険な外科手術によって生体角膜を切削・固定され、視神経の根元や脳幹へ直接チタン・光ファイバー線が打ち込まれたそのデバイスを、マックは自らの意思で受け入れ、PROTO-TYPE 0としての己の瞳へと組み込んだのである。
-15℃の極低温と暴風環境下でなければ起動しない環境応答型インターロックを備えたその瞳は、第三者の目から見れば、視神経や生体回路といった内部の機械的機構が剥き出しで見えているわけではない。表面を覆う多層光学コーティングや防凍バイオポリマー、そして解氷グリッドが外部の強烈な光や室内の青白い照明を複雑に乱反射させるため、外からは生気を完全に失い、白濁した灰色やスモーキーな白色に濁った「まるで凍りついたガラス玉や、硬質な半透明のカラーコンタクト(あるいは義眼)」にしか見えなかった。しかし、その不気味な白濁ガラスの奥深くでは、脳演算と同期した青白いバイオ・ルミネセンスの光がぼんやりと怪しく揺らめいており、対峙する者に「感情のない冷徹な機械のレンズと向き合っている」という底知れぬ恐怖と威圧感を与えていた。
このデバイスは、マックにとって生存と企業統治の両面において絶対になくてはならない不可欠な臓器であった。風速30メートルの暴風によって部屋中に舞い散る霜や氷晶、透明なCryo-Mask Σの排気バルブから微量に漏れ出る高圧の薬効ガス、さらには全身や顔周りに塗布されて硬化・剥離を繰り返す極低温のCryo-Gelがメンテナンス時や作業時に眼球へと飛び散り、流れ込むのを完全に物理ブロックして失命や組織壊死を絶対的に防ぐための「最強のアイ・シールド」として機能している。さらに、室内の激しい吹雪やダイヤモンドダストによるホワイトアウトを光学フィルターで物理的に透過・数値化し、完全な視認性を確保する超高度な「全天候型光学センサー」でもあった。
加えて、このデバイスには「涙が出ないようにする機能(涙液分泌の抑制・完全ブロック機能)」が備わっている。その理由は、過酷な生体環境とデバイスの構造上、絶対的な必然性があったからである。第一に、-15℃の極低温下および毎秒30メートルの強冷風に晒された瞬間に眼球表面の水分(涙)が一瞬で凍結し、無数の微細な氷の結晶へと変わって角膜を内側から傷つけるのを防ぐため。第二に、レンズ表面のナノサイズ解氷グリッドや生体電子回路に水分が流れ込み、電気回路のショートや導電率の異常(システム誤作動・機能停止)を引き起こすのを防ぐため。第三に、マスクの隙間から漏れ出る高圧の薬効ガスやCryo-Gelの微粒子と涙が混ざり合って生じる化学的失明や角膜溶解のリスクを遮断するため。感情や痛みの苦痛によって生じる生理的な涙やまばたきを物理的・電気的にブロックし、不要な生体ノイズを強制的に排除していた。
さらには、自らの意志と歪んだ精神状態のもと、72時間に及ぶ危険な不可逆手術を経てこのデバイスを装着・接続したその瞬間から、彼の視界からは温かみのある色彩感覚が完全に奪われていた。感情や生体ノイズを削ぎ落とし、AGBの全システムを脳で直接統御して思考を最適化するため、彼は暖色系を自ら進んで物理的にカット(フィルトレーション)させたのである。その結果、彼の視界のベースは、まるで「昔のモノクロ(白黒)テレビの映像」そのものへと変貌していた。大ホールのモニター越しに映るジョウマンやシズエ、幹部たちの姿も、どれほど鮮やかな服を着ていようとも、マックの目にはすべて昭和の白黒テレビ画面のような「黒・灰色・白の濃淡階調」としてしか映らない。温かい色彩や生の表情という人間的な温もりは一切消え去り、世界は命のぬくもりが根除去された「氷の檻」のように冷え切っていた。
しかし、その白黒テレビのような無機質な背景のすぐ表面(網膜直近)には、自身のバイタル数値や相手の心拍数、ストレス値、決裁ウィンドウが、冴え冴えとした青白や半透明の緑のネオン光のグラフィックとしてクッキリと浮き上がり、重畳投影されていた。この「昔のモノクロテレビのような冷たい映像背景」と「青白く冷たく発光するハイテクデータ」のギャップこそが、彼が自ら選び取ったPROTO-TYPE 0としての絶対的な視覚世界だった。
目を閉じても、彼に暗闇が訪れることはなかった。まぶたを閉じても網膜のすぐ裏側でバイタルデータや警告表示の残像、青白い光のノイズ(光学的幻覚)がチラつき続ける。そのため、彼には一般的な「夜」や「リラックスする時間」が存在しない。自力で「眠る」「休む」ことが不可能なため、意識を休めるには医療用麻酔ガスや神経麻痺薬の投与、あるいは二週間に一度のCryo-Gel全身交換時の強制的なシステム停止・仮死状態に頼るしかなかった。
脳幹へ常時過負荷をかけ続けるインプラントの代償として、目の前にいる人間を見ても、そこに肌の温もりや表情のニュアンスは一切映し出されない。視界に広がるのはサーモグラフィのような冷たい階調と、心拍数・発汗量・嘘の判定アルゴリズムを示す数値データの羅列だけだった。他者が「自分と同じ血の通った人間」ではなく、「心拍数が何bpmで動いている肉体の標本」や「制御しやすいデータオブジェクト」としてしか見えないその絶望的な離人症の中で、彼の会話や意思決定はどこまでも冷酷・機械的になっていく。相手が傷ついても、彼にはその感情の機微を色彩や表情として受け取る手段がなかった。
かつての記憶に対するわずかな郷愁や悲哀を感じたとしても、涙腺が完全に物理・電気ブロックされているため、涙が一滴も流れることはない。まばたきすら抑制されているため、感情のアウトプット(フィードバック)が肉体から完全に遮断され、感情は逃場を失って体内の冷たい思考の奥底へと固着・沈殿していく。日光の暖かさや鮮やかな花の色といった人間の幸福を象徴するものが永遠に失われていることが、彼を「自分は世界から完全に切り離された異形だ」という圧倒的な孤立感へ縛り付け続けていた。
しかしマックは、これらの副作用や色彩の喪失を「生身の人間としての死」であると同時に、強烈な苦痛(地獄)をも伴うものでありながらも、「思考を極限まで加速させ、絶対的な支配者(PROTO-TYPE 0)であり続けるために支払った必要な代償」として半ば肯定的に受け止めていた。常に頭の奥で響く神経性のノイズや眼精疲労を、彼は「思考を純粋な計算だけに研ぎ澄ませるクリア・ステート」として無理やり脳の奥底へ押し込め、冷徹な計算の海へと沈んでいく。昔の白黒テレビのような冷たい映像と青白いデータの海の中で、彼だけが静かに計算を続けながら、全システムをミリ秒単位で統御し、相手の微小な動揺すらも瞬時に看破していたのである。
いま、この極秘会議の最中においても、マックの『Cryo-Vision Σ』の網膜上には、自らの身体状態を示すバイタル数値と、大ホールに集う幹部たちの動向、そして世界統治の機密ログがアイスブルーの高精細レイヤーとして多重展開されていた。
[SYSTEM: AGB PROTO-TYPE 0 CORE MONITOR]
CORE TEMP: 20.4℃ / SURFACE TEMP: -11.8℃
CRYO-GEL CONDUCTIVITY: 94.2% [STABLE]
RESPIRATOR PRESS: 104.2 kPa (O2/FLUOROCARBON MIX)
FAN SPEED: 30.2 m/s [WIND-FORCE: OVERRIDE]
VISUAL MODE: SMOKY MONOCHROME / HUD OVERLAY: ACTIVE
[TARGET ANALYSIS: GENEVA GLOBAL OPERATION CENTER]
\- JOMAN DISKER: HR 62 bpm / STRESS: 12% [STABLE]
\- SHIZUE DISKER: HR 68 bpm / STRESS: 15% [SATISFIED]
\- JAMES ADDASON: HR 58 bpm / SYNCHRONIZATION: 99.8%
\- SAMPLE "SHIMURA REN": A-GRADE APTITUDE 98.6% [ALCR-04 RESISTANCE: OPTIMAL]
\- ALL SECTORS SCREENING STATUS:
[SECTOR 1: IT/AI] 100% ONLINE / BINDING: 88.4%
[SECTOR 2: IALRT/MEDICAL] ACTIVE / A-CLASS IDENTIFIED: 135 (JAPAN)
[SECTOR 3: PHARMA/CLINIC] ULT-DOSE: 0.04mg/L (GLOBAL CIRCULATION)
[SECTOR 4: DEFENSE/DIS] FRAME-NEURAL SYNC: 96.1%
[SECTOR 5: INFRA/MOON] MOON DOMES AIR-NANO SPREAD: ACTIVE
[SECTOR 6: EDUCATION/MEDIA] PULSE-KUN FREQ-SWEEP: OPTIMAL
マックの白黒の視界の中、大スクリーンの向こうで発言する幹部たちの顔の横には、それぞれの心拍数やストレス値を示す数値データがリアルタイムで追従していた。さらには、画面に拡大された「シムラ・レン」の生体ログの上に、アルティメットウイルスの4つの変異株(プロメテウス、レギオン、ヘカトンケイル、ウロボロス)に対する細胞改変適合率「98.6%」という鮮烈な数値が浮かび上がる。彼にとって世界とは、温かい血の通った人間たちのドラマではなく、ミリ秒単位で計算され、間もなく完全に書き換えられるべき「データの集合体」に過ぎなかった。
『……素晴らしい成果だ』
ハイテク車椅子の神経インターフェースと、呼吸マスク『Cryo-Mask Σ』内部の骨伝導マイクを介して、直接出力されたマックの合成音声が、部屋全体の空気を絶対的な凍気で満たした。彼の網膜UIが怪しく明滅する。
『旧人類の脆弱な肉体と、環境を破壊し争いを生む不確定な感情……ホモ・サピエンスという種のままでは、地球規模の環境崩壊や絶滅を免れ得ない。シムラをはじめ全事業の多角的な選別ルートによって集められた適合者たちは、己の純粋な意志で命を救い、あるいは日常生活を送っていると信じたまま、我が社の全事業にまたがる長期的進化実験の、最も美しい歯車として動き回っている』
マックの冷徹な宣告を受け、兄であるジェイムズ・アダソンが腕を組み、かつてファウンダーカップル体制の限界と、エリック・サーティーンによる自爆衝突テロ(両親の暗殺)、そしてサイバーサイジング・ショックの絶望を乗り越えて彼らがたどり着いた思想を宿しながら、周囲の幹部たちを静かに見回しつつ、冷徹な笑みを浮かべて語り出す。
「表向きは『環境悪化に伴う新種パンデミックの予防接種』や『国際強化ワクチン』を装っている。だが、新型コロナやインフルエンザをはるかに凌駕する極めて強力な空気・飛沫伝播力を持つアルティメットウイルスに対し、通常のマスクやソーシャルディスタンス、一般的な換気や隔離といった従来の物理的感染対策だけでは、この人工的な感染拡大を完全には食い止められない。一度感染・発症すれば、二度と旧人類には戻れない不可逆な変異が始まるのだ。なぜなら、これは単なる感染症ではなく、かつて我々が組織構造の歪み――エリック・サーティーンによる狂気の自爆衝突テロによる両親の暗殺と、それに続く世界規模の無秩序によって味わったトラウマ――地球温暖化や絶え間ない戦争、貧困や事件、テロといったあらゆる地球規模の争いの根源である『人類の感情や個性』そのものをこの世から焼き殺し、完全に排他するための不可逆的な進化プログラムだからだ」
ジェイムズ・アダソンが腕を組み、冷徹な眼光で大ホールを見渡しながら語り継ぐ。
「……ポストヒューマニティへと至った新人類は、ホモ・サピエンスだった頃の個人的な感情も、過去の記憶、自分の考えや大切な人への想いの一片すらも、すべて綺麗に消失・初期化される。彼らは感情の振れ幅や迷いを持たず、24時間休むことなく高度な知的処理と統治を実行し続ける――いわば完全なる『生体機械』……思考する機械人間へと生まれ変わるのだ」
ジェイムズは周囲の幹部たちを見渡し、冷ややかに口角を上げた。
「これは一部の現場隊員や特定の候補者限った話ではない。我が社の6大事業、医療、防衛、都市インフラ、IT、メディア、そして月面都市に至るあらゆる手口とルートで集められた、世界中すべての適合者たちが同じ運命をたどる。どれほど尊い『大切な思い出』や『人としての意志や誓い』を抱いていようと、進化の瞬間、それらは何一つ残らず綺麗サッパリ消去されるのだよ。……むろん、世界で最初にプロトタイプとして自らの肉体を実験台に捧げたマックは別だ。彼の中枢システムと車椅子には、脳内の記憶と意思を強制固定・ループさせる特異な記憶保持制御デバイスが組み込まれている。世界を総統括する『絶対の頭脳』たる彼だけが、両親を失った悲劇と復讐の記憶を死ぬまで一秒たりとも忘れることを許されぬ呪いとして抱え、システムを制御し続けているのだ。だが、のちに完成された汎用・量産型の進化プログラムが適用される全事業・全社会の一般適合者たちには、そのような特権も慈悲も与えられん。過去の記憶ごと綺麗に初期化されるのみだ」
ジェイムズは一度言葉を切り、円卓を囲む幹部たちの顔をゆっくりと見見据えてから、さらに踏み込んだ計画の核心を語り継ぐ。
「かつて一人の不安を薬で抑えようとした技術は、『社会を不安定にしている人間の感情の振れ幅そのものを、神経科学によって修正・管理できないか』という問いへ変質し、やがてポストヒューマニティーへと至る『アルティメット』および『アルティメットウイルス』の誕生へと結実した。ポストヒューマニティーへと移行した新人類は、ホモ・サピエンスのような感情や個性を失い、食事も睡眠も不要のまま、24時間休むことなく高度な知的活動を遂行して地球文明を極限まで高度化させる。そうして人間同士の争いや地球環境を破壊するバグを根絶することで、地球温暖化そのものをなくし真の平和をもたらす――それこそが、我らアダソン兄弟の掲げる歪みなくして絶対的な『救済』なのだ」
ジェイムズの圧倒的な演説に、化学薬品部門やIT部門の幹部たちが深くうなずき、異議を唱える者は誰一人としていない。ジェイムズは冷徹な笑みを一層深く刻み、シムラたちなどA級被験者を見下ろすかのように言葉を吐き捨てる。
「フッ、シムラたち135名をはじめとする全事業のA級適合者どもは、自分たちが流す汗や涙、勝ち取った黒スカーフや栄光こそが人間の尊厳の証だと本気で信じ込んでいる。だが、それは我々にとってただの実験動物の、滑稽なおもちゃ遊びに過ぎん。彼らが『自分の意志で誰かを救った』と誇らしく思うたびに、神経系は勝手に研ぎ澄まされ、最良の生体データが自動で回収されていく。これほどよく出来た、悪趣味で素晴らしい極悪の計画が他にあるか? 奴らは自分たちが手の上のモルモット……いや、ただの動くおもちゃとして徹底的に飼い慣らされていることなど、夢にも気づいていないのだよ」
ジェイムズの侮蔑に満ちた冷酷な笑いに、会議室の幹部たちから同意の冷笑が漏れる。ジェイムズは続けて、ホログラム上に展開される世界経済の流動グラフを示しながら言葉を重ねた。
「旧人類の愚かな倫理観と感情の脆さなど、我がディスカバリー社を買収し統合して作り上げたAGBの覇道においては不必要なバグに過ぎん。感染拡大するアルティメットウイルスに対抗するためと称し、『命を救う大義』という最高のエサを与えておけば、奴らは集団予防接種の針すら自ら進んで受け入れ、実験台になり続ける。ゆえに世界中の経済やAGBの表の事業が麻痺することなどあり得ないのだ。我々がすべての情報・治療・ワクチンの流通を完全に掌握することで、社会を麻痺させるどころか全人類を完全管理下に置くための絶対的な支配の道具として利用している。経済が止まるどころか、AGBのインフラと管理体制への依存度が極限まで高まる仕組みだ。その上で、表向きは『アルティメットワクチンを打てば治る』と宣伝し、選別で『A級』と確定した被験者へは集団予防接種名目で高濃度の『アルティメット』を極秘注入する。実際に打たれるのはさらなる高濃度の生体改変薬であり、それによって体内の人工ウイルスと完全反応して新人類への変異が決定づけられる――という逃げ場のない二重の罠構造なのだからな」
さらにジェイムズは、非適合者(一般人)の扱いについても冷徹に補足する。
「当然、心身の耐性とアンカーを欠く一般人は、プロメテウス株やレギオン株などの過酷な副作用に耐えきれず、ショック死や精神崩壊・暴走を起こして劇的に淘汰されていく。無秩序な野放し状態にすれば社会が崩壊するため、我々は傘下のクリニックや提携病院を通じ、その死因を『新種の激甚型過酷病』や『急性精神失調』として病死偽装処理している。マスク等で防げない発症者はスマートシティ内の閉鎖病棟や隔離医療施設へ強制収容し、外部へのパニックを防ぎながら、万が一の遅効性A級者が混ざっていないか最終確認のスクリーニングを行い、耐えきれずに死滅していくプロセスを安全に処理・焼却しているのだ。つまり、我々の言う『全人類ポストヒューマニティ計画』とは、現存する人間を全員救うことなどではなく、旧人類たる非適合者を自然淘汰・隔離死させ、副作用を自力で乗り越えたA級適合者のみで構成される新たな全人類社会へと総置き換えする冷酷な淘汰優生学に他ならない」
ジョウマン・ディスカーとシズエ・ディスカーの夫妻が、アダソン兄弟の圧倒的な計画の全貌に満足げな笑みを漏らした。
「ええ、本当に哀れで美しい駒たちね」 シズエ・ディスカーが静かに扇を閉じ、艶やかながら底知れぬ冷血さを漂わせて微笑んだ。
「自分たちが選ばれた『特別』や『英雄』だと信じて輝いている目……それが知らぬ間に集団予防接種を装って投与されたアルティメットとウイルスの変異に反応し、激しい毒性と変異の痛みを乗り越えながら、ホモ・サピエンスの感情や個性をこの世から焼き殺され、新人類ポストヒューマニティーとしての冷厳な知性へと塗り替えられていく瞬間のデータが、今から待ち遠しいわ」
「フッ……マックよ、そしてジェイムズよ。かつてファウンダーカップル体制の脆さと、エリックのテロ、そしてサイバーサイジング・ショックの絶望を乗り越え、お前たちが構築したこのネットワークは完璧だ」
ジョウマン・ディスカーが低く太い声を響かせ、アダソン兄弟の野望への共鳴と冷酷な誇りを瞳に宿して語りかける。
「全6事業から吸い上げられる膨大な生体ログ……我々の描く『絶対的統治』と、感情のバグを排して地球環境を救う『ポストヒューマニティー』の未来は、もはや揺るぎない確約となった」
そのジョウマンの言葉を受け、旧ディスカバリー社の軍需・防衛インフラとAGBの神経科学が統合された歴史を深く知る国際総合新鋭救命救助部隊(IALRT/アイアラート)日本管轄最高責任者・タツガミ・テルオが、腕を組みながら重厚な賛辞を漏らした。
「不確実な人間の感情を排除し、システムによる完全なる救護と統治を実現する……かつて我がディスカバリーの防衛・救護網とAGBの神経薬理学が2035年に一つに結ばれたときから、この未来は約束されていたのだ。現場の隊員たちが自らの善意で命を繋ぎ止めていると信じている間こそ、このスクリーニングは完璧な制度として機能し続ける」
全試験統括のサイジョウ・ミキヒサも、メガネのふちを静かに押し上げながら冷酷な同調を示した。
「ええ。我々が日本管轄で仕掛けたエラーインジェクションと心理試験も、すべてはこの絶対的統治の礎となる『A級の精度』を証明するためのもの。ジェイムズ様、そしてマックCEO……あなた方が旧サイバーサイジング社の崩壊から築き上げ、ディスカー夫妻と共に完成させたこの冷厳な論理こそ、人類史上の真の福音でございます」
「クク……全くだ」
救命システム解析部長タカギが満足そうに口角を上げる。
「人間の愚かな感情に振り回されるレスキューなど、本来は非効率の極み。シムラのような異端の生体データが得られたのも、CEO自らの肉体を賭して導き出したプロトコルがあったからこそだ」 人事評価室長ミズシマも、恭しく首を垂れながら優雅に言葉を添える。
「人事評価室としても感無量でございます。かつて旧ディスカバリー社の本社であったこのジュネーブの地で、わたくしたちはアダソン兄弟の掲げる偉大な理念の信徒となった。彼ら候補生たちが己の意志で『黒スカーフ』を勝ち取り、涙を流して喜ぶ姿すら、新人類への扉を開く最高級の演出に過ぎません」
そのとき、円卓の上に浮かぶ世界地図の片隅で、未決裁を示す暗い琥珀色の表示が点滅した。六大事業の適合者選別は進んでいる。しかし、計画の実行者たち自身が旧人類のまま生き延び、進化後の世界をいかに統治するかという問題については、まだ最終的な結論が出ていなかった。
「待ちなさい。計画が進み、アルティメットウイルスによるパンデミックが世界中で続く間、私たち経営中枢はどうするのかしら」
シズエ・ディスカーが扇を止め、円卓を静かに見下ろした。
「私たちはマックと違って、記憶と意思を失う進化を望んでいない。旧人類のまま指揮を執り続ける以上、A級適合者以外は感染に耐えられないという原則から、私たち自身も逃れられないでしょう。世界が変わりきるまで、どこで、どう生き残り、統治を続けるのか――その点はまだ決まっていないはずよ」
未来都市インフラ部門トップのヘレン・ヴァンドールンが、世界地図の各地に未確定の拠点候補を淡く表示させた。
「一案として、世界各地に最高幹部専用の管理・監視センターを設け、そこから都市、医療、防衛、月面事業を遠隔統括する構想があります。既存の統括施設を転用するのか、新しい専用施設を建設するのか。人員配置も運用期間も、現段階では比較検討中です。外界から切り離された居住区という案もありますが、完全な安全性が証明されたわけではありません」
「施設の外へ出なければならない場合はどうする」
ジョウマンの問いに、防衛・特殊技術部門トップのグスタフ・アイゼンベルクが答えた。
「AGBのバイオハザード用特殊スーツを幹部用に転用する案もあります。既存の『AGB Biohazard Maintenance Suit』を基礎として、長期活動に適した専用仕様を検討するというものです。ただし、これは候補の一つです。通常の防護装備と同一視はできませんし、アルティメットウイルスに対して絶対に感染しないと断言できる段階でもありません」
IT・データソリューション部門トップのアーロン・チェンが、複数の統治構想を示す画面に目を移した。
「人間の幹部が各地の監視センターから指揮を執る方式、機械系統を介して遠隔統治する方式、その両方を併用する方式など、案はいくつもあります。感染拡大期の指揮系統と、A級適合者だけの新人類社会が成立した後の統治体制は、同じになるとは限りません。後者については、そもそも誰が最終判断を担うのかという問題すら残されています」
ジェイムズ・アダソンは、その未決裁の表示をしばらく眺めていた。
「よかろう。いま決定すべきは、旧人類のまま統治を続けるという当面の方針までだ。世界各地の専用監視センターも、密閉された保護施設も、AGBの特殊スーツも、遠隔統治も、すべて検討案として残せ。計画が完成した後の支配体制まで、現時点で一つに決める必要はない。どの方法にも解決すべき問題があり、我々自身の生存を保証する完成済みの答えなど、まだ存在しないのだからな」
誰一人、反論しなかった。人類の運命を決定しようとする者たちでさえ、自分たちが変えようとしている世界の中で、最後まで安全に生き残る方法を決めきれていない。その未完成の一点だけが、完全無欠を誇る巨大計画の内部に、冷たく残されていた。
国際総合新鋭救命救助部隊(IALRT/アイアラート)陣営からの報告と惜しみない賛辞を受け、地下最深部の密室に鎮座するマック・アダソンは、厚い生命維持マスクの奥で荒く苦しげな呼吸を洩らし、車椅子の深部でわずかに網膜UIを点滅させた。
マイナス十五度の極低温と重装マスクに阻まれた彼の肉体は自らの声帯で明瞭に喋ることは物理的に不可能であり、マスクの下から漏れるのはかすかな気道音と掠れた吐息ばかりであった。しかし、マックがマスクの下で途切れ途切れに発する微かな吐息・掠れ声と、彼の頭脳(脳波・神経インプラント・網膜UI)から直接出力されたデジタル信号は、部屋の高度音声合成システムおよび多言語インプラント通訳AIによってリアルタイムで補正・翻訳・増幅され、冷たく重厚な電子音声となって極秘会議室のスピーカーへ響き渡った。
『……全事業のスクリーニングデータを完全に同期させよ。慎重なる見極めのもと、A級と特定された者から順次、集団予防接種を通じて「アルティメット」を浸透させ、ウイルスの変異を完成させよ。シムラたちはじめ他のA級適合者が体内でウイルスと反応し、激しい副作用や毒性を乗り越えて新人類の核心――「適応の雛形」として進化を果たせば、そのデータをもとにウイルスと薬理を微調整できる。A級適合者のみを、新人類ポストヒューマニティーへと不可逆的に進化させよ。非適合者は進化に耐えられず、旧人類として淘汰される。全人類を対象とした選別の果てに、A級適合者のみで構成される新たな人類社会を完成させる。それこそが、我らの『全人類ポストヒューマニティー計画』の真の到達点である! そのための観測を継続せよ。これからも時間はかかるが、地球温暖化のタイムリミットまでに全工程を実行・完了させることが、我らの絶対目標である!』
車椅子の冷却ファンが激しく回転し、合成音声の背後には冷気の排出音や人工呼吸の「サー……」という微かな呼吸音、そして統括室を吹き荒れる毎秒30メートルの風切り音と「ブォォォン……ッ」という重低音ノイズが不気味に重なる。
さらに彼の網膜UIが怪しく明滅し、白濁したガラス玉のような瞳の奥で青白いバイオ・ルミネセンスが激しく揺らめくなか、マスクの奥から「クツ……フフフ……」という掠れた狂気の笑い声が漏れ出た。
『……これこそが、我々アダソン兄弟率いるこのAGB PharmaTechの、表の顔の真の「全人類ポストヒューマニティー化計画」だ……!』
そのマックの絶対的な宣言を聞き終えるやいなや、円卓を囲むトップ陣だけでなく、広大なオペレーションセンターの階段状フロアや後方の空間を埋め尽くす数百名の全世界の極秘裏幹部たち、独立回線で接続された世界中の裏幹部たちが一斉に立ち上がり、寸分の乱れもなく胸に手を当てて深く忠誠の礼を捧げた。
マックが世界で唯一自ら実験台となって進化を果たしたのに対し、ジェイムズやジョウマンをはじめとする他の幹部たちは、自らが進化して感情や個性を失ってしまえばシステム全体を統括・支配する意志そのものが消失してしまうため、皮肉にも旧人類のままの姿で支配層に留まることを選択している。ただし、感染拡大が続く間の安全確保も、計画完成後の統治体制も未確定であり、世界各地の管理・監視センター、特殊防護施設、AGBの特殊スーツ、遠隔統治など複数の案が検討されている段階にあった。
「了解! 我がAGB PharmaTechの全権をかけて、アダソン兄弟の掲げるタイムリミットまでに、全人類ポストヒューマニティー化計画を確実に遂行・成功させます!」
巨大な極秘国家機密計画を支える裏幹部たちの圧倒的な決意の叫びが響き渡ったあと、上層部だけに許された冷徹な合言葉が、室内を埋め尽くす無数の声の唱和となって重くこだました。
「――一つの意志、一つの未来、 無秩序に終焉を、静寂に進化を――!One Intent, One Post-Humanity Order through Silence, Evolution beyond Emotion Pure Evolution, Absolute Salvation」
狂信的とも言える統一された意思と冷酷な統率力が、広大なオペレーションセンターの空気を完全に支配する。
背景で響く地下最深部からの重低音ファンノイズ「ブォォォン……ッ」が静かに引いていく中、レマン湖の青く澄んだ水面の下で、人類という種の運命を書き換える冷酷な歯車が、音もなく次の回転へと踏み出していった。
【終】




