第4節:世界へ
暦が四月へと進んでもなお、岐阜県高山市の古い街並みには、山間部特有の澄み切った冷気が凛と漂っていた。
瓦屋根の端々に残る淡い残雪が朝日に照らされ、雪解け水が小川のせせらぎとなって静かに街を潤している。遠くに仰ぎ見る飛騨の山々は、春の萌芽を内に秘めながらも、未だ静寂の白銀に包まれていた。かつてこの地から三年前に旅立った少年は今、正式な救命のプロフェッショナルとして、再びこの実家の門を叩いていた。
高山市内の実家、その玄関先に立つシムラ・レンの佇まいは、三年前の出発時とはまるで別人のようであった。
彼が身に包んでいるのは、世界共通のIALRT正式隊員制服である。
純白を基調とした高機能タクティカル・ワークスーツは、極限環境下での動作を追求した洗練されたシルエットを描き、胸ポケットや側面のフラップ部分に配された鮮烈な「赤」が、救命部隊としての高い視認性と象徴性を際立たせている。左胸には、あの長野本校の卒業式で真壁校長から直々に授与された、重厚な輝きを放つ金色の「IALRT隊員バッジ」が刻まれ、その直下には黒布地に金色の糸で『Ren Shimura』と刺繍されたネームタグがしっかりと縫い付けられていた。
左腕には、世界共通の紋章であるIALRTのエンブレム刺繍が凛と存在感を主張し、頭上に戴く白のアポロキャップのつばには、幹部・精鋭の証である金色のオリーブの刺繍が施され、中央には鮮烈な「IALRT」の英字が躍っている。
片手には、指定のIALRT世界共通紋章刺繍が入った大型のアタッシュケース。そして背には、あらゆる極限現場での資機材収容に耐え得る漆黒の大容量隊員リュックサックを背負っていた。
「父さん、母さん。本日より、正式に現場へ赴任いたします」
玄関先で両親と対峙したシムラは、右手を頭上に添えて正装の帽子を静かに脱ぎ、それを左胸にそっと添えた。一寸の狂いもない美しい動作のまま、背筋を垂直に伸ばして深々と頭を下げる。
指先一つブレないお辞儀を終え、静かに上体を起こすと、脱いでいた帽子を再び頭上へと完璧な所作でかぶり直した。
「IALRT国際緊急即応救難連隊・東日本第1機動レスキュー大隊広域救命センター――シムラ・レン。これより指定の最前線配属先へと赴きます。父さん、母さん、それでは僕は今日から隊員の一員として、どんな危険な地に赴こうとも、どんな困難の中でも人の命を守り、社会に貢献していきたいと思います!」
その言葉と凛とした佇まいには、かつての迷いや甘えは一切なかった。
上京し、日本の要衝である首都圏の最前線で命を背負うという固い覚悟が、その眼差しに宿っていた。
父親は誇らしそうに胸を張り、力強く目を見開いて息子の肩を叩いた。
「ああ、行ってこい、シムラ隊員! お前が選んだ道だ、思い切り命を救ってこい!」
母親もまた、目元に涙を浮かべながらも、温かい笑顔でしっかりと息子を見つめ返した。
「いってらっしゃい、レン。どんなときも自分を信じて……たくさんの人を助けてあげてね。無事を祈っているわ」
「はい。行ってまいります!」
シムラは帽子のつばに手を添えてかぶり直しを調整すると、ビシッと隙のない敬礼を捧げた。指定のアタッシュケースを強く握り直すと、一度も後ろを振り返ることなく、春の光が差し込む高山の街並みへと踏み出していった。
こうして難関の正式資格試験を突破した国際総合新鋭救命救助部隊(IALRT / アイアラート)たちは、AGB PharmaTechの多様な部門へと配属されていく。
世界各地の総合病院での集中治療管理はもちろんのこと、南極観測基地や極寒地域の過酷な環境下での医療・保守チーム、戦争地域や紛争地の野戦病院、爆発物処理班や化学災害対策班と帯同する最前線の緊急派遣チーム、放射能・化学災害の緊急派遣チーム、感染症流行地の特設隔離病棟、地震・津波・火山噴火の被災地へ真っ先に駆けつける国際救助隊、さらには月面都市の居住区や深海プラントなど、活躍の場は文字通り地球全域から宇宙へと広がっていた。
配属される部署や階級によって報酬は大きく異なり、経験を積んで出世し上位の役職に就くほど基本給に手当が幾重にも上乗せされ、年収は数千万円からそれ以上へと跳ね上がる実力主義の世界でもあった。キャリアの途中で適性や希望に応じて他部門への部署移動を行うことも可能であり、多くの隊員がさまざまな極限現場を経験してスキルを磨いていた。
シムラもまた、東日本第1機動レスキュー大隊広域救命センターでの過酷な首都圏救助業務を皮切りに、その凄まじい「救命の機能」を発揮していった。
最初の配属先である首都圏では、高層ビル火災や地下鉄における特殊化学災害現場へ真っ先に突入。長野本校で叩き込まれた一切の無駄がない判断力と技術で、崩落の危険が迫る瓦礫の奥底から何十人もの犠牲者を救い出した。その冷徹なまでの正確さと救命率は社内でも即座に評判となり、彼はわずか二年で国際派遣資格を取得する。
海外派遣への道が開かれると、シムラは「IALRT環太平洋・広域即応レスキュー第5特殊大隊」へ異動。中東の紛争地帯における野戦病院の緊急救護施設や、弾道ミサイル着弾地域の爆発物処理班(EOD)と帯同する最前線チームへと加わった。銃声と爆音、そして毒ガス警報が吹き荒れる極限の殺戮現場において、彼は動じることなくトリアージを完遂。瀕死の兵士や逃げ遅れた市民の手首に迅速にバイタル装置を装着し、冷徹かつ完璧な処置で次々と死の淵から命を繋ぎ止めた。
その過酷極まる中東の最前線基地で、シムラは運命の出会いを果たす。
同じIALRTの医療部門に所属する欧州出身の女性看護隊員――デリア(Delia)であった。
降り注ぐ砲弾と溢れ返る重傷者の中で、動揺することなく的確に処置を補佐し、命の最前線で戦い続ける彼女の凛とした強さと献身に、シムラは深く惹かれていった。無駄な私情を排したプロフェッショナル同士として始まった信頼関係は、幾度もの死線を共に潜り抜ける中で揺るぎない絆へと変わり、やがて二人は静かに愛を育み、正式に結婚を遂げた。
その後もシムラのキャリアは止まらない。圧倒的な極限環境適正を買われ、北欧・北極圏に位置する「IALRT極地医療・災害緊急派遣タスクフォース(Arctic Responders)」へ配属。マイナス50度を下回る永久凍土の猛吹雪の中、ホワイトアウトで孤立した海底資源掘削プラントでの大規模爆発事故へヘリで降下。通信が途絶し、凍傷と低体温症で生存率が絶望視される極限状況下で、彼は妻となったデリアら看護チームと共に、一晩で多数の要救助者を収容・救出するという超人的な実績を残した。
異例のスピード昇進を果たしたシムラは、最終的に世界最高峰の精鋭部隊「IALRTグローバル・ファーストレスポンダー指揮中隊(GFRC)」の分隊長に就任。基本給に幾重もの特殊危険手当、海外最高ランク手当が上乗せされ、年収は数千万円を遥かに超える高額報酬を得るまでに上り詰めた。
そして、欧州の高級住宅街に構えた邸宅で、二人の間には待ち望まれた第一子となる元気な女の子が誕生した。
シムラは、遠く離れた故郷・高山の山々に輝く白銀の雪と、暗闇を照らす光を想い、愛娘に『エレナ(Elena)』という名を贈った。
冷徹な「機能体」として生きてきた男の手の中で、小さな産声を上げるエレナ。我が子を愛おしそうに抱きしめるデリアの傍らで、シムラは一人の「父親」として、生涯をかけてこの家族と生命を守り抜くことを静かに誓うのだった。
世界中の被災地や紛争地域、果ては極地から宇宙プラントに至るまで、彼の名を知らぬ関係者はいない。巨額の富と名誉、最高峰の階級、そして何より愛する妻デリアと愛娘エレナという至上の幸せを手に入れたシムラ・レン。
物語は、彼らの輝かしい英雄譚として、ここで完結を迎えるはずであった。
――しかし。
シムラをはじめ、日本長野本校、鹿児島・桜島麓の訓練センター、北海道の道北訓練センター、そして沖縄近海の海洋災害訓練センター――全国4箇所の極限訓練拠点で凄絶な淘汰を生き残り、正式に卒業を果たした合計135名の精鋭隊員たち。
彼らIALRTの救護部隊はもちろんのこと、巨大メガコーポレーション「AGB PharmaTech」が世界中で多角的に展開する主に6つの主要事業セクター――最先端の兵器開発や技術支援を担う防衛部門、激化する地球温暖化や異常気候問題に対応する次世代スマートシティや月面都市の開発・管理を推し進める未来都市インフラ部門、超高度なグローバル通信網と巨大データを一元管理するITインフラ部門、高度バイオ創薬と系列病院である『AGB精神ファミリークリニック』を展開する製薬・精神医療部門、シムラたちが卒業した救命養成学校をはじめ、防衛・IT・製薬・都市開発などファーマーテックの各事業領域で即戦力として直接活躍するための各種専門養成校、一般的な大学や高校、さらには人気アニメ『きらめきパルスくん』などのコンテンツを手掛ける教育・メディア部門、そして彼らが所属するIALRTの医療・救急レスキューと病院経営に至るまで――さらには、これらすべての現場で人間社員のパートナーとして稼働する高度アンドロイド『DISプロトタイプ』の運用に至るまで、そこで働く膨大な数の従業員、サービスを利用する人々、そして世界中の顧客や患者たちに至るまで、企業の真の「裏の顔」を誰一人として知り得なかった。
表向きのAGB PharmaTechは、2040年代における地球環境と人類生存の先導者として、深刻化する環境危機に対し、主要国政府や国連をはじめとする国際機関と全面的な協力関係を構築していた。
上に行けば行くほど、より冷徹で強固に敷かれていく「情報区画化」の多重構造。
各事業のトップやグループ全体を取り締まる統括最高幹部など、組織の最頂点に君臨する極一部の人間のみにすべての機密が限定されており、現場や一般社会には「地球環境の保全」「SDGsの達成」「人類の発展と人道支援」という完璧な光の面だけが提供されていたからだ。手厚い報酬、社会的な地位、そして「人々の未来と生命を支えている」という揺るぎない誇りを与えられている現場の人間や利用者たちが、自らの足元に広がる闇に疑問を抱く隙など、最初から微塵も存在しなかったのだ。
――彼らが過酷な最前線で送り続けるバイタルや極限データ、投与される先進新薬、幼少期から刷り込まれる教育、そして月面都市という逃避先――そのすべてが、最上層部の僅かな者たちによって厳密に集計・選別され、人類という種の「枠組み」そのものを揺るがす恐るべき計画の歯車として機能していることなど、知る由もなく。
最上層部の僅かな者しか知らぬ暗部において、巨大複合企業「AGB PharmaTech」がいかに非人道的な人体実験と絶望の影を蠢かせているのかを。
彼らはただ純粋な誇りと「命脈の奪還」という鉄の誓いだけを胸に抱き、世界の救世主として、今日も冷徹で美しい「救命の機能」を果たし続けていくのだった。




