第3節(02:30~04:30 / 2時間):【情報処理・手作業崩壊】「無限カルテ・マニュアル筆写と解体パズル」
氷水シャワーの地獄から這い上がったシムら生き残りたちに、休息の時間など一秒たりとも与えられなかった。彼らが放り込まれたのは、第2研究棟の地下1階にひっそりと佇む無機質な地下資料室だった。そこは、日常の光景から完全に切り離された、外界の光すら一切拒絶する澱んだ空間だった。壁や床は打ちっぱなしの分厚いコンクリートで覆われ、窓はどこにも存在しない。天井で頼りなく揺らめく蛍光灯だけが唯一の光源だが、それも長年手入れされていないのか、ジジジと低い耳鳴りのような電子音を響かせながら、薄暗く冷たい空間を気だるそうに照らし出しているだけだった。
外の冷気がコンクリート伝いにダイレクトに流れ込む室内は、常に氷点下すれすれの凍てつく寒さに包まれている。そこへ、古い紙の束が放つ独特の埃っぽい匂いや、無機質な消毒液、そして金属と錆の混ざった澱んだ臭いが充満し、吐き出す息は白く凍りついて消えていく。
部屋の奥には、天井まで届くほど巨大なスチール製の書架が隙間なく並び、その中には膨大な医学マニュアル、過去の事故や災害の極秘カルテ、分厚い技術教本が山のように詰められていた。中央に置かれた無機質なパイプ椅子と鉄製の机のほかには、温もりを感じさせるものなど一切ない。
人間をただの「データ処理のパーツ」として冷徹に消費するような、逃げ場のない極限の空間――そこが、疲労の限界を迎えた学生たちの精神をさらに容赦なく追い詰める新たな戦場だった。
室温は氷点下すれすれにまで冷え込み、室内には澱んだ空気と消毒液の臭いが立ち込めている。学生たちは、先ほどまでの氷水で水分をすっかり吸い込み、凍てついたまま重さを増したAGB Biohazard Maintenanceスーツを着たまま、硬いパイプ椅子に無理やり腰掛けさせられた。そして、その両手には――完全に感覚が麻痺し、まるで自分のものとは思えないほど硬直した防護グローブがはめられていた。
最悪のギミックが、教官陣の冷徹な号令とともに幕を開けた。
「ここからの2時間は、極限の睡魔と脳のバグがピークに達する魔の時間だ。お前らには、その死んだ指先で分厚い医学マニュアルの緻密な筆写と、人工心肺パーツの組み替えパズルを交互に強要する」
司令コントロール室から戻ってきたイオウダニ教官が、冷え切った室内に鋭い警告を叩きつける。さらに、ガンドウ教官が鬼のような形相で教壇を叩いた。
「いいか、これは個人戦ではない。『終わるまで全員ペナルティー』の連帯責任だ! 誰か一人が睡魔や手元の狂いで脱字をしたり、パーツの誤組み込みをやらかしたり、ネジを一個でも床に落としたりしてみろ。その瞬間、教場のカウントは容赦なくゼロに戻り、全員で最初からやり直しだ!」
その言葉の重みに、凍りついた室内の空気が一気に張りつめた。
机の上には、数千ページにおよぶ外科学の網羅的な臨床記録や緊急処置手順が記された文字の羅列がかすむほど分厚い医学カルテと、変性血液ポンプのローターハウジング、微細なシリコンチューブコネクタ、駆動モーターの接続ピンといった無数の複雑な金属・樹脂パーツが詰まった人工心肺装置のパーツボックスが無造作に置かれている。
作業が始まろうとしたその瞬間、ライメイ教官が冷酷な笑みを浮かべて一歩前に出た。
「おい、そこまでだ。甘いこと考えてるんじゃねぇぞ。お前らのそのヘルメットバイザーをブラックアウトして、一切見えなくしてやる! 見えないままで全部やってみろ!」
再び雷が落ちるような怒号を響かせながら、ライメイ教官が持っていたタブレット端末にコマンドを入力した。その瞬間、学生たちのヘルメットバイザーが透明から不気味なほどの漆黒へと一斉に切り替わった。
「うわっ、なんだこれっ!? 前が見えねえ!」
「ふざけんな、真っ暗だぞおい!」
突然の視界喪失に、教室内からパニック混じりの混乱や困惑の声が上がる。すかさず、クロサキ教官が地を這うような低音の怒号を浴びせた。
「文句言うな! ブラックアウトでやると最初から言ったはずだ! 見えないまま自分たちの手の感覚と、耳を澄まして音を聞き、頭に叩き込んだマニュアルの記憶だけでやれ! わかったかッ!」
「「は、はいっ!」」
「聞こえん! 声が小さい!」
「「はいっ――!!」」
視界を完全に奪われた暗闇の中で、学生たちは手探りで人工心肺の微細なチューブコネクタを探ろうとするが、氷水で濡れ切って冷え切ったスーツと硬直したグローブが災いして、カチャリと小さな固定ネジをコンクリートの床に落としてしまった。
「あ……っ!」
「おい!109番オオシマ!馬鹿野郎、ネジを落としたな! 全員連帯だ、一から組み直せ!」
イオウダニ教官の鋭い叱責が飛ぶ。絶望的な悲鳴と、仲間のミスに対する殺気立った視線が交錯する。疲労と酸欠、そして焦燥から過呼吸を起こして机に突っ伏す者が続出し、何度も教官たちの怒号が飛び交ってはやり直しが容赦なく繰り返された。
その極限の連鎖の中、シムラもまた例外ではなかった。睡魔と指先の麻痺、そして濡れ切ったスーツから伝わる凍てつく寒さに耐えながら、工業高校時代に培った機械的構造の記憶と呼吸法で必死に食らいついていたが、続くブラックアウトによる極度の焦燥から、人工心肺のローター部分を嵌める際にほんのコンマミリの角度の狂いを生じさせてしまった。
「おい、42番シムラ! そこで軸を歪ませたな! やり直しだ!」
クロサキ教官の冷徹な名指しの叱責が、暗闇のシムラを直撃する。
「――大変申し訳ありませんっ!」
シムラは視えぬままバイザーの向こうで歯噛みし、冷や汗を流しながら、もう一度一からパーツを外し、指先の全神経を集中させて組み直しをやり直した。
では、この絶望的な見えない手作業と筆写の地獄を、彼らはどうやって乗り越えたのか。それは決して奇跡的な才能の開花などではなく、幾度もの理不尽な失敗と、教官たちの「全員ゼロリセット」という容赦ない恐怖に精神をすり潰され続けた果ての、狂気的な適応だった。
最初は、全員がパニックのどん底にいた。バイザーが突然の漆黒に染まり、視界が完全に奪われたその瞬間から、地獄の連鎖が始まった。冷え切ったAGB Biohazard Maintenanceスーツが体温を奪い、凍りついた防護グローブは指一本満足に曲げさせない。視えない、指が動かない、寒い――その三重苦の中で、焦りからペン先が滑り、ネジは床に落ち、教官たちの冷酷な「カウントゼロ、やり直し!」の怒号が容赦なく室内に叩きつけられた。何度も、何度も絶望的なリセットが繰り返され、教室内には過呼吸と涙にむせぶ声が充満した。ここで意識を失い、あるいは恐怖に負けて泣き叫ぶ者は幾人もいた。しかし、教官陣の冷徹すぎるプレッシャーは、彼らに「脱落して楽になることすら許さない」ほどの極限の強制的生存本能を叩き込んでいた。ここで倒れれば自分だけでなく全員が地獄に連れ戻される――その恐怖こそが、誰一人として脱落することを許さぬまま、彼らの肉体を限界の向こう側へ引っ張り続けたのだ。
幾度も理不尽なやり直しを強制され、脳の回路が焼き切れるような感覚の中、学生たちの体に異質な変化が訪れた。視覚が奪われたことで、逆に「聴覚」と「触覚」、そして「空間把握能力」が生き残りのために極限まで研ぎ澄まされていったのだ。
視えない仲間たちは、やがて互いの出す「音」を唯一の命綱にし始めた。隣の席のペンが紙を走らせるかすかな擦れ音のテンポ、切羽詰まった仲間の息遣いのリズム、そして微かに聞こえるパーツボックスの金属音。それらを互いに小声の合図で補い合い、「今どこのページを書いてる」「次はこのコネクタだ」と、視界の代わりに音と気配で全体の作業スピードを無理やり同期させていった。誰か一人のリズムが乱れれば全員の音が狂い、またゼロからやり直しになる。だからこそ、恐怖に震えながらも互いの存在を音で感じ取り、全員が一体となってエラーの芽を極限まで削ぎ落としていったのだ。
その全体を牽引するように、シムラ自身もまた、冷え切ったスーツのなかで独自の突破口を開いていた。はじめは激しい寒さと指先の硬直で、人工心肺の微細なローターやピンの噛み合わせを何度もミスし、クロサキ教官から鋭い名指しの叱責を受けていた。シムラとて、恐怖で心臓が破裂しそうだった。だが、ここで歩みを止めるわけにはいかない。 シムラは工業高校時代に幾度となく向き合った「機械の感触」を脳裏に呼び起こした。目で見て確認できないのなら、掌に伝わるわずかな反発力と、金属同士が正しく咬み合った瞬間にだけ響く極小の振動を頼りにするしかない。冷え切ったグローブの感覚を極限まで集中させ、ローターハウジングのベアリングが寸分違わず噛み合う「手応え」だけを信じた。指先が凍えていようとも、乱れる呼吸を自律神経のコントロールで無理やりねじ伏せ、ミリ単位のパーツを無意識レベルで正確な定位置へねじ込んでいく。
「全員で絶対に這い上がる」という執念と、シムラをはじめとする個々の狂気的な集中が噛み合い、限界を超えたボロボロの肉体と精神のまま、彼らはついにエラーを完全にゼロへと押し戻していったのだった。
外の窓硝子が夜の闇から薄っすらとした青白い朝焼けへと変わり始めた、朝04:30――窓のない地下資料室の中にはその光すら届かないが、外の世界が確実に新しい朝を迎えていることだけが、張り詰めた空気を通じて感じられた。
極限のプレッシャーと連帯責任の地獄をくぐり抜け、限界を超えたボロボロの状態の中で、ついに最後のエラーチェックが完了した。クロサキ教官をはじめとする教官陣がゆっくりと室内に足を踏み入れ、血走りながらも机にしがみつく学生たちの成果を冷ややかに見据える。
「そこまでだ。……ブラックアウトを解除するぞ」
イオウダニ教官が手元の端末を操作した瞬間、学生たちのヘルメットバイザーに再び光が戻り、漆黒の闇がパッと晴れ渡った。
――やっと、見える。視界が戻ったその瞬間、学生たちは心の底から安堵の息を漏らし、血走った目をしばたたかせた。
「やっと見えた……っ!」
「よかった、終わった……!」
長時間の暗闇から解放された安らぎと、極限の緊張から解放された脱力感が一気に押し寄せる。シムラもまた、重く曇ったバイザーの向こうでまぶしそうに目を細め、凍りついた手で自分のこめかみを押さえながら、ようやく地獄のトンネルを抜けた実感を噛みしめていた。
しかし、その緩み切った空気を、クロサキ教官の容赦ない怒号が鋭く引き裂いた。
「おい、いつまでぼさっとしている! 見えるようになったからなんだというんだ! 目が見えるようになった途端に気が緩みやがって、その程度の視覚情報に頼らなければ何もできないような腑抜けが、現場に出たら一瞬で死ぬんだよ! 目が見えようが見えまいが、自分の頭と手足で状況を打破しろ!」
「はいいい!」
クロサキ教官の冷徹な一喝に、学生たちは再び背筋を凍らせる。
「……ほう。04:30という期限ギリギリになんとか間に合わせたか。だが、勘違いするな。お前らのその手際の悪さと醜態は、現場であればとうに全滅しているレベルだ」
ガンドウ教官の低く重い総評のあと、シンカイ教官が冷徹に次なる命令を叩きつけた。
「だが、これで終わりだと思うな。今すぐそこから這い上がれ! お前らは5:00までに、その冷えたスーツから通常の訓練制服へ着替え、5:00丁度に地上グラウンドへ集合しろ! 再び遅刻した者、あるいは列を乱した者が1人でもいれば、救済なしで全員腕立て伏せ100回、スクワット100回、グラウンド20周の追加ペナルティーを課す! いいかッ!」
「は、はいっ――!!」
絶叫のような返事とともに、生き残った学生たちは凍てついたスーツを引きずりながら、ボロボロの体でロッカー室へと駆け出していった。
こうして、一睡もできないまま過酷な訓練に満ちた新しい一日が始まっていく。
しかし、絶望すべきことに、この息も絶え絶えに耐え抜いた過酷な1日ですら、これから3年間続く長い地獄のような日課の、ほんの「序口」に過ぎなかった。
この後に待ち受ける授業や訓練の科目は、日替わりで次々と牙を剥く。
過酷な体力訓練をはじめ、噴火災害への対応、戦争区域を想定したサバイバル、一般的なAEDなどの基礎的な応急措置から、遭難者救助、本格的な山岳登山訓練、さらには熊や猛獣との遭遇を想定した猟銃の扱い、放射線管理区域での防護活動、津波や大震災のガレキからの人命救助、極寒地での生存活動など、教官たちの怒号が飛び交う数々の死闘が日替わりでカリキュラムに組み込まれていたのだ。
それだけではない。この国家プロジェクトの訓練施設は、この本拠地だけにとどまらなかった。
日本各地に点在する特異な環境を活かした極限特化拠点――火山灰、有毒ガス、地殻変動、高温・粉塵禍といった悪夢のような環境を想定した「鹿児島の桜島麓訓練センター」、日本屈指の豪雪、極寒、ブリザード、氷点下での機械凍結との戦いを極める「北海道の道北訓練センター」、そしてモンスター台風、海難事故、水圧、海洋汚染、水中での救命救助を特化して学ぶ「沖縄近海の海洋災害訓練センター」。
これら3つの拠点へと巡り、それぞれの地で過酷な合宿訓練が待ち受けている。AGB Biohazard Maintenanceスーツが不可欠な環境もあれば、生身の肉体と極限の知恵だけで挑まなければならない環境もある。そうした過酷な実習が、昼夜を問わず3年間途切れることなく続いていくのだ。
その果てしないサバイバルの日々の中で、同期の仲間たちは心身をすり減らし、次々と脱落して姿を消していった。
シムラ自身も、幾度となく教官たちの激しい怒号を浴びせられ、退学の危機や死の恐怖に直面した。しかし、工業高校時代に培った機械的・物理的なノウハウ、そして極限下でも自律神経を冷静にコントロールする独自のサバイバル術を武器に、その試練を一つずつ泥臭く、しかし確実に突破していく。
極限の恐怖と絶望を潜り抜けながら、シムらは冷徹なプロフェッショナルとしての確かな階段を上り始めていた――。




