専属メイドニーナ編
アレス様の足音が、怖かった。
だから私は、《鑑定の儀》が終わったら、専属侍女を外していただきたいとエマ叔母様に願い出るつもりだった。
硬い靴底が廊下を打つ音を聞くだけで、肩に力が入る。扉の向こうから名を呼ばれれば、何も失敗していなくても、謝る言葉が先に浮かんだ。
お茶が熱すぎる。着替えを持ってくるのが遅い。窓から差し込む光がまぶしい。自分ではどうすることもできないことまで、アレス様が不機嫌になる理由になった。
目の前で物に当たられたことはある。怒鳴られたことなら、数え切れない。
けれど、殴られたことは一度もなかった。
だから私は、怖がってはいけないと思っていた。
もっと大変な目に遭っている人はいる。私はアークハルト男爵家で衣食住を与えていただき、専属侍女という大切な役目まで任されている。少しくらい声を荒らげられても、耐えるのが務めだ。
それでも、もう限界だった。
そう認めることさえ申し訳なく思いながら、アレス様の足音が聞こえるたび、身体は正直にこわばった。
◇
八月八日。
アレス様が十二歳の《鑑定の儀》を迎えた朝も、いつもと変わらなかった。
「遅い」
部屋へ入った私に、窓辺に立つアレス様が冷たい声を向けた。
「申し訳ございません」
約束の時刻には遅れていなかった。それでも、考えるより先に頭が下がる。
「今日は大事な日だ。失敗するな」
「はい」
寝台の上へ、鑑定の儀で着用する正装を広げる。白いシャツ。黒い上着。アークハルト家の紋章が刺繍された深い青色の外套。どれも昨夜のうちに確認し、朝になってからもう一度、しわや汚れがないか確かめてあった。
アレス様は、鏡に映る自分の姿を見つめている。
整った顔立ち。黒い髪。金色の瞳。まだ十二歳なのに、人から敬われることを当然とするような表情だけは、大人の貴族にも負けていなかった。
アークハルト家は、魔の森から領民を守ってきた武門の家だ。今日の鑑定で《剣術》や《槍術》を授かれば、アレス様は正式に次代の当主として歩き始めることになる。
アレス様ご自身も、優れた力を授かると信じて疑っていないようだった。
「ぼんやりするな」
「申し訳ございません」
慌てて外套の留め具を整える。指がわずかに震えたが、失敗せず留めることができた。
「終わりました」
「なら、行くぞ」
アレス様は礼の一つも口にせず、振り返ることもなく部屋を出ていった。
いつもどおりだった。
その背中を見ながら、私は少しだけ安心していた。
今日、どれほど立派な力を授かったとしても、この方はきっと変わらない。
そう思えることが、なぜか安心につながっていた。悪い方へ変わる可能性を、考えなくて済んだからだ。
廊下へ出ると、侍女長のエマ叔母様が待っていた。
私の叔母でもあるエマ叔母様は、アレス様の姿が階段の向こうへ消えたことを確かめてから、私の外套を整えるふりをして小声で言った。
「ニーナ」
「はい」
「今日、どのような結果が出ても、あなたのせいではありません」
私はすぐに意味を理解した。
もし、アレス様が望んでいた力を授からなかったら。
その時、一番近くにいるのは私だ。
「分かっております」
「いいえ。あなたは分かっていても、すぐに自分から謝るでしょう」
何も言い返せなかった。
叔母は厳しい人だ。仕事の失敗を見逃してくれたことはない。けれど、今は侍女長ではなく、姪を心配する叔母の目をしていた。
「一人で抱え込んではいけません。何かあれば、すぐに私かオルドさんを呼びなさい」
「はい。ありがとうございます、エマ叔母様」
「仕事中です」
「……ありがとうございます、侍女長」
言い直すと、エマ叔母様は小さくうなずいた。
けれど私は、その言葉に従えないだろうと思っていた。
アレス様の専属侍女は私だ。
どのような結果になっても、その怒りを受け止めるのは私の役目なのだから。
◇
神殿には、十二歳を迎えた子どもと、その家族が集まっていた。
鑑定水晶へ触れるたび、淡い光が文字へ変わる。《剣術》が出れば歓声が上がり、二つの属性魔法が示されれば周囲から感嘆の声が漏れた。
順番が進むほど、私の胸は苦しくなった。
「アレス・アークハルト」
神官に名を呼ばれ、アレス様が祭壇へ上がる。
旦那様と奥様は、静かにその背中を見守っていた。お二人とも結果が何であっても受け入れるおつもりなのだろう。
けれど、アレス様ご本人は違う。
期待した結果でなければ、きっとお怒りになる。
私は胸元で手を握り、頭の中で何度も言葉を繰り返した。
申し訳ございません。
すぐに確認いたします。
別のお召し物をご用意します。
新しい食器をお持ちします。
何を言われても、すぐに答えられるように。
祭壇の前へ立ったアレス様が、なぜか動きを止めた。
神官が、もう一度名前を呼ぶ。
その時だった。
アレス様の金色の瞳が、ゆっくりと見開かれた。
自分の手を見る。鑑定水晶を見る。神殿の天井を見上げ、旦那様と奥様へ視線を移す。そして最後に、少し離れて控えていた私を見た。
ほんの短い時間だった。
けれど、その目は、生まれて初めて見るものばかりに囲まれた子どもの目にも、長い旅から帰ってきた人の目にも見えた。
「どうしたのです。早く水晶へ手を置きなさい」
神官に促され、アレス様は小さく答えた。
「ああ」
口元が、わずかに緩んでいた。
どうして笑っているのだろう。
疑問に思った直後、アレス様の手が水晶へ触れた。
光が三つの項目を映し出す。
【スキル】
体術
【魔法】
無属性
【耐性】
無
神殿が静まり返った。
《体術》は、武器を持つとかえって動きが悪くなる、最弱と呼ばれる戦闘系スキル。無属性魔法も、火や水のような攻撃には向かないとされている。
魔の森を守る武門の嫡男としては、あまりに厳しい結果だった。
やがて、押し殺した声が聞こえ始めた。
期待外れ。
役立たず。
父親はあれほど優秀なのに。
私は息を止めた。
今だ。
アレス様が怒鳴る。
水晶を壊すかもしれない。神官へ詰め寄るかもしれない。笑った人を覚えておき、屋敷へ戻ってから私へ怒りをぶつけるかもしれない。
けれど、アレス様は水晶から静かに手を離した。
「分かった」
それだけだった。
怒声は上がらない。水晶も壊れない。
旦那様が、力の価値は鑑定結果だけで決まるものではないと語りかける。その言葉にも、アレス様は反発しなかった。
「父上のおっしゃるとおりです。力の価値は、これから私が努力で証明します」
一番驚いていたのは、旦那様だったと思う。
奥様は胸へ手を当てたまま、瞬きさえ忘れていた。
そして私は、用意していた言葉をすべて失っていた。
祭壇を下りてきたアレス様へ近づく。何か言わなければならないのに、うまく言葉にならない。どうしたのかと問われ、私は結局、何でもないと謝ってしまった。
金色の瞳が私へ向いた瞬間、身体がこわばった。
「お前は何も悪いことをしていない。謝る必要はない」
今朝、エマ叔母様から言われた言葉と同じだった。
けれど、同じ言葉とは思えなかった。
怒られるより、ずっと怖かった。
私の知っているアレス様は、そんなことを言わない。
目の前にいる少年は、姿も声も間違いなくアレス様なのに、その奥から、知らない誰かが私を見ているような気がした。
◇
帰りの馬車でも、アレス様は静かだった。
窓の外を流れる緑の畑や、街道を歩く人々をじっと見つめている。時折、向かいに座る旦那様や奥様へ視線を移し、確かめるように顔を見ていた。
奥様が体調を尋ねても、何でもないと答えるだけだった。
けれど、その声は鑑定結果に傷ついているようには聞こえない。
むしろ、何かを失わずに済んだ人のようだった。
屋敷へ戻ると、玄関には執事長のオルドさんをはじめ、使用人たちが並んでいた。鑑定結果は、すでに早馬で届いている。
皆、緊張していた。
今までのアレス様なら、結果を知られているだけで腹を立てただろう。
「お帰りなさいませ、旦那様、奥様、アレス様」
オルドさんが深く頭を下げる。
「ああ。ただいま戻った」
アレス様が挨拶を返した。
並んでいた使用人たちの呼吸が、同時に止まったように感じられた。
オルドさんでさえ、一瞬だけ顔を上げるのが遅れた。
アレス様はそれ以上何も言わず、旦那様と共に執務室へ向かった。扉が閉じるまで見送り、私はようやく息を吐いた。
「ニーナ」
エマ叔母様の声に振り返る。
「神殿で、何があったのですか?」
「分かりません」
「分からない?」
「鑑定水晶へ触れる直前から、急に……」
どう説明すればよいのだろう。
優しくなった。落ち着いた。別人のようになった。
どの言葉も正しい気がして、どの言葉も口にするのが怖かった。
「結果に強い衝撃を受け、一時的に感情が動かなくなっている可能性もあります」
エマ叔母様は執務室の扉を見つめた。
「警戒を解いてはいけません」
「はい」
私も、そう思う。
屋敷へ戻るまで我慢していただけかもしれない。閉ざされた執務室の中で、旦那様と激しく言い争っているかもしれない。
そう考えていた時、執務室の扉が開いた。
先に出てきたアレス様の表情は、入る前と変わらず落ち着いている。旦那様と争った様子もなかった。
「お話は終わりましたか?」
「ああ」
「お食事のご用意ができております」
その時、アレス様のお腹が大きな音を立てた。
アレス様はわずかに顔をそらし、用意できるだけ食事の量を増やしてほしいと頼んだ。
どうして急にそれほど必要なのか、意味は分からなかった。それでも、いつものように命令だけを残すのではなく、「頼む」と言われた。
アレス様と共に、食堂へ向かった。
◇
食堂の扉を開けたアレス様は、長い食卓を前に立ち止まった。
怒っているようには見えない。
湯気を立てるスープ。焼きたてのパン。香草をまぶした肉。野菜と果物。
一つずつ確かめるように見つめ、その金色の瞳が、ゆっくりと潤んでいった。
「アレス様?」
呼びかけても、すぐには返事がない。
席に着いたアレス様へ、スープをよそう。震えていたのは、器を持つ私の手ではなく、さじを持つアレス様の手だった。
一口。
アレス様の頬を、涙が伝った。
やはり、お口に合わなかったのだ。
私はすぐに頭を下げた。
「申し訳ございません。別のお料理をご用意いたします」
「なぜだ?」
「涙が出るほど、お嫌いな味だったのでは……」
「逆だ。美味いから泣いている」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
アレス様は涙を拭わず、もう一度スープを口へ運んだ。大切なものを味わうように、ゆっくりとかみしめている。
「ニーナ」
「はい」
「ありがとう」
手にしていた給仕用の布を、落としそうになった。
アレス様から初めていただいた感謝の言葉だった。
うれしいより先に、どう返せばよいのか分からなくなる。
「……もったいないお言葉でございます」
ようやく、それだけを答えた。
アレス様は、驚くほどたくさん召し上がった。スープを何度もおかわりし、パンも肉も野菜も、最後の果物まで残さなかった。
その姿を見ていたカイル様が、お腹が破裂しないかと心配するほどだった。
けれど、食事より驚いたことが、その後に起きた。
「リリア。今まで、怖い思いをさせて悪かった」
どうして今日は優しいのかと尋ねたリリア様へ、アレス様が謝った。
カイル様にも。旦那様にも。奥様にも。
椅子から下り、家族へ向かって深く頭を下げた。
奥様はアレス様を抱き締めて泣いた。
カイル様は、本当にもうたたかないのかと、何度も確かめた。
リリア様は、自分のお菓子をもう取らないと約束させた後、小さな手で一つだけ分けてあげていた。
アレス様は、それを笑わず、怒らず、大切そうに口へ入れた。
私は食卓の後ろに立ったまま、何もできなかった。
涙を拭うことも、笑うこともできず、ただ見つめていた。
謝った言葉が本当かどうかは、まだ分からない。
それでも、奥様に抱かれたアレス様の顔だけは、うそをついているようには見えなかった。
その表情は、十二歳の少年のものではなかった。
ずっと帰りたかった場所へ、ようやく帰ってきた人の顔だった。
◇
食事を終えたアレス様は、一度ご自分の部屋へ戻った。
「少し、一人にしてくれ」
その言葉に、胸が再び強く打った。
以前のアレス様が一人になりたいと言う時は、決まって機嫌が悪い時だった。部屋から大きな音が聞こえ、後で入れば、花瓶や椅子が壊れていることもあった。
「心配するな。物には当たらない」
私の顔に出ていたのだろう。アレス様はそう付け加えた。
「父上に呼ばれたら知らせてくれ。それまでは、誰も入れるな」
「承知いたしました」
扉が閉まる。
私はしばらく、その前から動けなかった。
中から何かが壊れる音は聞こえない。怒鳴り声もない。
それでも離れることができず、廊下の少し先にある窓辺で、用もないのに花台を拭き続けた。
やがて旦那様から、アレス様を広間へ呼ぶよう言いつかった。
扉をたたき、中へ入る。
机も。椅子も。鏡も。水差しも。何一つ壊れていなかった。
その事実に安心した直後、アレス様が私をじっと見つめた。
何か失敗しただろうか。
また反射的に謝りそうになった時、アレス様が尋ねた。
「ニーナ。お前は《料理》スキルを持っているのか?」
「はい」
どうしてご存じなのだろう。
十二歳の鑑定の儀で《料理》と火属性を授かったことは、以前にもご報告した。けれど、その時のアレス様は、私には関係のないくだらない話をするなとおっしゃった。
忘れていると思っていたし、実際、今の表情を見る限り覚えてはいないようだった。
問われるまま、以前の出来事を話した。
アレス様はしばらく黙った後、真っすぐ私を見た。
「悪かった。見る目がなかったのは俺だ」
今日、何度目の驚きだっただろう。
「お前の力が加わった料理は美味かった。これからも頼む」
うれしかった。
私が好きで続けてきたことを、初めてアレス様に認めていただけた。
その一方で、まだ怖かった。
明日になれば、すべて忘れているかもしれない。機嫌が変われば、またくだらないと言われるかもしれない。
それでも私は、料理が好きだと答えた。
アレス様は笑わなかった。
火属性の魔法も見せてほしいと言われ、小さな《着火》を使った。ろうそくよりわずかに大きい、不安定な炎はすぐに消えてしまったけれど、アレス様は失望しなかった。
指先と炎を、真剣な目で見つめていた。
弱いところではなく、その先にある何かを探しているようだった。
不思議だった。
今朝までのアレス様は、自分以外の人間に何ができるのかなど、一度も知ろうとしなかったのに。
◇
広間には、屋敷を支える主な人々が集められていた。
旦那様から、アレス様には自分の傷を急速に治す希少な《再生》の力があると告げられた。先ほど執務室で確認したのだという。鑑定水晶には映らなかった力であり、詳しいことは屋敷の外へ漏らしてはならないとも、厳しく命じられた。
さらに旦那様は、アレス様が冒険者を目指し、当面は領内で身体を鍛えることになったと伝えた。
騎士団副団長のルーク様が、基礎体力の鍛錬なら協力できると申し出た。するとアレス様は迷うことなく、明日の日の出前から頼むと答えた。
冗談を言っている様子はない。
今朝まで、木剣を持つことさえ嫌がっていた方が、本当に自分から修練を始めようとしている。
だから急に落ち着いたのだろうか。
鑑定水晶に映らなかった力を知り、自信を取り戻しただけなのだろうか。
そう考えれば、少しだけ納得できる。
けれど、《再生》の力が見つかっただけで、人は今まで傷つけてきた相手へ謝れるようになるのだろうか。
旦那様の説明が終わり、皆が退出しようとした時、アレス様が呼び止めた。
オルドさん。若執事のトーマさん。エマ叔母様。ハンナさん。治癒師のエドさん。騎士団長のダリオ様と、副団長のルーク様。
そして、私。
一人ずつ確かめるように見渡した後、アレス様は自分がこれまでしてきたことを認めた。
「俺は今まで、皆を理不尽に傷つけてきた。許してくれとは言わない。これからの行動を見ていてほしい。本当に、申し訳なかった」
怒鳴ったこと。
物を投げたこと。
理不尽な命令で、皆の仕事を増やしたこと。
そのすべてを認め、アレス様は深く頭を下げた。言い訳はしなかった。
長くアークハルト家に仕えてきたオルドさんの目に、涙が浮かんだ。それでもオルドさんは、壊された花瓶や扉の代金はいずれ弁償していただくと、いつもの落ち着いた声で告げた。
トーマさんが、初めて少しだけ笑った。
ハンナさんは、食べ物を床へ捨てることだけは二度と許さないと言った。
そしてエマ叔母様は、誰よりも厳しい目でアレス様を見た。
「私は、言葉だけでは信用いたしません」
広間の空気が張り詰める。
私は思わず、エマ叔母様の袖をつかみそうになった。
今朝までのアレス様なら、その場で怒鳴っていたはずだ。
けれど、アレス様は静かにうなずいた。
「当然だ。そのようにしてくれ」
「……よろしいのですか?」
「かつての俺がしてきたことは、謝っただけで消えるものではない。これからの行動で、少しずつ信用を取り戻す」
エマ叔母様が目を見開いた。
私も、同じ顔をしていたと思う。
その後、明日からの食事を今日の三倍にしてほしいとアレス様が言い出し、ハンナさんに早速無茶を言うなと怒られた。
広間に、小さな笑い声が生まれた。
奥様が笑った。旦那様も、あきれながら口元を緩めた。オルドさんが涙を拭い、トーマさんとエドさんも顔を見合わせている。
アレス様を囲んで、屋敷の皆が笑っている。
そんな光景を見たのは、初めてだった。
私はうれしいはずなのに、胸が苦しくなった。
これが一日だけの夢だったら、明日からは今までよりもつらくなる。
優しい言葉を知らなかった時より、一度知った後で失う方が、きっと苦しい。
◇
夜。アレス様がお部屋へ戻られた後、私は使用人の控え室へ向かった。
エマ叔母様は翌日の仕事を記した帳面に目を通している。ハンナさんは、早朝の訓練前に出す軽食について、私と相談するために残っていた。
「パンと卵、それから温めた乳でどうだい?」
「はい。訓練の直前ですので、量は控えめにした方がよいと思います」
「三倍と言われたけれどね」
ハンナさんが肩をすくめた。
「訓練の後には、しっかり食べてもらおう」
軽食の器を決めるため、ハンナさんが木の器と、洗い終えた白いスープ皿を机へ並べた。白い皿は夕食に使ったもので、欠けてもいない。投げられてもいない。きれいに空になった、いつもの器だった。
「明日の軽食は、木の器にするかい?」
ハンナさんに問われ、私は少し迷った。
陶器より、木の器の方が割れにくい。昨日までなら、迷うまでもなかった。
「……いつもの器でお願いいたします」
私は白い皿を一枚、朝食用の盆へ置いた。
アレス様を信じたわけではない。
ただ、最初から壊されるものとして用意することが、少しだけ悲しく感じられた。
ハンナさんは白い皿と私を見比べたが、何も言わず、追加のパンを焼く支度をすると言って席を立った。
相談を終えたハンナさんが部屋を出ると、エマ叔母様が帳面を閉じた。
「ニーナ」
「はい」
「今日のことで、アレス様が完全に変わられたと考えてはいけません」
「分かっております」
「人は、一日で別人にはなれません」
もっともな言葉だった。
言葉なら、誰でも変えられる。
謝るだけなら、一日でもできる。
本当に変わったかどうかは、アレス様ご自身がおっしゃったとおり、これからの行動で判断するしかない。
「専属侍女を外れたいのであれば、私から旦那様へお願いします」
エマ叔母様の言葉に顔を上げた。
「あなたは侍女です。仕事には責任があります。ですが、怖さまで一人で耐え続ける義務はありません」
今朝までの私なら、その申し出に救われていたかもしれない。
けれど今、胸に浮かんだのは、配置が変われば明日のアレス様を一番近くで見られなくなるという思いだった。
「まだ、外れたくありません」
自分の口から出た答えに、私自身が一番驚いた。
「すべてを信じたわけではありません。ですから、もう一日だけ、近くで見ていたいのです」
エマ叔母様はしばらく私を見つめ、それから静かにうなずいた。
「まだ、怖いですか?」
エマ叔母様の声が、侍女長から叔母のものへ戻った。
私はすぐに答えられなかった。
今朝の足音を思い出す。
神殿で向けられた、知らない人のような目を思い出す。
美味いと涙を流した顔。奥様に抱き締められた時の顔。私の小さな炎を笑わずに見つめていた顔も。
「……怖いです」
正直に答えた。
「ですが、明日の朝が、少しだけ楽しみでもあります」
「楽しみ?」
「明日も、挨拶を返してくださるでしょうか」
エマ叔母様が目を瞬かせる。
やがて、厳しかった表情をほんの少しだけ緩めた。
「そう。では私も、明日のアレス様を見てみましょう」
そして、いつもの侍女長の顔へ戻る。
「それを確かめるためにも、今夜は早く休みなさい」
「はい」
部屋を出る前に、私はもう一度だけ明日の予定を確認した。
日の出前に、訓練着を届ける。
パンと卵、温めた乳を用意する。
いつもと同じように扉をたたき、朝の挨拶をする。
それだけだ。
けれど、その夜はなかなか眠ることができなかった。
◇
翌朝。
東の空が白み始める前に、私はアレス様の部屋の前へ立った。
腕には、きれいに畳んだ訓練着を抱えている。
廊下は静かだった。
扉の向こうから怒鳴り声は聞こえない。何かを壊す音もない。
けれど、昨日の優しいアレス様が、今日もそこにいるとは限らない。
たった一日で人が変わるはずはない。
もし扉を開けた時、すべてが元に戻っていたら。
そう考えると、扉をたたく指が動かなかった。
胸の奥で、昨日いただいた言葉がよみがえる。
お前は何も悪くない。
美味い料理をありがとう。
これからの行動で、信用を取り戻す。
私は小さく息を吸い、扉をたたいた。
「アレス様。お目覚めでしょうか?」
「起きている。入れ」
昨日と同じ、落ち着いた声だった。
「失礼いたします」
扉を開ける。
アレス様は、すでに寝台から起き上がっていた。黒い髪には少し寝癖がつき、金色の瞳にはわずかに眠気が残っている。
その姿は、どこから見ても十二歳の少年だった。
私は訓練着を抱え直し、頭を下げる。
「おはようございます、アレス様」
「ああ。おはよう」
挨拶が返ってきた。
それだけだった。
ただ、それだけのことで、胸の奥にあった固いものが、少しだけほどけていく。
昨日までなら、扉の向こうの足音を聞いて、次に謝る言葉を探していた。
けれど今朝の私は、訓練へ向かうアレス様の足音を聞きながら、明日も同じ挨拶を交わせたらいいと、ほんの少しだけ願っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
本作は、本編『怠惰傲慢だった貴族やり直しで世界を救う』の始まりを、専属侍女ニーナの視点から描いた独立短編です。
ニーナには、アレスがなぜ突然変わったのか分かりません。
彼が何を失い、なぜ十二歳から人生をやり直し、今度こそ何を守ろうとしているのか。その答えは、本編で描いています。
一度は滅びた世界で、人類最後の一人となったアレス。彼がニーナや家族との信頼を取り戻し、仲間を集め、滅びの運命へ立ち向かっていく物語です。
この先のアレスとニーナも見届けていただけましたら、ぜひ本編へお進みください。
▼本編はこちら
『怠惰傲慢だった貴族やり直しで世界を救う』
https://ncode.syosetu.com/n7268mo/1/
ニーナがまだ知らない、アレスの本当のやり直しから物語は始まります。




