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第46話 東京レイド⑤

 薄明かりの下、丈一郎は東京駅の駅舎上に静かに降り立った。数時間前まで深い闇に包まれていた空は、ようやく東の地平をかすかに照らし始めている。


 眼下に広がる東京――見慣れたはずの駅前広場も、通りも、瓦礫と放置された傷だらけの車と、何より腐臭を放つ黒い塊のような“異形の者たち”に埋め尽くされていた。夜明けの薄闇に、無数の影が蠢き、時折聞こえる不気味な呻き声だけが、この街の変貌を告げていた。


 ビルの隙間、横転したバスの影、交差点のど真ん中――あらゆる場所に、ゾンビがいる。潰れた顔、引きずる足、千切れた四肢。それらの悍ましい姿が、視界の端から端まで埋め尽くしている。


「……よし。やるか」


 丈一郎は小さく息を吐くと、挑発スキルを起動した。


 その瞬間、地の底から突き上げるような異様な気配が辺りを満たす。それは空気そのものを震わせ、遠くのビル群の窓ガラスまでを共鳴させるかのようだった。


――ガシャン、ガシャンと、次々にビルの窓が砕ける音。


――都市の地下全体がうめくように地下から突き上がる呻き声。


――割れたビルの窓から、まるで雨霰のようにゾンビが次々と転げ落ちてくる。中には落下した衝撃で、まるで熟れた果実のように頭部が潰れて動かなくなる個体もいたが、後続のゾンビはそれらを乗り越え、文字通り山を築いていく。


 けれど、そんなことは関係なかった。“反応した”――それが、始まりの合図だ。視界を埋め尽くす黒い点々が、一斉にざわめき始め、次第に大きな渦を巻くように動き始めている。それらは共鳴するように、駅舎の上に立つ一人の男を目指してゆっくりと、しかし確実に群れをなして押し寄せてきていた。


 丈一郎は、ある程度数が集まってきた様子を見届けると、「お集まりの皆さ〜ん、東京ウォーキングツアー、ご案内開始〜」と、ふざけた口調で言い残し、そのまま駅舎の上を南へと歩き出した。


 山手線の高架に沿って、丈一郎は南下し、新幸橋から国会通りへと降りる。通りを進みながら時折振り返ると、その背後には黒い波のようなゾンビの群れが、うねりを上げて追随してくる。


 挑発スキルの効果は絶大だった。単発でも強力な誘引力を持つこのスキルを、数分おきに“刻む”ように発動することで、周囲の建物内や地下に潜んでいたゾンビすら次々と姿を現し、列に加わっていく。


 また、丈一郎は、ただ歩いているわけではない。地上に現れる無数のゾンビたちを、街路樹を蹴り、電柱を踏み、ビルの看板を伝って、高低差を活かした軌道で避け続ける。


 ゾンビの頭上を跳び越え、渦を巻くような流れの中を泳ぐように進む――それはもはや、舞踏に近い戦術移動だった。彼の後を追うゾンビの呻き声が、彼が通過した軌跡をなぞるように響き、街全体が彼の一挙手一投足に反応しているかのようだった。


「……ったく、数が多すぎて道が見えねぇな」


 つぶやきながらも表情は変わらない。前へ、前へ――着実に歩を進めていく。


 霞ヶ関駅を過ぎ、桜田通りを再び南下。三田・田町方面へと進む。芝公園に差し掛かる頃には、その景色は、“線”から“面”へと変貌していた。


 まるで都市の血管を黒い血液が逆流しているかのように、道幅を超えて広がり、縦横無尽に渦を巻く、黒い奔流。密度は跳ね上がり、ゾンビの体同士がぶつかり合っている音すら聞こえる。それは最早、個別の呻き声や足音ではなく、地を這う巨大な生物の胎動のようだった。


 道路に放置された車はその黒い群れに飲み込まれ、瞬く間に押し潰され、歪み、煙と埃を巻き上げながら、まるで形を失った鉄の塊として消えていく。通過した街は、その黒い津波によって根こそぎ破壊され、まるで災厄そのものが通った後のように変貌している。


(……すげぇな。前も後ろも上も下も、見渡す限り全部がゾンビって状況だ)


 ビルから飛び出すゾンビと共に、地下通路から這い上がるように現れたゾンビが束になって突っ込んできたが、丈一郎はそれらを滑るようにかわしながら周囲に視線を巡らせた。時計を見ると東京駅を出発してから二時間がすぎていた。日も高く登り始めている。


「――もう少しで折り返し地点ってとこか。さて、行くか」


 丈一郎はそう呟くと、桜田通りから山手線と並走する第一京浜に入り、品川へと向かって歩き始める。



*  *  *



 新宿駅ビルの屋上にある展望スペース――仮設の観測拠点として整備されたその場所から、東の地平を望むことができた。双眼鏡を構えた新海が、まぶたを細めて口を開く。


「やー、すごいっすね。さすが丈ちゃん」


 視線の先、都心を南から北へとうねる黒い帯――ゾンビの群れが品川を越え、今まさに恵比寿方面へと進行していた。


 その姿はまるで、生きた大河のようだった。左右にも前方にも、無数の個体が次々と合流し、群れは横1キロ、縦5キロにも及ぶ巨大な楕円を形成していた。


 通過した街は、圧壊した車と倒れた看板や街路樹、破壊された建物で埋め尽くされ、煙と埃を巻き上げながら、まるで災厄そのものが通った後のように変貌している。


 新海の軽口とは裏腹に、隣の恵理は一言も発さず、ただ黙って群れを見つめていた。その横で、杉谷も後ろで手を組み、じっと観察を続けている。


 この場において、彼らだけが“異様な光景”に動じる様子を見せなかった。丈一郎のパーティとして、これまで幾度となく“常識外れ”の状況を経験してきた彼らにとって、この光景もまた――驚きではあっても、受け入れられる範囲のものだった。


 だが、その背後――他の探索者たちや政府関係者からは、驚きと動揺が抑えきれずにあふれ出していた。彼らの間には、張り詰めた沈黙の中に、不安と恐怖が渦巻く重い空気が漂い、誰もが、目の前の信じがたい光景から目を離せずにいた。特戦群の南雲が、ぽつりと呟く。


「……俺、病み上がりなのにまた死にかけるかも。いや、今度は死ぬな、普通に」


 それにすかさず、隣の岸本が冷静に返す。


「でも南雲さんも、彼と同じ戦士職ってことは……鍛えれば、同じくらいできるってことですよね?」


「無理無理無理無理……!」


 首をぶんぶん横に振る南雲。周囲の笑いを誘うはずのやり取りも、今は彼らの顔に浮かぶ蒼白さから、冗談として受け止められないほどの緊張が走っていた。

 一方、中谷 海翔は、悍ましい光景に足がすくみそうになるのをこらえながら、黒い波を見据えていた。喉が張り付くような感覚と、心臓の激しい鼓動。


(……あれが、桐畑丈一郎さん)


 たった一人の人間が集めたゾンビの数。それをかわす動き。その圧倒的な存在感。自分と同じ人間のはずなのに、何かが決定的に違う。それでも。


(俺も、ああなりたい。誰かを……守れるように)


 拳をぎゅっと握りしめ、唇を噛んだ。


 周囲の政府職員たちは、ある者は顔面蒼白に。ある者は無言で座り込み、さらにはあまりの恐怖に気絶する者まで出始めていた。その中、神谷は一歩も動かず、冷静にその状況を観察していた。


「……まさか、ここまでとは」


 胸の内に浮かんだのは、賞賛と――わずかな畏れだった。



*  *  *



 レイド参加メンバーは、ゾンビ誘導の最終目標地点である代々木駅周辺を囲むように、複数のビルに分かれて展開していた。


 新宿、高島屋ビル屋上。篠原拓馬率いる警視庁チーム、篠原隊の面々は息を詰めて眼下に広がる光景を見据えていた。手すりに置いた指先には金属のひんやりとした感触が伝わり、背筋には緊張からか冷たい汗が滲む。時折吹き抜ける風はまだ冬の名残りを引きずっているかのように冷たく、それが彼らの肌を刺して意識を研ぎ澄ませた。


 誰もが双眼鏡、あるいは肉眼で、“街そのものを覆い尽くさんとする黒い津波”――おびただしい数のゾンビの群れを凝視していた。その中心には、まるで神話の登場人物のように、たった一人でその全てを引き連れて進む男、桐畑丈一郎の姿があった。


 あまりにも現実離れした光景。双眼鏡のレンズを通しても全貌を捉えきれないほどのその黒い塊は、遠方の大通りをビルを飲み込むように進み、ゆっくりと、しかし確実にこちらへ向かってきている。距離にして10kmほど離れているにもかかわらず、その絶望的なまでの規模と、全てを蹂躙し尽くさんとする進行が、言葉にならない『圧』となって見る者の精神を締め付けていた。


 その息苦しいまでの沈黙を最初に破ったのは、平野航だった。こめかみを押さえながら、乾いた引き攣るような笑いを漏らした。その顔は青ざめ、冷静さを保とうと努めているのか、何度も眼鏡の位置を直している。


「……あの桐畑という男が本気で敵対する気になったら、この大群ごと我々にけしかけてきても何ら不思議はありませんね……笑えない規模ですよ、これは」


 皮肉を口にしながらも、その声は微かに震え、双眼鏡を握る指先は関節が白くなるほど力が入っていた。


「ひ、平野君、縁起でもないこと言わないでくださいよ! ただでさえ、こんな……」


 ぽっちゃりとした頬を恐怖に引き攣らせ、吉野直哉が咎めるように言った。その声自身も上ずっており、柔道で鍛えた大きな体躯を小さくするように、ごくりと喉を鳴らした。


「……か、数え切れませんよ、あんなの……僕たちだけで、本当に抑えられるんでしょうか……」


「弱音吐いてる暇があったら状況把握に努めてください吉野さん! ……けど、確かにこれは……」


 今泉玲が、鋭い眼光で桐畑の動きとゾンビの先頭部分を交互に見比べながら、きつく言い放った。その表情は固く、言葉とは裏腹に彼女も恐怖していることが誰にでも伺えた。


「……あの男、一人で本当にアレ全部をコントロールしてるっていうの? 馬鹿げてる。……だけど、杉谷さんとアイツがついてるのもわかるわ。世界をまきこむ、とんでもない切り札になりうるもの」


 二階堂瑞希は自身の腕をだき、震える体を抑えながら状況を分析する。


 篠原は、その間も一言も発さず、身じろぎもせず、ただ黙ってその黒い津波の先端を見据えていた。



*  *  *



 一方、新宿駅の喧騒から少し南に位置するサザンタワー。その屋上では、藤田宏率いる後方支援チーム――通称・藤田隊が、春の冷たい朝の風を遮るものなく全身に受けながら展開していた。


 吹きさらしの屋上の縁からは、遠く南方に広がる黒い染みが、じりじりと領域を広げているのが見える。チームの構成は、リーダーの藤田に加え、警視庁第四機動隊から派遣された村上晋と田辺裕之、そして民間協力者の七瀬舞と広瀬夏芽だ。


「……」


 七瀬舞は、壊れた看板の残骸のそばに静かに立ち、遠い空の下で蠢く絶望的な光景をただ見つめていた。その瞳には、恐怖や驚愕を超えた、ただひたすらな“祈り”だけが宿っているようだった。


 その傍らでは、広瀬夏芽がガタガタと震える膝を抱えるようにして床に座り込んでいた。舞から桐畑丈一郎という存在と、ブリーフィングで今回の作戦のことは聞かされていた。


 しかし、実際に目の当たりにした“それ”が引き連れる圧倒的なまでの『圧』は、17歳の彼女の想像を遥かに超えていた。手塩にかけて作り上げた自身の戦闘服の感触も、今は気休めにしかならない。


「……うそ……でしょ……。あんなのが、本当に……こっちに来るの……?」


 か細く漏れた言葉に、舞がそっと近寄ると夏芽の手にふれ、力づけるように優しく握った。


 第四機動隊の制服に身を包んだ村上と田辺は、そんな民間人の少女たちの様子を気遣いつつも、プロフェッショナルに徹し、それぞれ双眼鏡で南方を注視し続けていた。彼らは暴徒鎮圧や災害救助など、数々の修羅場を経験してきたが、眼前の光景はそれらとは比較にならない異質さを放っていた。


「……田辺さん、まるでデモ隊ですね」


 村上が、低い声で隣の田辺に呟く。


「ああ、だが規模は桁違いだ。広がりから見てもすでに200万は超えている。デモどころか軍隊の侵攻でも歴史上類を見ないほどだろうな。……藤田班長、これは我々の想定を遥かに超えていませんか」


 田辺もまた、緊張を滲ませた声で藤田に報告した。


「分ぁかってるよ。だが、街を取り戻すために、必ずいつかやるしかねぇんだよ。今がその時だ、覚悟決めろ」


 藤田宏は、腕を組み、鋭い目でその黒い染みを睨みつけていた。熱血漢の彼も、さすがにこの光景には言葉を失いかけていたが、リーダーとして、そして年長者として、ここで弱音を吐くわけにはいかない。


「いいか、お前ら! 民間の二人はまず自分の身の安全を第一に考えろ! 村上、田辺は周囲の警戒を怠るな! 何が起きても対応できるようにしておけ!」


 力強い声で指示を飛ばし、無理やりチームの士気を鼓舞する。


 こうして、各隊がそれぞれの持ち場で息を潜め、巨大な脅威が目標地点へ到達するのを待っていた。


 目標地点への到達予定時刻まで残り一時間を切る。北進を続けていた黒い津波の先頭が、渋谷のスクランブル交差点を含む中心街区にまさに差し掛かろうとしていたその時だった。


――その瞬間は、まるで悪夢の始まりを告げるファンファーレのように、不意に訪れた。


『緊急! 対象の移動速度が急上昇! これは…!』


 全隊員のヘルメットに装着された通信機から、切羽詰まった観測班の声が叩きつけられるように響き渡った。


「何ぃ!? ゾンビが加速!?」


 藤田が叫び、村上と田辺も即座に双眼鏡のピントを合わせ直す。


 それまで、遠い地平をゆっくりと這うように見えていた黒い波が、双眼鏡の視野の中で明らかにその速度を増し、渋谷駅周辺のビル群に差し掛かろうとする頃には、突如として一斉にうねり始めた。まるで一つの巨大な意志に突き動かされたかのように。

 あの病院のミッションで目撃された夜以来、決して走るはずのなかったゾンビたちが、地響きのような轟音を立て、このタイミングで一斉に“走り出した”のだ。

 それは、もはや誘導された群れなどという生易しいものではない。解き放たれ、暴走を始めた悪夢の具現。絶望が形を取り、圧倒的な速度で眼前に迫ってくる瞬間だった。

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足音だけで騒音やばそう
ダッシュし始めた!? これは想定内なのか、想定外なのか… コントロールから外れたならヤバすぎるな…!
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