第47話 東京レイド⑥
渋谷駅前、スクランブル交差点。丈一郎は、センター街入り口の巨大な看板の上にしゃがみ込み、その眼下に広がる街の様子を冷徹な眼差しで見つめていた。
すでに日は高く、無慈悲な陽光が、うごめく黒い群れをまっすぐ照らしつけている。鼻腔を襲う強烈な腐臭。遠く、しかし絶え間なく響く呻き声。肉が擦れ合うおぞましい音。時折、ビルから叩きつけられるガラスの破砕音。そして、全てを呑み込むかのような、低く、どこまでも濁った波の音のような足音が、渋谷全体を覆い尽くしていた。
全てが渦巻くなか、丈一郎はまるで他人事のように、ごく自然な口調で呟いた。
「……すげぇ数になってきたな」
その言葉は、控えめに聞こえたが、彼の目の前には想像を絶する光景が広がっていた。数え切れないほどのゾンビが、道路を埋め尽くし、アスファルトの隙間すら見えないほどだった。
恵比寿方面から流れ込んできたゾンビの列は、まるで黒い川の流れのように、宮益坂下の交差点を回りスクランブル交差点へと雪崩れ込んでこようとしている。
それだけではない。公園通り、道玄坂、金王坂、宮益坂、井の頭通り――渋谷のあらゆる通りから、絶え間なくゾンビが湧き出してくる。それぞれが別の流れを持ちながら、まるで巨大な吸い込み口に引き寄せられるかのように、今まさに交差点の中心という一点へと集中していく。
「こりゃあ……まさにスクランブルだな」
自嘲気味な冗談めかした言葉が、乾いた喉から口をついた。だが、そのときだった。
恵比寿方面から来たゾンビの先頭集団が、スクランブル交差点に向けて、山手線高架下に差し掛かった――まさにその瞬間、それまで緩慢に蠢いていた群れの動きが、突如としてうねるように変化した。
「……は?」
一瞬、丈一郎は自分の目を疑った。次の瞬間には、その異様な動きが周囲に連鎖していく。まるで細胞分裂でも起こすかのように、交差点全体が粘りつくような黒い塊から、制御不能な“奔流”へと変貌していた。
地響き。地面が割れるかのような轟音が、脳髄に直接響く。ゾンビ同士の肉がぶつかり合う鈍い音は、まるで骨が砕けるような軋みに変わる。
あちこちのビルの窓ガラスが爆ぜるように割れ、破片が雨のように降り注ぐ中、上階からゾンビが次々と落下する。落下したゾンビは、後続の群れの猛烈な勢いに叩きつけられ、まるで熟れた果実のように弾け、文字通り肉塊となって踏み潰されていく。
それまで重く、動きの遅かった群れが、まるで突然“何か”の指示を受けたかのように、一斉に走り出したのだ。
「突然なんだよ!? てか、どういう条件で、こいつら走ってんだよ!? 嫌がらせか!?」
丈一郎が、これまで見せたことのない動揺を隠しきれずに叫ぶ。その時、彼の足元がギシリと嫌な音を立てた。
「……っ、やべ――」
ゾンビの波に押され、丈一郎が立っていたセンター街の巨大な看板が、質量に耐えきれず大きく傾ぎ始めたのだ。その足場は、文字通りゾンビの密度に食い破られ、今にも崩落しようとしていた。
丈一郎は即座に判断を下した。傾く看板の反動を使い、地面を蹴りつけるかのようにビルの壁面へと跳躍する。超人的な身体能力で壁面を駆け上がり、近くの空調ユニットへと軽々と飛び移った。
「呑気に観察してる場合じゃねえ……!」
呼吸を整える間もなく、加速した群れが津波のように押し寄せてくる。その奔流に呑み込まれれば、丈一郎とて無事では済まないかもしれない。
(ここは一発、大技で突破する!)
脳裏に、タイタン戦後に捕食スキルで手に入れた、職業“巨人”の能力がよぎる。このスキルのためだけに、職業追加ボーナスで得たAPのほとんどをINTに注ぎ込んできた。
そして今、その投資が報われる時が来た。丈一郎は、着地目標の路面を睨みつけ、強く拳を握りしめる。
「……巨神鉄槌!」
その名の通り、本来は本物の巨人がその巨体をもって振るう桁外れの一撃だ。人間である丈一郎の身体で直接再現できるはずもない。
しかし、このスキルは使用者の魔力を触媒として、巨大な腕そのものを具現化させることで再現するという特性を持っていた。
最初に試した時は、まだINTが低く、注ぎ込める魔力もわずかだった。その結果、現れたのは骨と皮ばかりで、およそ巨人のものとは思えないヨレヨレの細腕。それを見た新海に、「ちょ、おじいちゃんの腕っすか(笑)」と腹を抱えて笑われた屈辱は、今でも思い出すと腹が立つ。
結果、新海のからかいにムキになった丈一郎は、意地になってAPをINTに注ぎ込み、100の大台まで乗せた。全ては、膨大な魔力を注ぎ込み、この技を完成させるためだけに。
その甲斐あって――今、丈一郎の肩越しに現れたのは、あの頃の貧相な腕とは比べ物にならない。魔力を纏うことで漆黒の雷を激しく纏った、まさに巨神の腕と呼ぶにふさわしい幻影。それが、眼下の地面めがけて容赦なく打ち下ろされた。
轟音と共に、アスファルトが大きく陥没し、巨大な穴が口を開けた。雷撃に打たれたゾンビたちが感電して動きを止め、大量のゾンビが道路下に現れた地下通路へと吸い込まれていく。凄まじい衝撃波と反動で、コンクリートの破片と黒い霧が舞い上がる。しかしそれでも、ゾンビの流れは完全に止まることはない。後続の群れが、穴の縁を乗り越え、さらにその穴に落ちていく。
この一撃はMPを使う上、クールタイムが長く連発は効かない、まさに切り札だ。だが、その絶大な“火力”はこの場面においてこの上なく効果的だった。
「悠長にウォーキングツアーやってる場合じゃなくなったな。こっからは、東京フルマラソンといきますかね」
冗談を言いながらも、丈一郎は次々と押し寄せるゾンビの群れを前に、看板を飛び、電柱を蹴り、ビルのテラスを駆ける。それはまるで、重力と常識から解き放たれた、高速のパルクールだった。
(この流れでそのまま新宿駅に向かったら……拠点ごと飲まれちまうよな)
冷静な判断が、彼の脳裏をよぎる。“自分は避けられる”。だが、加速したゾンビの群れがこのまま新宿へと到達すれば、仮設拠点にいる仲間たちや民間人にとって、致命的な脅威となるだろう。彼らの顔が、脳裏に浮かんだ。
ビルを蹴り上がり飛び上がった丈一郎は、宙空で体を捻って回転させながら周囲を見渡す。上下逆転した視界に、マークシティの巨大なビルが映り込む。
(京王線……あっちなら、線路に沿って誘導も効くし、神泉のトンネルで群れの動きも制限できる。一旦、西へ抜けるのが良さそうだな)
新たな決意を胸に、丈一郎は路地を蹴って高く跳び、加速したゾンビの群れを引き連れながら、走り出した。
その背後には、変貌した渋谷という“濁流”が、唸りを上げながら押し寄せ続けていた。
* * *
新宿駅ビルの屋上に設置された仮設観測拠点。静かな緊張に包まれていたその場所に、恵理の焦りを含んだ声が響き渡った。
「うそ……群れの速度が早くなってる!?」
各ビルの屋上にいる面々は、誰もが異常事態に気がついていた。それほど、劇的な変化が街を覆い尽くす黒い塊に起きていたからだ。舞と夏芽は身を寄せ合うようにして、不安げにその光景を見つめている。
特戦群の南雲は頭を抱え、「嘘だろ、あれだけの数が走ってきたら、どうしようもねぇぞ……」と呻く。岸本は無言で南雲の肩を掴み、中谷 海翔は口元を固く引き締めて、瞳に不退転の覚悟を浮かべていた。
新宿駅のビルにいても、かすかに地響きが伝わっている。それはまさに、遠くから迫る異常な速度の濁流そのものだった。
「観測班、状況報告急げ!」
政府職員が慌ただしく通信機に怒鳴るように指示を飛ばしている。その無線を通じて、高島屋ビルの屋上に布陣する篠原隊の混乱が聞こえてくる。
『杉谷さん! 予備プランに切り替えますか!?』
慌てた様子の今泉に次いで、吉野の怯えた声が割り込む。
『ゾ、ゾゾ、ゾンビってあんなに早く走れるんですか!?』
一方、サザンタワーの藤田隊からも驚愕の声が響いていた。
『信じられん…! あいつ、あの状況で軽々とかわしているぞ…』
だが、そのどんな混乱の中でも、杉谷だけは微動だにしなかった。彼は双眼鏡から目を離し、静かに口を開く。
「……まずは状況に対応する手を打たねばなりません。ゾンビが走り出した理由を考えるのは後回しにしましょう」
その冷静な声音は、周囲の動揺を落ち着かせるような効果があった。杉谷は動きを変えた群れを見やると、言葉を続ける。
「桐畑さんもおそらく同じ判断をしたはずです」
そう言うと、再び双眼鏡で丈一郎の動きを追う。視線の先では、黒い塊は渋谷の中心部を離れ、京王線に沿って西へと移動を開始している。
「――やはり。彼は群れを新宿から遠ざけようとしている」
杉谷は即座に状況を把握し、その意図を口にした。周囲の動揺した空気の中で、彼の言葉は際立って落ち着いていた。それは丈一郎への信頼から来るものなのか、それとも――ただ彼の冷静な観察眼がそうさせるのか、誰にもわからない。
ただ、その瞬間に杉谷がもたらしたのは、混乱の中にある唯一の指針だった。
「――なるほど、そういうことですか」
政府職員が不安げに顔を見合わせる中、杉谷だけが冷静に頷いてみせた。
「桐畑さんは、あえて迂回して我々に準備を整える時間を与えているのでしょう。しかも挑発スキルを繰り返しながら、我々に向かいかけていたゾンビたちまで西へと引き連れてくださっています。
おそらく、このまま京王線沿いに下北沢駅まで向かい、そこから小田急線沿いに新宿方面へ折り返してくるつもりなのでしょうね。移動速度と経路、そして我々の射線から想定される新たな目標地点は……25分後、代々木公園が最適ですね」
その冷静な分析と確信が、そばにいるパーティーメンバーにも伝わっていく。
「代々木公園、了解っす! 照準をそっちに変更できるよう準備するっす!」
新海のいつも通りの軽妙な声が響き渡り、魔導電重砲の照準が即座に調整されていく。
「代々木公園近くの支援拠点候補を探します!」
恵理の落ち着いた声も続き、静かな頼もしさが周囲を勇気付ける。そのやり取りを、別々のビルに展開しているパーティーメンバーも無線から聞いていた。
サザンタワーにいる藤田は、緊張した面持ちのまま無線機を握り締める。
「さっすが、杉谷さん! 代々木公園ですね。直ちに移動できるよう準備します!」
藤田の横で、舞は無線から流れるパーティーメンバーの声を聞きながら、自分が知らない丈一郎たちの連携と絆を強く感じ取っていた。
(恵理も、ずっと一緒に戦ってきたんだね……)
心の中に小さな羨望と、それを超える決意が湧き上がる。
(でも、私だってこれからは一緒に戦える。私にしかできないことがあるはず――)
舞は拳を強く握りしめ、前を向いた。
一方、高島屋ビルに展開する篠原隊でも、無線から伝わる杉谷たちのやり取りが流れていた。
「ふん、杉谷らしいな。……そして桐畑丈一郎、か」
篠原は鋭い目つきで部下たちを見渡した。
「代々木公園だ。幸い地上のゾンビもそっちに流れてる。各自移動の準備を急げ!」
杉谷の明快な指示が再び無線を通じて響き渡る。
『私達を除く全隊、配置変更を開始してください。当ビル下で集合、全員で路線を辿って原宿方面へ。急ぎましょう!』
展開していたメンバーが、それぞれ迅速に新たな目標地点へ動き出す。先ほどまでの混乱は静かに収束し、士気が新たに燃え上がる。杉谷はその様子を確認すると、小さく頷きながら再び双眼鏡を構えた。
その視線の先、丈一郎は次の戦術を見据え、群れを巧みに誘導しながら低く響く轟音と共に京王線を西へと駆け抜けていた。
* * *
丈一郎が下北沢駅に到達した頃、後方の街はもはや本来の姿を失いつつあった。背後から押し寄せるゾンビの勢いは、狭く入り組んだ下北沢の街を簡単に呑み込んでしまう。古い木造家屋が押し潰され、柱が裂ける音が響き、土埃が舞い上がる。まるで、巨大な濁流が街ごと飲み込んでいるかのようだった。
「……無茶苦茶だな、ほんと」
丈一郎は小さくつぶやいた。そこに諦めに近い達観が滲んでいた。しかし、彼の足取りが止まることはない。
北口から北東へと伸びる商店街の二階建て、三階建ての建物の屋根を跳び伝い、まるで獣のように俊敏に進んでいく。軋む屋根を蹴り上げ、バランスを保ちながら東北沢駅へと向かって跳躍を繰り返す。彼の心にあったのは、自分に託された使命と、仲間たちへの信頼のみだった。
東北沢駅を越え、東口の先にある大山みはらし広場の高台に差し掛かった時、新宿の駅ビルが彼の正面に見えてきた。その瞬間、遥か遠方のビルの屋上から、一筋の眩い閃光が放たれたのが見えた。
――ズドォンッ……!
遅れて響く轟音が、東京の空気を震わせた。
「新海さんの……魔導電重砲か」
小さく呟き、丈一郎は思わず笑みを漏らした。
「さすが杉谷さんだな……読みが完璧だ」
その一撃は、杉谷が作戦の先を見据えた準備だけでなく、丈一郎の向かう新たな目標地点の目印として放たれたものであることはすぐにわかった。自分が伝えずとも状況を正確に理解し、完璧な連携をとっている仲間がいる。そのことが、丈一郎の胸を熱くした。
いよいよだ――。
丈一郎は口元を引き締めた。そして、小さく「ラストランだ」と呟くと、勢いを増したゾンビの群れをさらに巧みに誘導しながら代々木上原方面へ向かう。
代々木上原駅から都道へとルートを調整し、光線の落ちた代々木公園方面へと向かう。
その先に待っていたのは、代々木公園の南東にぽっかりと空いた巨大な穴。レール・キャノンの威力によって地面がえぐり取られ、深淵が口を開けている。彼の視界には、その穴の奥に広がるダンジョンの構造がくっきりと映し出されていた。
(3日前に再び拡大し始めたダンジョン……杉谷さんはそれがこの下まで広がっていることを、政府の情報から読んでいたわけだ)
丈一郎の背後には、数百万にも及ぶゾンビの群れが迫っている。巨大な生き物のような群れは、彼に吸い寄せられるようにして代々木公園へなだれ込んできた。
「さぁゴールだ! お前らまとめて連れていってやるよ!」
丈一郎は足に力を込めると、巨大な穴の縁から闇の中へと飛び込んだ。ゾンビの群れもまた、その勢いを止めることなく濁流となって闇の中へ続いていく。巨大な生き物が深い穴に吸い込まれていくように――。
東京環状戦域掃討作戦の最終段階がいよいよ始まる。
この話に出てくる、渋谷区立大山みはらし広場、実際に新宿〜代々木方面がよく見えます。小田急線は東北沢駅から先が地下化され、その出口は大山みはらし広場の真下に位置しており、そのため行き交う電車や都心のビル群、天気がいいとスカイツリーまで見られる良いスポットです。




