第9歯 夜明け
「おいおい、ジョニー。これから人喰いの妖に会うってのに、酒なんか飲んでる場合か?」
「維千くんがいると一滴残らず飲み干しちゃうじゃないか!今のうちにたらふく食べて、飲めるだけ飲んでおくんだよ!」
貧乏くさい台詞に、本当にこいつが大手魔道具メーカーのボンボンなのか疑いたくなる。きっと人喰い妖怪への恐怖を酒で紛らわせているのだろう。
「そーんなことより、いつになったら深雪太夫は来るんだい?こんなことなら維千太夫を連れてくるんだったよ」
「あいつがいると酒が飲めなくなるって、ついさっき言ったばかりじゃねーか」
「あ、そうだったー!そうだったー!あっは歯は〜」
ジョニーは正常な判断力を失い、どう重心をとっているのかわからないが、針金のような片足で大きな頭を支えクルクルと回り続けている。
「…こいつはもうダメだ。置いていこう」
「やめて?置いていかないで!待って…待ってよ!マイハニー!」
「しっかりしてくれ、ジョニー。さっきからどうも様子がおかしいんだ」
「僕も様子がおかし…オエエェエエ」
飲み過ぎたのか周りすぎたのか、ジョニーが滝のような嘔吐をしでかす。
「おいジョニー…どうすんだよ、これは」
ジョニーがぶちまけたものを片付けたいが、人を呼ぼうにもさっきからひとっ子1人見当たらない。途方に暮れていると、小見世のある方角にチラチラと明かりが見えた。
「あれは…火事か?おい、ジョニー!行くぞ」
「なんだい、メロウ。宴は始まったばかりだよ」
「ああ、畜生!もういい!おめえはここで待ってろ!」
「ふぇ?」
「くそっ!維千の奴…」
維千は無事だろうかと一瞬気にかけたが、脳内の彼は「余計なお世話です」と冷めた目をしている。
「まあ、あいつは自分で何とかするだろう。それよりも…」
紫光りする黒髪とすべてを包み込むような桔梗色のタレ目が脳裏を過ぎる。
「紫…楊!楊貴妃!」
メロウは人気のない廊下に駆け出し、いつの日か紫がこぼした彼女の本名を叫んだ。
少しでも彼の記憶に残りたい。できるなら遊女ではなく、ひとりの女として。
そう思ってぽつり溢した本当の名を彼は覚えているだろうか。
(メロウ…)
彼が私を忘れても、私はきっと彼を忘れることはできない。深い響きのある声も、逞しい腕が金糸の髪をかきあげる度に鼻をくすぐる木蓮の香りも。
「深雪太夫は今夜も主に会いはしんせん。仕事熱心もいいでありんすが、たまには少し休んでいきなんし」
メロウが遊郭に来ると、私は浮き足立つのを悟られないように口元を引き締めた。
彼の分け隔てない立ち振る舞いとまっすぐな目に、私はいつの間にかくびったけ惚れていて、少しでも彼を引き留めようとあれやこれや知恵を絞った。
「深雪太夫に会いにきたんだが…」
仕事熱心なメロウは「深雪太夫に会いにきた」の一点張りだった。姉さんに嫉妬しなかったと言えば嘘になる。彼との関係が終わることを想像したら胸が張り裂けそうだったし、彼の心が玉雪に奪われてしまうことがどうしようもなく怖かったから、姉さんに話を通すことなく誤魔化したり嘘をついたりすることもあった。
「ああ、そうだな。少しくらい休んでもバチは当たらねえだろう」
メロウはいつも私の膝を枕にして、遊郭の外側について話した。自分とは無縁のその世界は活気に満ちていて、喉から手が出るほど魅力的だった。
(酒の勢いでもいいわ。このまま抱いてくれたなら…)
淡い期待が叶う事はなく、明け方はいつもメロウの残り香に心が苦しくなる。籠の中の鳥はどう足掻いても自分の意思で羽ばたく事はできないのだから。
「深雪太夫が会ってもいいと…」
メロウがしつこく深雪太夫に会いたがるのはただの母親探しではないと知り、私はついに深雪太夫を説得した。
「本当か?!」
メロウはほんの一瞬喜んで、すぐに浮かない顔をした。彼の切れ長の目は私の心を見透かしていた。
「せめて、今夜だけは…わっちを抱いておくんなし」
振袖新造は客を取らない。そんなことはもうどうでもよくなっていた。
メロウはじっとこちらを見つめ、そっと唇を重ねた。それからはいつものように私の膝を枕にして、言葉なくただ朧月をぼんやりと見上げたのだった。
(ずるいひと…)
丹花の唇をそっと微笑ませても、湧きあがる涙は止められない。愛しい男を思い浮かべれば気が紛れるかと思ったが、ひどく心が傷むばかりだ。
無駄な抵抗とわかっているが、にじり寄る新楼主に手近なものを片っ端から投げつける。
「これこれ。これから楽しもうってのに…初めての客に涙たあ、失礼じゃあないか」
「遊女を馬鹿にしないでおくんなんし。例え楼主と言えど、心まで渡しはしなんしよ」
「威勢がよいのは結構だが、立場と状況をよく考えた方がいい」
新楼主は後ろ手に部屋の鍵をかけて、下品な笑いを浮かべた。投げるものも無くなって、ついに新楼主の手が帯を掴む。
「楼主が直々に水揚げしてやる。ありがたく思えよ」
(ああ、姉さん…)
万事休すと固く目を閉じる。玉雪を生きるよすがとしてきたのに、それすら奪われてしまうだなんて。
(私にはもう何もないのね)
深雪太夫と謁見したメロウが、あるいは維千というあの人形のような子が手がかりを掴めば、私はお役御免だ。メロウとはもう会うことはないのだろう。
たとえ手の届かない光であってもメロウは私の希望だった。忘れ得ぬ慕情を抱いたまま遊女を続けるくらいなら、いっそ死んでしまいたかった。
スルスルと解けた帯が白い足の甲に積み重なる。
「メロウ…」
「楊!」
バリバリと激しい音を立てて、部屋の戸が壁ごと突き破られる。突如として現れた大きな獣の手は、そのまま新楼主を叩き潰してしまった。
「楊…」
メロウは息を乱して駆け寄ってくると、着ていたロングコートを脱いで私の肩にかけてくれた。引き寄せた彼の上着からほんのりと甘いレモンの香りがして、ハッと我に返る。
「待たせたな」
メロウのオールバックにした髪は乱れて、息は切れ切れだ。彼は私の頬にそっと触れると、金寿木連を思わせる淡黄色の目に安堵の色を浮かべた。
「どうしてここに…?」
「おまえに心底惚れたから迎えに来てやった」
「笑えない冗談だわ」
「どうした?らしくねえ。俺が惚れた女はな…」
堰を切ったように強く抱き寄せられて、私の頭は真っ白になった。厚い胸に顔が埋もれて、メロウの力強い鼓動が伝わる。
「凛と咲き誇る花だ。どんな色形だろうが、どこに咲こうがな」
「私…」
締め付けられた喉から、やっと言葉を絞り出す。
「あなたと生きたい。いけないとわかっているのに、あなたを愛してしまった」
広い背をぎゅっと抱き寄せると、メロウの顔が近づいて唇が触れそうになる。
「うう〜ん…」
情けない唸り声が水を差して、新楼主がそこにいたことをハッと思い出す。メロウがポッと頬を赤くしてパッと顔を逸らしたので、つられて自分も俯きがちになってしまった。
「こうしている場合じゃねえ。楊、火事だ。さっさとここを出るぞ」
新楼主を担ぎ上げて、メロウが目を丸くする。
「こいつ、依頼主じゃねえか。なんでこんなとこにいるんだよ」
「依頼主?」
「人喰い妖怪の話を持ちかけたのはこいつだぜ」
「そういうこと…つまらない男」
玉雪を貶めたかったのだろうが…この男は、誰かを頼らなければ誰かと闘うこともできないらしい。他人が築いた地位を利用し、他人から搾取して生きているのだからそれもそうかと納得した。