第8歯 元楼主
「あれですか」
人気のない2階の突き当たりに、待ち構えるようにして確かに引き戸がある。そっと手をかけると中に人の気配を感じて、僕は右手に作った氷柱を握りしめた。
「お入りなさい」
重厚感のあるしゃがれ声に静かに戸を引く。真っ暗な部屋の中央に佇む声の主は、深い皺を刻む横顔に月明かりを受けて鎮座していた。
「維千かい?待っていたよ」
「失礼ですが、どちら様ですか」
「さすがに覚えてはいないようだね。遊郭の元楼主だよ。産声をあげた君をいちばんに取り上げたのは私だ」
「はあ。存じ上げませんね」
「その口ぶり、玉雪そっくりだ」
「玉雪?」
元楼主を名乗る男性がゆっくりと微笑んで、皺の彫りを深くする。
「君のお母さんだよ。どれ、維千や。こっちにおいで」
「何ですか。馴れ馴れしい」
「あはは、本当によく似ている」
年老いているとはいえ、敵とも味方ともつかぬ人物に近寄るのは躊躇われたが、母を知っているなら有力な手がかりとなる可能性がある。
無下に扱うこともできないので、ひとまず彼に従うことにした。
「よく来てくれた、よく来てくれた」
元楼主は白濁した目に涙を浮かべて、ごつごつした手でペタペタと顔を触ってきた。新楼主に触れられた時と違い、不思議と不快な気持ちはない。
意図が掴めないので、彼の気が済むまで好きにさせることにした。
「その目は見えていないのですか」
「ああ、患ってしまってね。君の顔を拝めないのは本当に残念だ。君のお母さんはそれはそれは美しいが、君のお父さんも目鼻立ちのはっきりした好青年でね」
「さようですか」
「バチが当たったのかもしれないね。玉雪に出会うまで、私は遊女たちを物のように扱ってきたから」
「病は病です。関係ないでしょう」
元楼主はハッとして弱々しく笑い返すと、「すまないね。ありがとう」と呟いて、僕に触れる手を引っ込めた。
「君たちには本当にすまないことをした。非情でも人間である私に、人間でないあの子は心を教えてくれたというのに」
「心を?氷妖は心がないと聞いていますが」
「そうらしいね。ただ、心は壊れもする。失いもする。そして、与え合うことも育てることもできるんだよ」
「はあ」
「人間の欲望、感情が渦巻くこの世界は嫌でも他人の心が流れ込んでくる。特に負の感情はすぐに伝染するんだよ。彼女が初めて得た感情は怒りだった」
「はあ」
これは話が長くなりそうだ。彼に敵意はなさそうなので、しばらく聴いてみることにした。もしかしたら、人喰いの証拠に関して何かしらの情報を拾えるかもしれない。
「病に伏せた遊女をかつての私はゴミのように捨てようとしてね。彼女たちから自由を奪い、飯を削り、わずかな儲けさえ搾取しておきながら、壊れたらまともに看病もせずさっさと入れ替える。自分がどれだけ人の道を外れていたか、今ならわかるよ。今さらどれだけ後悔しても遅いがね」
と言われても、維千にはその合理的な判断のどこがいけないのかわからない。彼女らは商品であり、遊郭は儲けを目的としているのだから、楼主が削れるところを削るのは当然だ。
ところが元楼主は唇を噛んで、悔しいといった表情をした。
「怒った玉雪は空っぽに流れ込んできた心をどう扱ってよいのかわからなくてね。遊郭を丸ごと氷漬けにしてしまったんだよ。花が散るのは早い…当時を知っているのはもう私と彼女だけになってしまった」
元楼主は歳を重ねてすっかり丸くなった背中をさらに丸くして縮こまった。
「彼女が次に得たのは悲しみだよ。世話になった花魁たち、報われない恋に落ちた遊女たち、馴染みの客との度重なる死別。理由は様々、死に様も様々…こんなところだから、碌な死に方をする奴はいないがね。初めは何も感じていなかった彼女は、気がつけば誰よりも涙を流すようになっていた。悲しみを知れば喜びを知る。優しさを知る。そうして彼女は君の父親に出逢い、幸せを知る。玉雪が心を得ていくほどに、私も不思議と幸福感が増していった。偽物の幸せは貪欲になるものだが、本当の幸せは誰かに分け与えたくなるものでね。楼主から大切にされるようになった遊女たちは自尊心を得て、こんな生業ではあるが目が生き生きとしてくる。生きる力はどんなに着飾るより、彼女たちを美しくした」
「はい。めでたし、めでたし」
「すまないが、もう少しお付き合いいただけないかな。手短に話すよ」
「申し訳ないですが、立て込んでおりまして。どなたか別の方にお願いいたします」
ただの思い出話と分かれば、それに割く時間はない。僕が踵を返そうとすると、元楼主は「待て待て待て」とこちらに何かを差し出した。
「玉雪がこれを君に、と」
「刀…?」
「氷妖の家宝だそうだ。妖と人間の関係が変わりゆく中で変化に取り残され、落魄れた氷妖が売り払ったものらしい。客を伝手に彼女が買い戻したそうだ」
「不要です。刀なんか無くとも、僕は強いですから」
「そう言わずに受け取ってやってくれないか。追い先短い年寄りの頼みだ」
「思い残すことができれば、長生きできるかもしれませんよ。ありがた迷惑ですので、僕はこれにて失礼いたします」
出直そう。時間を改めれば、このしつこい年寄りも諦めて去っていることだろう。
「君の父親は命をかけて君らを守った。君の母親は遊郭から君を逃すため、泣く泣く君を里子に出し、遊郭に一生を捧げ…こら、維千!聞きなさい!話はまだ…」
「涙の持ち合わせがございませんので。貴重なお話、ありがとうございました」
耳が遠いであろう元楼主にも聞こえるように、スパンッと大きな音を立てて部屋を出る。
「私にはもう、遊女たちを守ってやる力がない。儲け主義の新楼主から遊女たちを解放するために、あの子は遊郭と心中する気だ。私には彼女を止める権利はない。ただ、彼女には生きていて欲しいのだよ。どうか…どうか、あの子を止めておくれ」
引き戸に背中を向け、無視を決め込む。待っていればいずれ諦めるだろう。人間はそう気の長い生き物ではない。
「はあ…」
ほら、思った通り。戸の向こうから諦めのため息が聞こえてきた。
「仕方がない…引き受けてくれたなら、この刀に銘酒『六花』をつけて差し上げよう」
「お受けいたしましょう!」
ああ、やってしまった。気づいたら自分はスパンッと引き戸を開け放ち、二つ返事で元楼主の頼みを承諾していた。
「やはり酒好きか。君は父親にもそっくりだよ」
元楼主は孫を愛おしむように、にっこり微笑んだ。




