第7歯 新楼主
「遊女に自由はないけれど、花魁は部屋を持つことが許されているの。もし人を食らった証拠があるなら、隠せるのは2階の突き当たり。姉さんの部屋ね…」
「どうかなさいましたか?」
「もし、姉さんが人を食べていたなら…本当に殺してしまうの?」
「人の味を覚えた獣は殺すでしょう」
「姉さんは獣じゃないわ。お願い…殺さないでちょうだい」
「それは萬屋の雇い主に仰ってください」
薄暗い廊下を行く紫の足取りは重い。メロウ曰く、彼女は深雪太夫を姉のように慕っているから、心中穏やかではないそうだ。
(わからない)
自分は母親さえ赤の他人だから、人間が姉という存在にどういった感情を抱くのかわからない。赤の他人を血縁に感じる理由もわからない。
ただひとつ確かな事は妖と人間が和平を結んだ現在でも、一度人の味を知った妖は殺さねばならないという事実。そのことには妖自治区が設けられた際、妖と人間との双方が合意している。
心中穏やかではないとはネガティブな想いを抱いているということなのだろうが、具体的に何に対してどのような感情を抱いているのだろうか。
自分には想像すらつかなかった。
(…そんな事よりも)
すれ違う客や遊女からうっとりため息が沸いて、僕は思わずうんざりため息を吐いた。出会う人間は皆、自分の容姿を目にするなり美術品を品定めするような、希少な生き物に好奇を向けるような、とにかくゾッとする眼差しを向けてくる。
(妖怪でもない?人間でもない?違う。僕は妖怪でもあり、人間でもある。心の所在なんてどうだっていい。僕は僕だ)
母親が花魁だろうが人を食おうが、父親が花魁に心奪われたウツケモノだろうが晒し首にされようが、自分には関係ない。
妖からは疑似餌のような下品な容姿と蔑まれ、人間からは不老長寿で気味が悪いと軽蔑される。母方の血筋はかつて人間を食っていた妖というから、養父に守られた北条家の中でさえ、何をしたわけでもないのに自分の評判はすこぶる悪かった。
(あはは。あいつら、肥溜めみたいな目をしてら)
勝手にすればいい。自分には噂に左右され、先入観で判断し、陰口でしか関わりを持てない奴らと関わる気はさらさら無い。
自分の居場所は家族でも北条家でも友人でもない、自分自身だ。
(僕には僕さえいればいい)
背筋をスッと伸ばすと、先を歩く紫が不思議そうにこちらを振り向いた。
「あなた、堂々としてるわねえ」
「萎縮する理由はありませんから」
「萎縮する理由なら…」と戸惑う紫は、自分の胸元をじっと見ている。人喰いの証拠を掴むため、やむなく遊女に化たのだが…やはり男の自分では違和感があっただろうか。
「不自然ですか?」
「いいえ。むしろ、嫉妬するくらいにお似合いだけど…その…嫌じゃないの?」
「嫌ですよ。着物が重くて、動きづらいです」
「そうじゃなくて」
紫が言わんとしていることが自分にはわからない。こんな時は眉を下げて、首を30度ほど傾けてみるといい。
思惑通り、紫はようやく考えをはっきりと口にした。
「あなた、女装に抵抗はなくて?」
「好んでしようとは思いませんが、したところで何も不都合はありません。強面かつガタイの良いメロウさんや顔の大半がエナメル質のジョニーさんが女装するより、僕がしたほうがバレにくいでしょう?」
紫は眉を下げて情けない顔で笑っている。ふたりの女装姿を想像して、言葉を失ったといったところだろうか。
「写真、ご覧になりますか?」
「遠慮しとくわ」
「そうですか」
昨夜は泥酔したジョニーが「潜入役を決めるために女装大会をする」なんて言い出して、彼とメロウはゲラゲラ笑いながら化粧を始めたのだ。
母方の血筋か、父方の血筋か、はたまた養父によって鍛え抜かれたのか。自分はいくら飲んでも酔えないから、賑やかしくしているふたりを写真に収めた。
翌朝。彼らに写真を見せると二日酔いからか、女装姿が不快だったのか、吐き気を催したらしく、ふたりしてトイレに駆け込んでしばらく出てこなくなった。ふたりがあんなに笑っていたから、写真を見せたら喜ばれると思ったのだが…何故だか散々怒られてしまった。
「気にしていないならいいけど…あなた、少し変わってるわね」
「遠慮はなさらないでください。混乱を招くだけですから。僕は控えめに言って、相当変わっているそうです」
「控えめに相当…そうかもしれないわね」
紫がしなやかな指先を口元に添え、クスクスと品のよい笑いをこぼす。何故そこで笑うのか、僕は理解に苦しんだ。
「僕の言動は気分を害される方が多いようですが…紫さんは笑うのですね」
「あらん、おもしろいわよ。紙切れ一枚もはさまない正直さが、姉さんそっくりで」
「はあ。あなたも相当な変わり者ですね」
「そうね。耳障りのいい人間には辟易したのよ」
紫は深空に遠い目を向け、漆黒にくっきりと浮かぶ皓月に届くことのない手を伸ばした。
「なんだ、深雪太夫つきの振新じゃあないか。こんなところでどうしたんだい?」
「新楼主…」
「おいおい、新はいらないよ。この遊郭はもう俺のものだからね。それで?その子はなんだい?随分と綺麗な娘じゃないか」
「新しい禿でありんす」
「ほうほう…それはそれは。どれ、こっちに来なさい」
(ここは大人しく従うべきか)
下手に逆らえば、正体がばれる。この仕事には銘酒『六花』がかかっているのだから、しくじるわけにはいかない。
手招かれるままに下品な笑いを浮かべるその男の元に向かおうとしたのだが、紫の袖に阻まれてしまった。
「話ならわっちが聞きんしょう。この子はまだ遊郭を知りんせん」
「なら、俺が教えてやろうかい?」
新楼主にクイッと顎を持ち上げられて、非常に気分が悪い。さっきから子供扱いされるのも、見た目で判断されているようで我慢ならない。
(僕の外見は10代前半…といったところか。致し方ない。自分が理解出来ないものを他人が理解できるはずがないんだから)
僕よりも僕を知る養父にも、僕の年齢はわからないという。ただ、氷妖は長い寿命のほとんどを10代後半から20代で生き、それ以外は怒涛のように過ぎ去るらしい。
半人半妖ということがさらに年齢の推測を難しくしており、自分の身体は10代後半に向けて同年齢の人間よりもやや早く成長しているが、さらに早く成長する中身には追いついていないようだった。
(酒を飲むのもひと苦労だ。まったく、扱いづらい)
黙々と考えを巡らせて気を逸らしていると、新楼主はそれをいいことに僕の身体に手を伸ばしてきた。
(ああ、そうか)
何も言いなりにならずとも、氷漬けにして跡形も残さず粉々にすればよい。目撃者さえいなければ、例え氷が溶けて肉片が露わになろうとも花粉より細かくなった新楼主に誰が気づこうか。
(我ながら名案だ)
善は急げ。早速にまとう空気を冷やしたら、紫はハッと振り向いて穏やかなタレ目をキッと鋭くした。
何故だかわからないが、これは恐らく怒っている顔だ。無類の女好きである養父の教えによると、女性を怒らせてはいけないらしい。
ひとまず大人しくしておくことにした。
「楼主様?」
紫が艶っぽい声で新楼主を呼ぶ。僕の腰に回された新楼主の手は、紫がそっと絡め取り引き離してくれた。
「見ての通り。彼女は間違いなく、金の卵になりんす。聡明な楼主様なら、この意味をおわかりになりんしょう?」
新楼主は顎に手をやり考え込んでいたが、紫をじっとりした目で見つめて深く頷いた。
「いいだろう。紫、こっちに来なさい」
新楼主に肩を抱かれて、俯きがちになった紫の目尻がきらりと光る。
(涙…?)
新楼主には見えていないようだが、背の低い自分には彼女の泣き笑いがよく見えた。
「私のことは気にせず、先にお行きなさい」
涙の理由を聞きたかったが、何せこの仕事には銘酒がかかっている。優しくも力強い声に背中を押され、自分は先に向かうことにした。