
館の北の出口にある厩舎に
馬車の手配をし、昼食の後で
劇場へ出掛ける準備を終えた。
出口の馬車の馭者台には、
護衛でディーゴが立っている。

わたしはお気に入りの赤い上着に
白羊毛のコートを抱え、
黒色のソックスを履いた。
裾の短いキャシュクで足を露出した
普段の格好よりは良いと思う。
「うんうん。
ソックス、似合ってるね。」
スーは脚を見ながら言って、
わたしを車内に引っ張り上げた。
「エルテルのシルクを使ってるけど、
ニクスは黒色も似合うね。
トリンはどう思う?」
向かいの席には
スーに連れてこられたトリンが座っている。
「知らない。」
トリンはいつもの黒の上着、
スーは黄赤色に染めた上着で着飾った。
二人はその上に、
揃って黒色のケープもしている。
――わたしも衣装室から
ケープを持ってきたら良かったわ。
防寒用に重たいコートを取り出して
少し後悔する。
スーに連れてこられたのはトリンだった。
他のフランジのほとんどは舞踏室で
踊りや楽器を習っている。
認証管理になった
ファウナを誘ってみたけれど、
新入りの双子のミニとアミと共に
大量の手紙の処理に追われていた。

双子は下品な手紙を
低い声で朗読して愉しむ。
ファウナはまだしばらくは
楽ができそうにない。
最後にやってきたハーフガンが、
相変わらずわたしを睨んでくる。

サンサが猫達を伴って見送りに来た。

「スー、これを忘れてるわ。」
「お菓子?」
彼女はわたしと同じ物を予想した。
「違うわよ。」金属の擦れる音がする。
サンサはお腹に抱えた革袋を、
近くに座っているわたしに押し付ける。
「え? 重たいっ。 なに?」
厚手の袋の中には、
両の拳ほどの量の硬貨が詰まっていた。
「あなた達の席料よ。」
「サンサは舞台、行かないんだ。」
「あら、寂しいの?」
「疑問に思っただけだよ。
サンサは戯曲も書いてるんだし、
劇場の権利者だから。」
「わたしは権利を預かっているだけだもの。
今日はスーが行くのだから、
それで良いでしょ。」
サンサは続けて言った。
「ニクスは舞台だけではなく、
スーとトリンの面倒を見るのよ。」
その言葉にスーは微笑し、
トリンはわたしを睨んで不満を示す。
「それからあなた。」
サンサがハーフガンを見て手招きする。
「小言は聞き飽きたぞ。」
「わたしも言い飽きてるわよ。
それでもあなたに任せる為に、
あなたが覚えるまで言うわ。
子供を守るのは
あなたの仕事でしょう?」
彼女は白い手で、
彼の胸元の飾緒を軽く撫でるように触れた。
ハーフガンは顔で難色を示す。
「アルとイオスも連れて行きなさい。
熾火の代わりにもなるわよ。」
「はぁい。」
サンサに言われるまでもなく、
2匹は馬車に乗り込んでいた。
「トリンも。
毛布とクッションを入れたから、
客席に着いたらそれを使いなさい。
お尻が痛くなるし、
終わる時には寒くなるわよ。」
イオスはわたしの太腿の上に乗って、
硬貨の袋の紐で遊びはじめる。
黒猫のアルはスーの肩に登り、
彼女の頭の上に顔を乗せて寛ぐ。
馬車が動き始めてから
スーが窓を僅かに開けると、
冷たい風が入り込んで
食後の眠気が消え失せる。
「ニクスとお出掛けなんて、
久しぶりだね。
同じ部屋なのに。」
年上のスーが
わたしの腕に抱きついて甘えてくる。
頭の上のアルが細く鳴いた。
「スーはフルリーンに構ってばかり
だったものね。」
わたしに言われ彼女は苦笑する。
わたしも闇の館で娼婦達を相手にして、
互いに忙しくしていた。
「…劇場ってなんの公演?」
トリンが訊ねる。
「わたしは知らないわ。」
「知ってたらつまらないよね。
私も初めて行くから。」
「あなたも知らないの?」
スーのこうした言動に対して、
トリンのような反応を見るのも
久しぶりだった。
「昔、劇場で酷い事件があったもの。
でも戦争も終結して
ユヴィルも居ないから、
今の治安は良いはずだよ。」
隣のスーは寄り掛かって
わたしのお腹に顔を埋める。
アルとイオスがスーを迷惑がって、
トリンの隣に置かれた毛布の上に逃げた。
お喋りなスーも、
今日はあまり喋ってくれない。
わたしはスーの金の髪を撫でて、
窓から流れる景色を眺めた。
馬車は川沿いの街道に出ると、
劇場のある南に移動する。
東西に分かれる川の手前に、
羊の看板が見える。
サンサとテマッサを食べた、
元ドレイプのノーラが経営するガロムの店。

街娼の姿はあっても、
店の擁壁に立っていた
番犬のトゥルムスは居ない。
馬車に揺られて店を過ぎ去る。
慎みを知らない闇の館の娼婦達は言う。
『あそこの主人は殺されたのさ。』
『傭兵と護衛が殺し合ったのよ。』
『あの女主人は
エルテルの娼館に売られたそうよ。』
ただのフランジのわたしは
彼女達の流言を諫めはせず、
否定もできなければ事実も証明できない。
他人の言葉に鍵はかけられないし、
群衆を動かせるだけの地位もない。
川に浮かぶ落ち葉と同じで、
流れる水の力には逆らえない。
馬車は街の南北を繋ぐ橋を渡る。
無産街に入ると景色は色褪せ、
乾燥した空気は埃っぽい。
緑は少なく草木は枯れて、
石造りの道は途絶えて荒れている。
道は車で混み、馬の進みが遅くなった。
腐った獣皮を重ねただけのテントが、
道にまで広がる分水街北部の集落。
外の臭気を厭い、窓を閉めると、
花売りの子供が馬車を追って走っている。
分水街が出来たのは、
ソーマが開拓した東の地、
エルテル領を襲った、大水害の頃まで遡る。
雪解け水で川が氾濫し、
作物や家畜、家屋までもが流された。
その水はゼズ山脈を迂回して、
洞窟港にまで到達したという。
この災害の後に労働者が集められ、
大陸からの奴隷達と共に道路の舗装、
護岸の整備を行った。
大水害が入植暦60年のことなので、
この街は約300年も昔から存在している。
各地の法で裁かれた犯罪者、
政治犯、脱走奴隷などが労働力として
この地に連れてこられた。
罪人達の多くは
いまの夜の館が建つ、
赤土の丘で処刑された。
処刑はこの街の唯一の娯楽とさえ記載され、
罪人のみならず、牧地の脱走を繰り返した
エルテル領の羊などの記録もあった。
そんな滑稽さも相俟って、
名前の無かったこの街が、
長らく刑場と呼ばれる由来になる。
以降しばらくは、目立った記録はない。
川が東西に分かれる山の岩盤を削り、
川の北側は豊富な石材を利用した
石切場になった。
いまもこの街は運河を利用して、
石材を艀に乗せて運んでいる。
貯水池の拡張や運河、水道の建築、
浚渫などの治水工事が続き、
土地と仕事を求めて人々が住み着いた。
しかし粘土質のこの土地は農耕に適さず、
煉瓦や切り出した石材以外の
生産物には恵まれなかった。
治水工事を担っていたカヴァの氏族は
島の西側へ移りって建国を宣言し、
この街は中継地点として商人が往来した。
街に中継所が設けられると競馬が行われ、
賭場と娼館が増え、詐欺と暴力に溢れ、
無法者達が横行する。
日時計島に鐘楼が建てられ、
大陸から来た無法者達によって
街の北側に闘技場が作られた。
これも記録によると100年も昔になる。
直近の20数年で分水街は変貌し、拡大した。
湖を占領する南のネルタと、
西のカヴァの関係が悪化し、
2国間で長い戦争が始まる。
ネルタは歴史の中に突然あらわれる。
それまでネルタは天蓋山の麓の
広大な湖の名前に過ぎず、
禁足地とされる場所に住む者達は、
カヴァと同じく盗賊の拠点と記された。
両国で戦争が起きる前から
湖に築いたダムの崩壊があり、
ネルタの難民を街の北部に受け入れた。
分水街はエルテルほどの
大規模な農地を持たない。
難民には働き口も食料も与えられず、
他者から奪うか、飢えて死ぬのを
待つしかなかった。
街娼と犯罪者、死体が日ごとに増え、
治安は崩壊していった。
当時の総督だったメリエ家が
彼らに労働を与える目的と、
ネルタの侵攻と難民の流入を防ぐ
防壁の建築を進める。
無法者達から土地を守る
という理由を口実にして、
賭場や娼館に税を課した。
分水街の財政は潤い、
資産家達は資産を守る為に、
東側の治安が大幅に改善された。
規制を敷いて合法化した闘技場や、
競馬などの賭け事を楽しむ目的で、
各地から分水街を訪れる旅客が増えた。
貧しき者は一晩で巨額の富を得て、
貴族が失った金貨を求めて
川を浚うという、
事実か嘘かも分からない話が各地に流れる。
そんな話を信じて、星鳥もやってきた。
街の東側の貴族は私腹を肥やすばかりで、
北側の難民の問題は解消されなかった。
かれらには仕事が与えられず、
権利が無ければ納税するはずもなく、
不満を訴えて恭順も示さない。
税を支払わないかれらに
土地や建物などの資産の所有や、
身分などの権利が認められるはずもない。
しかし当時の総督は暴動を恐れ、
難民を追い出すこともできなかった。
街の北側は難民が群れ集い定着し、
貧困層の集落と化せば無産街と蔑まれ、
かれらは土地を不法に占領していった。
無産街はネルタの難民のみの街ではない。
カヴァの氏族が居なくなった土地には、
大陸からの移民、無法者達が残り、
下流階級の肉体労働者が富と名誉と、
娯楽を求めて闘技場に集まった。
大陸から連れてこられた奴隷や受刑者、
飢饉で仕事を失った農民、浮浪者、
負傷兵、戦災孤児、病人、老人、
口減らしの捨て子、石臼を回した星鳥――。
様々な問題が幾層にも積み重なっている。
それに加えて窃盗、詐欺、殺人などの
犯罪者が身を隠すのに適した混沌の街。
太鼓を打つ娼婦、笛を咥える男娼達。
子供から老人まで、
通り過ぎる馬車を出迎え、
買い手を求めて道端に並ぶ。
子供が大人の相手を規制する、
ハミウス法の原案が4年前に出来た。
「いた…痛い痛いっ!」
本で読んだ歴史を振り返るわたしに、
スーが抱きついた状態でお腹を締め付ける。
彼女はわたしの太腿に向かって、
声が漏れないように叫ぶと、
振動が身体の奥の方にまで響く。
「ふぁ…もう着いた?」
「あれが劇場?」と、トリン。
無産街の中に、
石造りの巨大な建物が見えた。
スーは起き上がって窓から東を見る。
「あれは闘技場だね。」
「なに?」
見つめられて困惑するトリン。
「あれがメリエの劇場だよ。」
目的地に着き、馬車が止まった。

▶